小説「落花生」02
【本作を読む前に】
「落花生」はダークファンタジーの小説です。
作中に残酷な表現、グロテスクな表現が一部あるため、苦手な方は読まないようお気を付けください。
また、こちらは月に一回投稿予定の連載原稿になります。
挿絵や文庫本風にデザインした「完全版」を後に作る予定であることを、予めご了承ください。
また、上述した完全版では文庫本風にデザインした、画像で読める作品にする予定です。
そのため、本記事ではルビを振っていません。
今回から、前書きにルビを置いておこうと思います。
〈ルビ〉
「花織」かおり 「三和土」たたき
「只」ただ 「迷い人」まよいびと
「巣喰」すぐい 「琥珀流」こはくりゅう
「紲海岸」せつかいがん
「落涙峰」らくるいほう
「康人」やすひと
02
花織はシングルベッドに体を預けるなり、いつの間にか眠ってしまっていた。
目が覚めてもカーテンの向こうは暗い。街灯の明かりと、時折通る人か何かの影。色に乏しい市街は相変わらずだった。
カーテンを直して、改めて部屋を見渡す。首を巡らせるほどの広さでもないが、電気の明かりでワンルームは少しだけ明るい。
玄関から続く板張りの部屋、思えば花織は靴を履いたまま眠ってしまったらしい。下駄箱も三和土も無いので、脱ぐ機会を失ってベッドから足を出したままだったようだ。
リビングにはシングルベッドと小さなサイドテーブルが一つだけ。ベッドが占めている分を含めて六畳程度の広さだろうか。
リビングを出れば玄関に続く短い廊下で、狭いキッチンと、ユニットバスに繋がるドアがある。ユニットバスへは一段上がる必要があるため、花織は靴を脱いで中を見ることにした。
ユニットバスにはカーテンが無く、洗面所と共有の石鹸が備えられているだけ。
小綺麗ではあるものの、贅沢では無い。そういう物件らしかった。
ユニットバスを出てキッチン周りを漁ってみると、食器類も一応は備えられていた。平皿とボウル皿が二つづつ、スプーンとフォーク。調理器具はフライパンと小さな鍋、包丁もあるが、花織はそこで違和感を覚えた。
「……箸が無い」
呟いた時、玄関がノックされる。
慌てて扉を開いた先には、只が立っていた。只は眉を顰めて花織を見る。
「花織、まず返事をしろ」
え、と零してぱちくりとしていると、只が開かれたままの扉をノックする。
「ノックをされたら返事をする。俺か、役場の者なら名前と要件を言う」
それから、とは言葉にせず、只は玄関の覗き穴を塞ぐ細長いスライド板をずらして、その脇を二度指で叩く。
「そこで初めてこれを使え。昨日のような〈身体狙い〉が来ることだってある」
要するに、深刻なまでの険しい顔をしているが、只は花織を心配してくれていたのだった。
くすりと花織が笑うと、頭に軽い衝撃が当てられる。上目遣いで見る先は何かで塞がれていた。
頭に乗せられたそれを只が下ろす。文庫本よりも少し大きい、ハードカバーの本だ。
「昨日言っていたやつだ。読んでおけ」
本を受け取ると只はすぐに歩き出そうとする。
「あの、昨日って、私……丸一日寝てたんですか?」
肩越しに視線をくれる只の表情は、いつもの険しさに戻っていた。
「ゾンビは疲労の蓄積で勝手に眠りに落ちる。誰であろうと確実に八時間、目を覚ますことは無い」
「じゃあ今は……」
尻切れ蜻蛉な花織の言葉に、只は少し考える間を置いて振り返った。
「地獄に陽が差す事は無い。時間は、あるだろうが知る術が無い。俺が言う昨日とは、この体が目覚めてから眠りに落ちるまでだ。それを千九百回。五年に近い時間をここで過ごしている」
花織の目を見る只は動かない。花織もまた、動けなかった。
何かを言いたくて吸った息が詰まり、細く吐き出すを繰り返す。その呼吸音が次第に震えていく。
「昨日も言ったが、これが俺達の世界だ。知っている世界は俺達が存在する世界ではない。泣く事じゃない」
自覚無く涙を流していたらしい、花織は慌てて左の袖で顔を拭った。
「俺は今から役場に行く、お前は知識をつけておけ」
声は出せなかったが、頷く事で只に答えた。
只の足音が去った後で漸く涙が引いてきた。涙を拭った左手には、昨日までは無かった朱色の血管が走っている。袖を捲ると、爪の痕をなぞるように指先を目指す蔦が、中指の付け根に花模様を描いていた。
只が持ってきてくれた本は、地獄についての情報を纏めた物だった。
五百ページ弱の本は八割以上が空白で、残るページも図や簡易的な地図が多いために思いの外早く読み終わった。
花織がこのタイトルの無い本から得たものは、大きく二つだった。
実験の記録と共に確定された、肢体ヶ原、市街、そして紲海岸と落涙峰と名付けられた土地の性質。
それから、この地獄で生きる ―― 本文の表現では「動く」者達を、迷い人、ゾンビ、巣喰、コスモポリタンの四つに大別していること。
その逆として、それ以外のことはまだ研究の余地があるようだった。
各部で所々に差し込まれた考察や、細やかな参考情報などから、地獄は相当古くから存在し、またこの本の筆者はそれほど長く地獄に居る訳では無いのだろうと考えられた。
羅列された記録の中には、花織が閉口するようなものも存在していて、この場所が如何に孤立した場所であるか思い知らされる。
それから、昨日の康人と只のやり取り、そこに嘘があった事も。
膝の上に乗せた本を閉じる。
表紙に乗せた左手、その中指に、ゾンビ特有の琥珀流が指輪に似た花模様を浮かび上がらせている。
ゾンビとは、肢体ヶ原の対流によって組み合わされた人体の集合体。大半は脆く歪な人の成り損ないとして生まれ出で、また土に還る。
しかし、ごく稀に完全な人型、完全な自我を持つ個体が生まれ、肢体ヶ原を抜け出すことで琥珀流が顕出する。親元を離れた子に、肢体ヶ原という親が授ける印。
花織は左の手を握り込む。その手を右手で包み、胸元に抱き寄せた。
花織という個体であり、誰かの体である自分。
ゾンビは人体の集合体という特性上、個の意識を持ちながら誰かの記憶を共有する。
では、私の帰りたいという気持ちは、この渇望は、誰の物なのだろう。
迫り上がる吐き気に背が丸くなる。表紙に額が着き、花織の嗚咽が静かな部屋に反響した。
「ごめんなさい」
一晩置いて訪れた管理室、康人は昨日とは異なるスーツを身に付けて書斎机に着いていた。
此処にはもう一人、向かい合うソファに体を預けてティーカップで珈琲を飲む只が居た。
「花織さんにはどこまで説明を?」
書き物の手を止めることなく、康人が問う。
「本を渡した。今頃読んでいる筈だ」
「はは、相変わらずの放任主義」
「俺が口で言うより早いだろう」
それには康人の反論は無く、無言の肯定がされた。
「でもね、あの本は確実すぎるだろう。あの子の感じだと、また説明を求められるんじゃないかな。倫理的に、とか言ってさ」
只は黒い水面に目を落とす。窓から差す街灯の明かりと室内の明かりがあって尚、そこに映る白い只の顔よりも、直線的な琥珀流が明瞭だった。
「あいつは人の話だけは聞いている。昨日の一件でその辺りには折り合いをつけたはずだ」
はず、ね。硝子筆が机を叩く音に紛れ、康人の呟きは書斎の静けさの中でもはっきりと響いた。
只がカップの珈琲を飲む音も。
「君は珈琲が好きだね。折角飲み食いを必要としない体なのに」
康人の言に只は薄く笑う。
「お前こそ、必要でもない細かな作業までやり続けているだろう。何年そんな事を続けているんだか」
硝子筆が止まった。
「時折ね、不思議なんだ。……只、お前はどうしてそこまで人間でいられる?」
くつくつと笑う声に、康人は只を見た。
薄明かりの中、只は無味乾燥の笑顔を浮かべている。
「帰った時の為に」
只の瞳孔は暗い。深く、深く、光の届かぬ瞳。
康人は何も言えなかった。
「お前も、此処に居る奴らはそうだろう。どうしようも無いほど帰りたいんだ。あの世界に」
淋しい笑顔を湛えたまま、只はローテーブルにカップを置く。
「俺とお前なら日本だ。マリアならカナダだろう。日本鎧のくせしてヘンリーはドイツに。あの案山子はフランスか。迷い人共はどんな顔をしてたんだろうな。羨ましいよ。俺も……」
康人は逆光の中で揺れた、頭を振ったようだった。
只は自分の足下に目を落とす。
「俺は、俺として帰るぞ。あの世界に」
康人には只の頭だけが見えていた。
燃えるように光る琥珀流が、只の体を這っている。
巻き付くように、縛るように。
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