「苦難、遍く」小説:PJ19

  はじめに

 本作「パラレルジョーカー」には、暴力、暴言、戦争や著しい差別などの描写を含みます。
 それに伴い、グロテスクな描写、憂鬱な気分にさせる描写を含む為、苦手な方は本作を読む事をお控え下さい。
 また、本作は創作物であり、実在するあらゆるものへの批判や、思想の拡散を目的とした物では無い事をご理解下さい。

 01話はこちら。

  目次について

 本作では本編中の場面転換を軸にnoteの「目次機能」による見出しを付けております。
 表記は「 ‪‪✕‬‪‪✕‬‪‪✕ ‬」が大きな場面転換。
 その後に付く「 01の零 」など、末尾の漢数字を見出しの番号代わりとしております。
 例外として、長い節にも小見出しによる区切りを付ける場合がございます。
 しおり代わりにご活用ください。


  19 苦難、あまね

 深紅の獅子は砂を強く蹴り、夜半の砂漠に吹く風と共に行く。
 敵兵の死体を、原型が不明な肉塊にくかいを、崩壊した砂岩製の集落に満ちた異様な気配も、血の臭いも、全てを踏み越え、砂と共に蹴り出す様にして、南へ、南へ。
 意識を取り戻し、トラゲと別れてから、ライガは己の感覚が今迄いままで以上に鋭くなっていると気が付いた。
 砂漠を駆ける最中に幾度と無く訪れている感覚は、臭いとも音ともつかない、しかし確実に知覚できる、振動の様なもの。
 其れは肌で感じるものとも異なり、不可視のもやを五感の全てで捉えたかのごとく全身で感じられた。
 一定の間隔で同じ動きを伝えて来る未知の振動。ライガは其れを拍動だと考え、だが臓器にる物とは異なると判断し、律動りつどうと呼ぶことにした。
 一つはライガの背後からであり、駆ける程に遠ざかっていく。
 ライガが向かう先からは四つの律動が感じられ、二つはぐ目の前とも数分駆けた先とも取れる曖昧な距離にある。
 もう一つは非常に弱いが二つよりも先に。
 最後の一つは遥か遠くから強烈な圧迫感を放っていた。
 律動の正体を、トラゲの様に変化した人間であると推測して、ライガは駆ける。
 急ぐ理由は、救う為でも、殺す為でも無い。
『オレが生きる為に敵を殺す』
 己の口から吐いた言葉を胸中で反芻はんすうして、迫る小高い砂丘を一跳ひととびに越えた。
 ライガの言う『敵』とは、グリーセオだけでも、カーニダエ帝国だけでも無く、今、この時代そのもの。
 満足を知り、我慢をも知る人々が、他者をしいたげ、利用し続け、なおも飽き足らずに繰り返している現代だった。
 その途方も無い敵に立ち向かう為には体が足りないのだと、トラゲに、グリーセオに、そしてフランゲーテの騎士らに叩き込まれている。
 であれば、必要なのは己の強さと、共に戦える者。その数。
 そう考え、次に迫った砂丘をにらみ、大きくんで砂丘のいただきに降り立ったライガは、最も近い律動の源を見下ろした。
「……なんだ?」
 ライガが見下ろす先で、灰色の襤褸ぼろまとってうずくまる、人と獣を掛け合わせた様にいびつな生物が顔を上げ、つぶやく。
 灰色の獣人じゅうじんはライガを見詰めて目を細め、かたわらに倒れている獣を隠す様に立ち上がった。
「おい、コイツは食えたもんじゃねぇよ。分かったら他を当たりな」
 獣人はそう言ってライガを追い払う手振りを見せる。
 一見して戦意の無さそうな仕草とは相反あいはんして、ライガが獣人から感じる律動は強く、激しく成っていった。
 瞬間、ライガは獣人目掛けてび、同時に獣人もまたライガに向かって駆け出そうとし、振り抜かれた鋭い獅子の爪に目を見開いて砂地に伏せる。
 前肢まえあしの攻撃をかわした獣人を、ライガはれ違いざま後肢うしろあしを伸ばして踏み付け、首許くびもとに爪を掛けて全身をひねった。
 獣人の肩に突き刺さった爪が回転し、右の鎖骨さこつえぐり飛ばされた獣人は悲鳴を上げ、暗灰色あんかいしょくの煙と化して辺りにただよう。
 煙を吹き散らして着地したライガは、獅子のこうべを巡らせて煙の様子をうかがい、腹の下から律動を感じ、其処そこへ踏み付ける様に前肢を突き出した。
 辺りに立ち込める暗灰色の煙が収束しかけ、灰色の獣人を形作る最中に心臓部を押さえ付けられた相手は、ライガのてのひらで体の半分以上が隠れてしまう程の、小さな獣の形と成って現れる。
「……成程、お前はそういう魔法か」
 深紅の瞳が小さな獣を見下ろして、抵抗を見せていた獣は観念したかの様に四肢ししを投げ出した。
「分かった、降参だ。アンタに従う。だから、な? 役に立つぜオレは。なんたってフランゲーテの騎士を一人ったんだ」
 未だ強い律動を放つ小さな獣を冷たく見下ろし、ライガは鼻を鳴らす。
「どんな奴だ」
「どんなって…………黒い長槍ながやりを持ってたかな、荷物になるんで折ってその辺に捨ててある。あとは……ああ、アイツ。青くて長い首布を巻いた奴。アレと一緒に居たよ」
 小さな獣を見たままライガは脳裏の記憶を呼び起こし、青い首布を巻いた男――グリーセオと、ハンソーネ・トロンバと名乗った白銀の甲冑姿かっちゅうすがたを思い出した。
(黒い長槍……確かあの女の周りに居たヤツか)
 胸中で呟き、ライガはゆっくりと前肢に体重を乗せる。
 じわりと押し潰される小さな獣は悲鳴を上げ、ライガの前肢に小枝の様な両腕で抵抗を見せるも、ライガの行動を止めるに至らない。
「や、やめてくれ! 何でだ! 教えたろ!?」
「お前、狡賢ずるがしこいヤツだろ。此処ここで殺しといた方が良い」
「ま、待ってくれ、ようやく……これからなんだ! オレらの敵はカーニダエだろ!? なぁ?」
「……で、その次は?」
「え……?」
 冷たく見下ろして来るライガに、小さな獣はか細い声を漏らし、ライガの真意を探る様にきょろきょろと瞳を泳がせた。
「カーニダエを潰して、その次は何をするかって、聞いてんだよ」
 ライガは前肢に体重を乗せ、その下の獣から骨の折れる音を聞いてから、ほんの少しだけ重心をらす。
 小さな獣は一際ひときわ大きな悲鳴を上げ、泣きじゃくり、獣が発する律動もれに吊られて弱まった。
「…………勘弁、してくれ……分かんねぇよオレには……生きてりゃ何だって良い…………普通に生きるより、カーニダエのヤツらを殺すのが楽しいからやってるだけだよぉ……」
 滂沱ぼうだを流して言った獣から前肢を離し、ライガは獅子の顔を小さな獣へ突き付ける。
「そうか。じゃあ好きなだけ殺させてやるよ。オレの駒になれ」
 鋭い牙を見せ付けて言い、鼻先の小さな獣が必死にうなずくのを見遣みやり、ライガは獣から顔を離した。
「傷が治り次第しだい南に来い。今のお前なら数分でその傷は治るだろ。
 ――あと、彼処あそこで伸びてる奴も連れて来いよ。従わなけりゃ探し出してぶっ殺す。……いいな?」
 この言葉にも、小さな獣は言葉も無く縮こまったまま頷く。
 そうした小さな獣をライガは念を押す様ににらみ付けてから、駆け出した。
 二つの弱々しい律動が背後へ去り、遠ざかる。
 残る二つは、南に。

  ‪‪✕‬‪‪✕‬‪‪✕‬ 19の二

 〈スナド戦線基地〉周辺の砂漠地帯、放射状に点在する集落は大まかに三つの層に分けられる。
 その最外周層を形作る集落へ、一頭の青碧色せいへきいろの熊――エクゥルサを列の中に加えて、六頭の黄土色おうどいろの牛――クラクホンが駆ける中、先頭で青色の羽織をはためかせるマリアンヌが振り返った。
「後続、二人一組に別れて集落を東西の外周から探れ。あたし含めて残り三人は中央の大通りを突っ切る。何事も無けりゃ集落の向こう側でこんにちは・・・・・だ。――行け!」
 マリアンヌの合図を待って、一切の迷いも無くよろいを着込んだ戦士らが東西に二人づつ駆け出す。
 其れを見送って、マリアンヌは〈第三ナスス駐屯ちゅうとん基地〉の兵士に視線を移した。
「おい、今考えられる限りの敵の兵器を教えろ。あの集落で使われそうな分だけな」
 マリアンヌにかれ、兵士は記憶を探る仕草を見せてから口を開く。
「敵基地で用いられる武器は魔法の無いなたと、れを槍にしたものが大半です。過去に弓を使う様子も見られましたが、弓矢に適した資材が無い為か、練度は低く。
 それと、本日の奇襲小隊から先んじて帰還した者によれば、巨大ないしゆみ此処ここより一つ先の集落で確認されたとか……。この集落に配備されているかは不明ですが、警戒なされた方がよろしいかと。
 ――思い当たる兵器は以上四種類。あとは、生体兵器が何処どこに居るのかが不明です」
「じゃあ生体兵器とやらの他に、魔法への警戒は必要無さそうか?」
 兵士の説明が終わるや否や重ねて問うたマリアンヌに、兵士はうめく。
「警戒すきものは生体兵器の他には余り……。ただし、前例はあります。八十年前には、生体兵器とは別に氷を発生させる魔法が確認されたとか……。
 以来、其の魔法は確認されておりませんが、フェリダーは荒涼としているぶん見晴らしが良く、偵察が極めて困難な土地です。新たに開発、投入されていないとは言い切れません」
 兵士の声を聞きながら、マリアンヌは進む先をにらんだ。
「じゃあ、基本的には即興でやり合うしかない訳か……」
 誰に向けるでも無くつぶやいた声に、兵士が謝罪を述べる声が続いたが、マリアンヌは聞こえなかった振りをする。
 夜闇の中でもざらざらとした質感が見て取れる程に迫った、砂岩製の建物群から成る集落は、遠目に見ていた時と変わらずに静寂を保ち続けている様に見えた。
 しかし、マリアンヌはその何も無い様子こそ怪しむ可きである、という直感からは逃れられず、一切の違和感も見逃さないよう、崩壊した集落の隅々にまで目を配る。
 そうしていたからこそだろう。集落の中央を貫く大通り、その真ん中に立つ影を数秒間だけ瓦礫がれきか何かだと思い込み、集落の中へとクラクホンの足が踏み込んでからようやく、手綱たづなを強く引いた。
「――生体兵器か……!? アレが!」
 彼我ひがの距離はおよそ百メートル。それだけの距離を置いてなお、圧迫感を覚える其の人影――いや、手足の太い大猿の様な影は、四メートル近い体躯たいく佇立ちょりつさせている。
 後続がマリアンヌにならって手綱を引いたか、背後から二頭分の不満気ふまんげいななきが響き、マリアンヌは巨人から目を離さずに顔を振り向かせた。
「おい、フェリダー人は皆あんな奴か?」
「いえ、まさか……」
 だよな。とは胸中で呟いて、マリアンヌは顔の向きを変える。
「アレ、れると思うか?」
 傭兵稼業ようへいかぎょうを共にする部下へ問い、期待していた通りの答えが返されるのを待つ、一秒。
 巨人へ向けて、夜闇を切り裂く光条こうじょうが走った。
「――馬鹿がッ!」
 マリアンヌが毒突どくづき、クラクホンを走らせると同時に、正確に巨人の顬へ飛び込んだ矢が高い音を立てて弾かれ、巨人は矢を放った主の居る東を向く。
 緩慢な動作はそこまで。
 敵を視認してか、巨人が猛然と駆け出して、崩れた砂岩製の建物の影へと消えた。
 マリアンヌはその後を追い、地響きに続いて膨らむ様に弾けた瓦礫を肩や腹に食らってクラクホンから叩き落とされる。
 砂に覆われた硬い地面を転げて、幾人かの悲鳴地味た雄叫おたけびを聞き、マリアンヌは視界も定まらないままに大きく息を吸った。
「全員退け! 砂漠に出ろ!」
 叫び、視界の隅に映った黄土色の影へと手を伸ばして、その手が硬い感触を伝えると同時にび上がり、マリアンヌはクラクホンの背に戻る。
 マリアンヌのクラクホン――グラスは背に主人の重みを確かめて速度を上げ、集落を南へと抜け出そうとする。
 大まかな進路はグラスに任せて、マリアンヌは手綱を引いて東寄りにグラスを走らせ、いた右手で襟元えりもとから小さな笛を取り出し、思い切り吹いた。
 甲高かんだかく鳥が叫ぶ様な笛のが響き、動揺を見せていた兵士とマリアンヌの部下が撤退の指示に従う。
 彼らの様子には構わず、マリアンヌは笛を二度三度と吹いて、別れた仲間へ緊急を伝える事に集中し、背後、北東を振り仰いだ。
「……クソッ、あんなのどうしろってんだ!」
 マリアンヌが吐き捨てた先で、砂と瓦礫を巻き上げ、たけり狂う巨人が咆哮ほうこうを上げる。
 其の左手には弓を手にした戦士がクラクホンごと握り込まれ、大型の猿が駆ける時にそうする様に、砂地に叩き付けられて飛沫しぶきと破片に成った。
 入りじった残骸ざんがい足蹴あしげに駆ける巨人は、眼前の戦士目掛け両腕を使って速度を上げ、太く長い四肢ししは溶岩に似た輝きを放つ。
「――このまま本隊に戻る! おい、エクゥルサの方が足が速いだろ! 頼むぞ、迎撃用意だ!」
 付近の二人へ向けて叫び、マリアンヌはグラスを南西へ向けて走らせた。
 迫り来る、重々しい足音を背に。

  ‪‪✕‬‪‪✕‬‪‪✕‬ 19の三

 大きく体が揺れ、その後も間断なく揺さぶられる感覚を受け、意識が覚醒していく。
 覚醒と共に開いた目が見た物は、くら前橋ぜんきょうの膨らみと、暗い毛並みの馬、その首筋越しに吹き去る砂原だった。
「グリーセオ殿、気が付かれましたか!」
 かたわらから聞き覚えのある声が響き、グリーセオは緩慢な動作で其方そちら見遣みやり、声の主であるジェンナロの姿を見るや否や、ふらりと体勢を崩して鞍に手を突く。
「グリーセオ殿、これを」
 別の声は背後から響き、目の前に差し出された革製の水筒を受け取って口を付ける。
 ぬるい水を飲み下しながら、グリーセオは自身の肉体が想像以上に疲弊し切っている事に思い至り、背後を振り返って水筒を返しつつ息を吸った。
「……アキッレ男爵だんしゃく、どうなったんだ、あの後」
 グリーセオを抱える様にして馬を駆るアキッレに問い、対するアキッレはちらとグリーセオの横顔を見てから、進む先へと目を移す。
「ハンソーネ隊長の元につどった騎士は、私も含めた四名が生存。先の戦闘の最中、ヨハンは敵にさらわれたと見られ、捜索を打ち切った後に、意識を失っていたリヒャルトの死亡を確認しました。
 リヒャルトの遺体と、意識を失っていたグリーセオ殿を乗せた我等われらは、そのまま南西へと進み、つい先程兄上――ジェンナロ副隊長率いる〈コーア〉本隊と合流。
 しかし、本隊も無事ではありませぬ。敵の生体兵器――人型、獣型けものがた混成の集団に襲われ、数を減らしております。
 生体兵器は集落の建物から姿を現したという兄上の報告を受け、今は集落を避けつつ、南西の端にある集落へ。そして、その先にある〈第三ナスス駐屯ちゅうとん基地〉へ向けて撤退を続けている所です」
「そうか……」
 グリーセオは状況を理解した旨だけを一言に乗せて、他には何も言えずにうつむいた。
「グリーセオ殿、これだけでも口にして腹を満たしておいて下さい。この先にも何があるか分かりません」
 そう言い、再び背後から差し出されたアキッレの手には、小さな麻袋あさぶくろが握られている。
 グリーセオは大人しくれを受け取り、紐で縛られた袋の口を緩め、篭手こてめたままの手で中身を取り出そうとした時、自身が武器を手にしていない事に気が付いた。
「すまない、アキッレ男爵――」
「おや、食べられない物でもありましたか」
「いや、そうじゃないんだ。俺の武器は……回収されているのか?」
「ああ、それでしたら彼が」
 言ってアキッレが掌で示す先を見れば、アキッレの馬と並走する一頭の青碧色せいへきいろの熊――エクゥルサが居り、向けられた視線に気が付いてかグリーセオを振り仰ぐ。
 その口にはグリーセオの得物えものである〈マクシラ〉の一振りがくわえられており、れを認めたグリーセオの背が軽く叩かれた。
「もう一振りは私がお預かりしておりました。お返し致します」
 アキッレが差し出した鋼の短剣を左手で受け取り、短剣が左手用の物である事を確かめたグリーセオは、小刻みに剣を振るって篭手こてへと変じさせる。
「おお……。戦闘中にも見ておりましたが、なんと精巧せいこうつ複雑な剣……。それに、刃に傷一つとてありませんな」
 アキッレがこぼした感嘆の声を、グリーセオは複雑な面持ちで受け止めた。
「……れには接触式絶対不変魔法が込められているんだ。汚れは付いても、刃がこぼれる事は決して無い。その魔法を応用して、剣の形と篭手こての形を覚えさせたらしい」
成程なるほど。適した魔法が無ければ、複雑な絡繰からくりを仕込んでも壊れやすくなるだけ、と。実に見事。一級品の剣ですな」
「ああ…………。――アキッレ男爵、俺はエクゥルサに戻ろう。良いか?」
「もうよろしいので?」
此奴こいつにも頑張ってもらわなきゃならないからな」
 言ってグリーセオはアキッレの愛馬の首筋を、労いを込めて叩き、アキッレがエクゥルサへ馬を寄せるのを待ってから、エクゥルサのいた背にび移る。
 グリーセオが腰を据えると、エクゥルサは速歩はやあしでの速度を落とさないまま、出来る限り首をもたげ、グリーセオは身を乗り出してエクゥルサから右の短剣を受け取り、篭手に戻した。
「良い子だ」
 労いの声を掛けてエクゥルサのうなじを撫でる。
「――グリーセオ殿」
 その様子を見届けたアキッレが声を上げ、グリーセオは鞍の上で姿勢を正してアキッレに向き直った。
「先程渡した食糧は全て食べて下さい。グリーセオ殿が目を覚ますより前に、我々は食事を終えておりますので」
「分かった。ありがとう」
 礼を言って、グリーセオは麻袋に篭手を嵌めたままの手を突っ込む。
 手に馴染んだ鋼の篭手で中身を正確に捉えて、ちらと取り出し様の保存食に目を遣りつつ、口に放り込んだ。
 練り固めてから乾燥させた物らしき、分厚い短冊状の其れは、口に入れるや強い塩味と香辛料の香りがあふれ、不必要に緊張した体を弛緩させる。
 四半日しはんにち以上食事をしていなかった体は、乾燥して固くなった肉や野菜の食感にこの上無く歓喜し、其れが唾液を吸って口中に押し広げる香りだけで満足感を訴えた。
 グリーセオは疲労を少しでも回復させるく、体が感じるままに任せて保存食の一欠片までをも味わい、エクゥルサの積荷にあった水筒に口を付けて、全て飲み下してから視覚に意識を集中させる。
 今、グリーセオを乗せたエクゥルサが駆けているのは、砂漠の只中ただなか速歩はやあしで進むおよそ四十騎の隊列、その先頭集団である騎士四名と、彼らに従う兵士ら三十騎余りから成る騎兵集団の境界、その中央部。
 断片的な記憶と、自身が気を失っていた事実からグリーセオを保護しつつ撤退する為の陣形であると推察して、手の中の手綱たづなきしませた。
(……彼らの死は、俺の為)
 胸中でつぶやき、グリーセオはまぶたを下ろす。
(それだけじゃない。少なくとも、ハンソーネとスペオトスが、俺にそれだけの価値を付けているんだ…………)
 吸気を拒む肺に夜風を押し込んで、重たい息を吐き出し、夜闇を見詰めた。
 その先に思考を続けようとするよりも早く、グリーセオの目が、進む先、其の上空にある極めて小さな違和感を捉える。
「ハンソーネ伯爵はくしゃく! この先、南の集落に異変だ!」
 認識と同時に声を張り上げ、グリーセオより先を駆ける騎士らがぎょっと振り返った。
 だが、彼らの顔はグリーセオの視界の端。グリーセオは夜空に舞う暗い白点に目をらし、思い切り息を吸う。
「――岩だ! 騎馬一つ分はある岩が幾つか飛び散ってる! 何かが居るぞ!」
 グリーセオの声に応じる様に、騎士らが正面へ向き直り、隊列は速度を上げた。

  ‪‪✕‬‪‪✕‬‪‪✕‬ 19の四

 北に見える長大な壁、〈スナド戦線基地〉を目指して砂漠を歩き、濡羽色ぬればいろの外骨格におおわれた肉体と長い尾の感覚に慣れ始めた頃、トラゲは眼前にそびえる城壁に違和感を覚えて足を止める。
 体が変化してから、トラゲの感覚は人間であった頃よりもはるかに鋭敏になり、しかの感覚に意識が慣れず、夜目よめを効かせる為には目をらし続ける必要があった。
 故に、トラゲは足を止めて頭部に意識を集中させ、眼前にある違和感の正体を探ろうとして、不意に膨大な知覚が押し寄せた事で目眩めまいと吐き気を覚え、膝を突く。
 目がくらみ、思わず閉じた瞳は、脳裏に視覚よりは不鮮明な、然し通常の視覚では到底捉える事の出来ない鳥瞰ちょうかんにも似た景色を映し出した。
 尋常じんじょうではない感覚にトラゲはうめき声を上げ、両手で顔を覆う。
 目を開こうにも開かず、知覚を止めようにも方法が分からないまま、トラゲの脳裏には〈スナド戦線基地〉の全貌ぜんぼうが見え、同時に屋内の詳細までもが、己でも説明不可能であるにもかかわわらず知覚出来た。
 水桶みずおけさかさにするがごとく膨大な情報量を叩き付けられた知覚から、基地内部は地獄なのだと理解する。
 歩いている時には静寂に包まれていると思っていた〈スナド戦線基地〉には、人間が居ない。
 人間と、それ以外の生き物を掛け合わせた様な化け物。フェリダー共和国の兵士を変化させて作る〈獣兵士じゅうへいし〉とも、トラゲやライガの様な生体兵器とも異なる、その間に位置する存在が、無数にひしめいている。
 彼等かれらは互いに殺し合い、食い合い、殺伐とした惨状を生み出しながらも、何処どこか安堵している様にも見えた。
 理解の及ばない状況から逃げる様に、トラゲは脳裏の瞳を動かし、基地内部の彼方此方あちこちを見て、ある一室に知覚が行き着く。
 其処そこは、トラゲの部隊が控えていた石造りの部屋。室内に見えたのは動きの無い肉塊にくかいばかりだった。
 点々と輝く様な血の跡を追って瞳を動かせば、厩舎きゅうしゃの付近に辿たどり着き、化け物にむさぼられている化け物を知覚する。
 の、食われている方に、面影など一つも無いはずの肉塊に、トラゲは部下の一人であるワジャの顔を想起して、全身を粟立あわだたせた。
 ひゅっと息をみ、視界が戻って外骨格に覆われたてのひらの質感を伝え、顔から手を離し、眼前の砂原へ嘔吐えずく。
 はらの底からり上がる感触があるのに、何も吐き出せず、の事実から己が人間では無くなったのだと改めて理解させられ、子供の様に泣きじゃくろうにも、涙の一つ、汗の一つさえ、変貌へんぼうした肉体からはこぼれなかった。
 ライガと共に砂の底からい出し、彼を行かせた時、トラゲは基地に戻ってスナドに報告し、増援と共にライガの援護と回収に向かえば良いとたかくくっていた。
 意識の無いライガの発した心音は、彼の周辺、トラゲと部下の人間だけに作用したのだと。
 しかし、今になってから思えば、心音――ライガの持つ魔法がフェリダー共和国の岩盤に作用して引き起こしたと推測出来る未知の現象――は、トラゲが意識を取り戻し、周囲の肉塊をらって腹に収めるまでの時間を経て、ようやくライガの元へと収束していた。
 れは詰まり、あの現象が、トラゲや部下を変貌させたであろう魔法が、其れだけ広大な範囲に影響したのだと示していたのではないか。
 だが、トラゲは今の今迄いままでその事に気が付かなかった。
 其れ程に平静を失っていたのだと知り、トラゲは嗚咽地味おえつじみた声を哄笑こうしょうへと変えていく。
「……仲間を喰って、生体兵器の暴走を見逃し、この有様ありさまか」
 つぶやき、トラゲは笑う。
 いっそのこと誰かにののしられ、わらわれ、断罪されてしまいたかった。
 願えども、願えども、高い壁を前にしてくずおれるトラゲは一人だった。
「……上官が居れば、れ程…………」
 そう呟いて、トラゲは顔を上げる。
 先程、城壁の向こうを知覚した時、トラゲは見知った部下の存在を認識していた。
 其れは他の化け物達も同様で、姿形が――先の知覚は視覚とは全く異なったが、トラゲは確かに見た目をも認識していた――変化していても、トラゲは無意識に彼等かれらを『スナド戦線基地の兵士である』と認識出来ていた。
 では、スナドは。
 ひらめくと同時にトラゲは左手で顔を覆い、目を閉じる。
「……狡猾こうかつなお前が、他の兵士同様に終わっているなどと……」
 トラゲは半信半疑のまま意識を集中し、基地内部に知覚をひろげた。

  ‪‪✕‬‪‪✕‬‪‪✕‬ 19の五

 武装した人間と積荷を載せ、砂漠という慣れない環境下であっても、クラクホンの走破性は遺憾無く発揮された。
 砂岩製の集落に居た未知の巨人とマリアンヌとの距離は離れつつあるが、それでも人が走る速度とは比べ物にならないほど速く、直線距離では全速力のクラクホンに追い付けないという程度。
 規格外の巨体は地を蹴る度に周囲の砂を震わせ、マリアンヌと直属の部下二人を含めた三騎の周りは絶えず砂山が崩れ、一瞬たりとも気を抜く暇が無かった。
 そんな状況下にあっても、マリアンヌは集落の西へ向かわせた二人の部下を探し、事態を察して巨人から大きく距離を取りつつ駆ける二騎の影を認め、内心で安堵する。
(死者一名と一頭、後はアレを殺せるかどうかだが……)
 胸中でつぶやき、肩越しに後方の巨人を見詰める。
 体高四メートル前後の巨体はその身内から赤々とした輝きを放ち、罅割ひびわれた様な体表から蒸気を発して駆けている事から、考え無しに接近した末路は想像にかたくない。
 れに加えて、集落で見せつけられた堅固な外皮と豪腕。
 マリアンヌは正直に言って『手詰まりだ』と上に報告し、部下の生存を優先する案を検討し掛けたが、離れつつある砂岩製集落、その向こうから此方こちらへ撤退しているであろう二人の友を思い浮かべて踏み留まった。
 ――で、あれば。
 一つ。ゆっくりと瞬きをして、マリアンヌは息を吸う。
「お前ら、よく聞け。残りの距離で敵の弱点をあぶり出す。ずは〈クラベス〉を使う。左右に展開して敵を観察しろ。――行け!」
 マリアンヌの指示にうなずきを返し、部下の二騎はマリアンヌから離れて行った。
 当のマリアンヌは愛牛グラスの上で両足をあぶみから外し、鐙にかかとを掛け、爪先は本来必要の無いもう一つの鐙に掛けて乗り直す。
 マリアンヌが履く鉄靴てつぐつ〈クラベス〉は、この踵部分に仕掛けがあった。
 背後を振り仰ぎ、巨人が自身を追って駆けて来ているのを確認し、マリアンヌは踵と鐙の金属部分を打ち合わせる。
 がち、がち、と踏み込む度に音を立て、其処そこから飛び散る火花はクラクホンの背後へと流されて行く。
 火の粉は連なる程に燃え盛り、砂原に根を張るがごとく広がり、マリアンヌを乗せたクラクホンは炎の尾を引いて駆けた。
 其れを追う巨人は突如発生した炎にしたる反応も見せず走り続け、網目状の炎を踏み締めてマリアンヌを追う。
「それでいい」
 呟きつつ、マリアンヌは踵を鳴らし続け、背後――クラクホンの腰に載せた長大な木箱を開け、その中に納まる無色透明の騎槍きそうを取り出した。
 その間にもマリアンヌが生み出し続けている炎の道を、巨人は依然変わらず駆け抜け、不意にその走行がれる。
 一瞬、驚いた様に両拳を砂原に叩き付けた巨人はその反動を推進力にして軽く跳躍ちょうやくし、星々に似てまたたく砂煙を巻き上げた。
 其れを見てマリアンヌはかすかに笑い、打ち鳴らす踵は止めず、積荷から小さな袋を取り出す。
「はぁ。初日から出費がかさむ……!」
 毒突どくづき、背後に投げた袋は弧を描いて巨人とマリアンヌの間、砂原に広がる火の中を転がって、不意に乾いた音を立てて爆発した。
 爆発の地点に右の拳を突こうとしていた巨人は蹌踉よろめくも速度は落とさず、しかし、右拳から前腕の中程までの外皮ががれ、破片をこぼす。
「正気じゃねぇな、クソッ!」
 小さいとは言え人間であれば致命傷を負う威力の爆発の結果を見て、マリアンヌは吐き捨てた。
 進む先、西南西に待つ友軍の位置は、遠い。

  ‪‪✕‬‪‪✕‬‪‪✕‬ 19の六

 望遠鏡を覗き込み、暗闇を見詰め続けて半刻。
 夜闇に溶け込む集落、その影から莫大な砂埃が巻き起こる瞬間を見たヘルマン・ラハジカは、素早く右手を挙げ、無言のまま付近の仲間を呼んだ。
「マリアンヌが行った集落で異変だ。爆発なのか何かは分からない。全員に伝えろ、戦闘準備」
 平生へいぜいの間延びした声音とは打って変わって冷静に告げたヘルマンの指示を受け、駆け足に離れて行く足音を背中で聞きながら、ヘルマンは望遠鏡を押し当てた左目で状況をうかがいつつ、自身と愛牛の支度を整える。
 ヘルマンが望遠鏡越しに異様な影を捉えたのは、それから一分か二分が経った後だった。
 夜空に立ち上る砂煙を起こし続けているのは、望遠鏡越しでも未だ豆粒大まめつぶだいいびつな人影。
 ただし、その先を駆ける三騎のクラクホンを縦に並べた高さに匹敵する背丈と、人間では有り得ない両腕の太さを持つの人影は、ヘルマンの頭ではたった一つの言葉でしか言い表せなかった。
「――なんだ、あの化け物は……アレが集落に居たってのかッ!」
 吐き捨てると共にヘルマンはクラクホンの背にび乗って小高い砂丘を駆け下り、指示を待つ二十四騎の先頭でクラクホンを止めた。
「お前ら、マリアンヌが戻って来る! しかも見上げる程でかい、猿みてぇな化け物連れだ! 東北東、俺らで迎え討つぞ! いいな!」
 張り上げたヘルマンの声に十人十色の声が返され、其れを合図にヘルマンのものを含めた二十五騎が駆け出す。
「ヘルマン! エクゥルサが一騎来る!」
 背後から上がった声を振り返り、彼が指差す方角に目をったヘルマンは、本隊を見失ってか明後日の方向へ駆ける影を見付け、手袋を外して指笛を鳴らした。
 何度か鳴らした音に足を止めた影は転身し、クラクホンよりは砂原を得意とするエクゥルサの足の速さを活かして、ヘルマンと並走する形で合流し、騎上の兵士が口を開く。
「ヘルマン様! これは一体――」
「マリアンヌを追っている化け物を迎え討つ。あんたは何で逃げてる?」
「隊長の指示です。集落にて先遣隊は巨大な生体兵器と遭遇、迎撃準備を伝えよ、と」
「じゃあ次の仕事だ、ナススのお二人さん。後続に鋼線こうせんを積んだ奴等やつらが居る、其れと協力して備えろ。
 ――鋼線用意! デカブツの足を掛けて転ばせるぞ! 後ろ、聞いたか!」
「応!」
 一人の兵士からもう一人へ、そして仲間へと流れる様に指示を飛ばすヘルマンに声が返され、指示を受けた二騎のエクゥルサが隊列の左右へと別れて行く。
 其れを見送る事無くヘルマンは進む先をにらみ、手にしている望遠鏡を再び左目に当てた。
 覗く先では三騎のクラクホンが互いに距離を取り、マリアンヌが身動みじろぎを見せて炎の尾を生み出している。
小火ぼやが効くと良いがなぁ……」
 呟き、望遠鏡から目を離して、望遠鏡と裸眼との差から大まかな距離を割り出したヘルマンは、積荷にくくり付けた鉦鼓しょうこを拳で鳴らした。
 ヘルマンに従って駆けている二十五騎の視線が集まり、ヘルマンは望遠鏡を握る左手を掲げる。
「接敵まであと十分じゅっぷんだ! 化け物はマリアンヌが引き付けて来る! 鋼線、接敵二分前に砂に埋めて進め! 合図で張れよ!
 残り、武器を用意しとけ! 敵が転んだ直後を叩く! 両腕がバカみてぇにデカいから、いい的だ。
 ――まさか、外す奴は居ねぇよな?」
 指揮棒よろしく望遠鏡を振り回して指示を飛ばし、最後に冗談を言ってみせたヘルマンに、長年――中には一年と少しの新参者も居るが――共に戦ってきた仲間達からは粗野な笑い声が返され、隊列後方に着いたエクゥルサを駆る兵士二名だけは頬を引きらせていた。
「合図は三つ! 構え、張れ、掛かれ、だ! 間違えんなよ!」
「応!」
 二十三人分の声が響き、隊列の速度が上がる。
 総勢二十六騎、マリアンヌ直属の戦士達は高揚感を顔に浮かべ、砂煙を背に東北東へ向かった。

  ‪‪✕‬‪‪✕‬‪‪✕‬ 19の六

 周囲に目を配り、黒褐色こくかっしょく駱駝らくだを引く黒い外套がいとうに身を包んだ男――スナド・ル・フィッシャーは、城砦じょうさい外周を形作る石造りの壁、の北に設けられた小さくも頑丈な扉に手を掛けて、駱駝共々滑り込む様に外壁の中へ進む。
 高さ十メートル余り、幅六メートルもの堅牢な外壁には各所にこうした通用口が設けられており、密偵みっていや攻撃を受けた際の守りに備え、各通用口は数日おきに完全に閉鎖し、別の通用口を使うように指示していた。
 それに加え、スナドは日頃からえて北方の守備は緩く、南方を警戒せよと兵士らに厳命していた為、化け物――生体兵器や〈獣兵士じゅうへいし〉に成り損なった彼らの姿は少なく、道中で四名を手に掛けたものの、逃亡は順調に進んでいると判断し、スナドはただれた左耳の裏をく。
(まず向かうきはザヴィア領……ロシャブルの目を避け、トラゲよりも先に〈カルニボア機関〉との交信を図らなければ)
 外壁内部に当たる暗闇を歩きながら思考を巡らせるスナドは、音を殺しつつ外へ繋がる扉を押し開け、駱駝を先に行かせて外に出るや、扉をきっちりと閉めて腰の袋から縄を取り出し、輪形の把手はしゅを固く縛って簡易的に閉鎖した。
 そうして小さく息を吐き、スナドが振り向いた先で、不意に駱駝の体が揺れ、糸が切れた様に倒れる。
 直後に砂原へ何か重い物が落ちた音と砂煙が上がり、数瞬遅れてぼとり、という音。いで駱駝の体躯たいくが倒れ伏す鈍い音が続いた。
 立て続けに起きた出来事にスナドは目を白黒させつつも腰に差した剣を抜き、立ちめる砂煙へ向けて構える。
「戦士長殿が自ら出陣か? 敵は南だぞ、スナド」
 聞き覚えのある声音に、スナドは仮面の奥で眉をひそめた。
 手にした分厚い剣を用心深く構えて、スナドは空いた左手を腰背部へ忍ばせる。
 そうする間に砂煙は薄れ、砂を掻く小さな足音と共に、長い尾を揺らす悪魔のごと濡羽色ぬればいろの長身が姿を現した。
「それとも、逃亡するつもりか?」
 黒衣の騎士と、生体兵器であるライガを率いて出撃させたはずのトラゲ。其の変わり果てた姿を見たスナドは胸中でやはり、と零し、わざと首を斬り落とされた駱駝の死体に目をる。
「妄想で批判されてはたまらないな。領主様への応援要請だ。基地内部は未知の現象に見舞われ、統率はおろか歩き回る事さえままならない。
 ――トラゲ殿、貴女あなたもまた、言葉は忘れずとも獣に成ったと見える」
 言って、辛うじて人型を取っているトラゲの顔を見れば、剥き出しの黒い牙の並びが、ぎしり、と音を立てた。
「お前には及ばないさ」
 言い放った刹那、濡羽色の影がまばたきよりも速く眼前に迫り、スナドは右手の剣を振り上げると共に、左手で腰背部に隠していた短剣を抜き、突き出す。
 星明かりを受けてきらめく濡羽色の外骨格が、スナドの正面から右側面へと抜けて行き、くうを突いた短剣を引きつつ振り返ろうとして、スナドは己の左手を見た。
 赤黒い短剣を握り締めた左手は、スナドの意に反して宙を舞う。
 その意味に気が付いたスナドは恐怖を覚えるよりも早くトラゲに目を向けようとして、右側頭部をしたたかに打ち据えられ、顔面から砂原へと突っ伏した。
 目や口に入り込んだ砂にうめき、充血した目を見開いてトラゲの姿を見上げたのも一瞬、スナドの頭は踏み付けられ、右の前腕には鋭い痛みが走る。
 呻き声を上げ、藻掻もがこうにもびくともしない体をのたうって、スナドは自身の頭を踏み付ける濡羽色の足を見上げた。
「トラゲェッ! 何をしているか分かっているのか! れはフェリダーにそむく行為だッ! いち兵士風情ふぜいが! 私を殺せば大いなる損失を招くぞ!」
 砂粒混じりの唾を吐き散らして怒鳴るスナドは、なおも暴れてトラゲの拘束から逃れるすべを探り、不意に後頭部から痛みと冷たい感触を覚えて脱力する。
 意図せず左の眼球が上向き、緩慢な思考で脳裏に恨み言を並べ、スナドの意識は掻き消えた。

 頭部の半分以上を失ったスナドを見下ろし、トラゲは彼が手にしていた剣を奪う。
 スナドの肩を蹴って仰向けにし、彼の剣でスナドの心臓を貫き、念入りにとどめを刺した。
 フェリダー共和国人の体に流れる血を利用し、心臓に作用して自我の無い動物兵器へと変質させる〈獣兵士じゅうへいし〉も、今のトラゲの様に自我を残しつつも生体兵器に似た存在へと変質した存在も、脳と心臓が損傷していては作る事もよみがえる事も叶わない。
 れを知っているからこそ、以前――スナドと同じく〈カルニボア機関〉に身を置いていた時分――からスナドの唾棄だきすべき為人ひととなりを知り、上層部からも要注意人物であると聞かされていたトラゲは処分を下したのだった。
「……これで、はっきりとした。して、しまった…………。
 あの現象はスナドに因って引き起こされたものだ。奴が態々わざわざジマーマン領に戻ったのも、……もしかしたら、戦線基地拡大を躊躇ためらっていたのも、この日を待っての事か…………」
 独りちて、続く思考は頭を振って払い、トラゲはスナドの死体を漁る。
 黒い外套がいとうで隠されたスナドの衣服やよろいには、彼方此方あちこちに革袋や巧妙に隠された物入れが配されており、其れ全てにマギニウムを加工したと見られる器具が、延べ四十二にも上る数が隠されていた。
 小刀、かせ、用途不明の小物の他はほとんどが装身具であり、トラゲは其れ等一つ一つに触れる度、内包している魔法と用途を理解する。
(この感覚も、生体兵器に近付いたが故か……)
 胸中で独り言ちたトラゲはスナドの死体から回収した器具を、同じくスナドからぎ取った背負い袋へと詰め込み、最後に大小のさやを二つ外して、夫々それぞれに剣を納める。
「……数々の魔法道具、れをスナド一人で作ったとは考えられないな」
 つぶやき、トラゲは南を――眼前にそびえる石造りの壁を見上げた。
しかし、基地内部に協力者が居た様子は無い。と、すると――)
 ちらと北を見遣り、トラゲはわざと声を上げて苦笑する。
「本当に、救いようが無いな、我が国は…………」
 呟いて、トラゲは手にしていた荷物――二つの鞘をくくり付けた袋を真上に放り投げた。
 其れと同時に両足、そして両手に力を込めて壁に爪を立ててい上り、放り投げた荷物を追い抜きざまに尾で巻き取りつつ角度を変えて投げ飛ばす。
 濡羽色ぬればいろの悪魔は素早い身のこなしで壁の上へと躍り出て、空中で荷物を掴み取り着地した。
 其処そこから基地内部の惨状を見渡し、トラゲは荷物を置く。
「…………どうしたものかな」
 悲愴な声は小さく、トラゲの視線はやがて、遥か南へと向かった。
 夜のとばりに走る、深紅の一条を探して。

つづく

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