小説「剣闘舞曲」7 前編

本作をお読みになる前に

 この作品は、闘技場で行われる試合を描いたファンタジー小説です。
 怪我や血の描写、魔法の要素、他にもあなたが苦手とするものが含まれるかもしれません。ご了承の上でお読みください。

 また、本作は特定の国や楽器、音楽に対する批判など、作者の思想を広める意図で作られたものでは無い事を予めご理解ください。

  空山非金

  7:終演

 レベクをたおした後、モーグの意識は覚醒したまま茫洋と揺蕩たゆたう様な、奇妙な状態にあった。
 百倍近くに引き伸ばされた知覚で、重力を感じさせない、ふわふわと駆け寄る医療班の姿をただただ見詰め、担架に横たえられる最中の宙に浮かび続ける感覚に吐き気を催し、運ばれる道中には長閑のどかな船旅を想起していた。
 緩慢に過ぎる医療班の治療行為は拷問と化していたし、手の平の肉と一体化した愛剣『ロバト』を引き剥がされる五千秒はモーグの意識を焼き切るのに十二分な苦痛だった。
 しかし、ロバトを手放しても尚、モーグの意識は覚醒し続けていた。
 モーグに声を掛け、違和感を覚えた医療班が慌てて魔法の解除を施すまで。
 実時間にして二十八分四十秒。モーグの体感にして、二日間。
 そののちに、モーグはようやく意識を手放す事を許された。

  ***

 演武と楽曲を組み合わせたし物を中心とする旅楽団たびがくだん『フィル=ミュラー芸楽団』は、フランゲーテ国内を渡り歩き、人々を笑顔にして去る事を生業なりわいとしていた。
 終わり無く続く旅程は、出会いと別れが日常だった。
 面倒見が良いと言うより、お節介を焼き過ぎるたちの団長、ミュラーが、訪れた村でけ者にされていたノイマンという青年を楽団に引き入れたり、ぶっきらぼうだが面倒見の良いヴォルフが、宿場町の娘と恋仲になって其処そこに居着いてしまったり、ある日の野営中、国境の更に北で起きた戦争で故郷を失ったプファンクーヘンと出会って、彼女がそのまま団員になったり。
 フィル=ミュラー芸楽団の日常は濃密で、退屈を覚える暇が無い。
 団員にも様々な人が居るものだから、そんな奴等が一所に集まっていたら賑やかで仕方が無かった。
 そんな楽団も、真夜中には体力を切らして眠りに就く。
 野営であれば火を守り、異常に備えて交代で警備をするのだが、レベクはその役をいつも買って出ていた。
 とある深夜、幾筋もの川が流れる山麓さんろくの街を後にした野営中、レベクが静かにヴィオラを弾いていると、天幕の一つから団長のミュラーが顔を出した。
「うぅ、さむぅ」
 などと呟いて離れた場所で用を足したミュラーが戻ると、ミュラーは手頃な箱を椅子代わりにしてレベクに手を伸ばす。
「コーヒーをくれ。もう少し起きてようかと思って」
 小太りで、特徴的な大きい丸鼻を寒さで赤くしながら言うミュラーに、レベクは演奏を止めてミュラーが座る箱を指差した。
「団長、豆がその中にあります」
「あっ、えっ? マジ?」
「マジ」
 そんなやり取りをして二人分の乾燥豆を受け取ったレベクがコーヒーを用意する様を、ミュラーはじっと眺める。
 レベクが挽いた豆の粉をし袋に入れようとした時、ミュラーは箱をずらしてレベクに近付き、躊躇ためらい乍ら口を開いた。
「なぁ、その……なんだ、ほら」
「白湯を先に飲みますか?」
「そうじゃない! あぁ、なんだ。アレだよ…………俺が言うのも変なんだがぁ……そう、今更……今更なんだが、その…………着いて来て、良かったのか?」
 豆挽き器からは粉が落ち切っている。
 だが、レベクはわざと豆挽き器を指で叩いて粉を落とす振りをした。
 ミュラーはそうするレベクの横顔をじっと見詰めて、答えを待つ。
 薪の爆ぜる音と、虫の音だけの月下。レベクは白い息を吐いた。
「…………たまに、恋しくなります。父も、母も、あの村の事も」
 観念した様に呟くレベクの声に、視界の端のミュラーの顔が寂し気に歪む。
「でも……此処ここも、もう僕の居場所なんです。ベルガーの大声で起こされて、ナスヴェッタと朝食を作って、今日も美味うまかったってランゲが頭を撫でてくれて、クラウゼがそれで乱れた髪を整えて弟みたいに扱ってくれて……挙げたらキリが無いくらい、沢山、沢山の幸せが、フィル=ミュラーにはあります」
 そっと湯を注ぎ、辺りにコーヒーの香りが広がる。
 静かな夜闇に、温かな香りと、ミュラーが鼻を啜る音が響いていた。
「みんな滅茶苦茶な人達だけど、この楽団に入って、ミュラーさんが誘ってくれて、…………父が、背中を押してくれて、本当に、本当に良かったって、そう思ってますよ」
 夜気の寒さに加え、泣き出した所為で酔っ払った様に顔を赤くするミュラーに、レベクはコーヒーをなみなみと注いで差し出す。
 ミュラーはそれを受け取って、熱がり乍ら何度もコーヒーと鼻を啜った。
「それに、シュミットとボックが僕の為のマギヴィオラまで作ってくれました。今更帰るなんて言い出したら、怒りっぽいシュミットは僕を殴り倒すんじゃないですか?」
「は、ははは。それは止めないとなぁ。どっちも」
 レベクの冗談に笑って答えるミュラーは、またコーヒーを啜る。
「あと、剣ももっと上手くなりたいなぁ。アインホルンに一発も木剣を当てた事が無いもんなぁ」
 レベクが思い出した様に呟いて、ミュラーは頷いた。
「ヘロンに勝てたんだから、次は当てられるさ。レベクは十分強くなった」
 ミュラーに言われ、レベクは頬を掻く。
「そう……ですかね」
「そうとも、本当さ! モーグとは……惜しかったね。あと少しだった」
 ミュラーに言われたレベクは、はっと目を見開いて正面の森を見た。
 夜闇の中とは言え、暗い、暗すぎる暗夜の森を。
「モーグ、大丈夫かな……」
「え?」
 呟いたレベクに聞き返すミュラーと目を合わせてから、レベクはコーヒーの水面に目を落とす。
「あの戦いの時……最後の方、変な感じでした。強かったけど、なんて言うか…………剣に、使われてる、みたいな……」
 真っ黒なコーヒーの中に、荒れ狂うモーグの姿を見て、レベクは慌ててコーヒーを飲み下した。
「じゃあ、様子を見に行ったらどうかな?」
 ミュラーの優し気な声がして、レベクが彼を見ると、ミュラーが立ち並ぶ天幕の一つを指差していた。
「心配なんだろう? 少しだけ様子を見て、話せそうなら話して、出来るだけの事をしないと。もうじき朝が来る。……出発の時間だよ」
 旅楽団は一所に留まらない。
 人を集めて、演目を終えて、一稼ぎしたら、旅立つ。
 だからこそミュラーは行く先々で一人一人と言葉を交わせるように忙しなく動いていた。
 それはまるで、別れを惜しむ様に。
「行ってご覧。それが、レベクのしたい事なら」
 視線が、意識が、ミュラーの指差した天幕に引き込まれていく。
 灯りの無い天幕は白く、眩しくて――

 目を開けていた筈なのに、レベクはもう一度瞼を上げていた。
 白い、清潔そうな天井が目の前を覆っている。
 夢を見ていたのだ。
 そう悟って体を起こすと、柔らかなシーツがかさかさと音を立てて脚の方に滑り落ちた。
「よお」
 突然低い声がして振り向くと、医務室の椅子に腰を掛けたヘロンが居た。
「へ、えっ、え? ヘロン……?」
「寝惚けてんのか? 傷は完治、あとは目を覚ますだけ。何かあったら呼んでくれってさ、医者が」
「な、なんでここに…………夢? まだ?」
「見舞いに来ちゃ悪いか! 俺を負かした相手がズタボロにされて負けたんだ。死んでたら寝覚めが悪いだろ」
 理解は出来ても心が追い付かない。
 幾つもの思考が頭の中で吹き荒れる中、レベクはふと、ヘロンのぶっきらぼうな物言いを思い返して、そこにかつての仲間を重ねて笑った。
「なんだよ」
「いや、友人に似てて……あんな人が、二人もいるんだなって」
「ったく。……元気そうならいいわ。じゃな」
 そう言って立ち上がってしまうヘロンに手を伸ばすも、レベクの手は宙を掻く。
「あっ、ま、ま、待って!」
 レベクに呼び止められ、革布にくるまれた大剣を肩に掛けたヘロンが億劫おっくうそうに振り向いた。
「なんだよ」
「あの、僕にとって寝覚めが悪くなりそうな事が、まだあります」
 レベクの言葉に、ヘロンは心底面倒臭そうに片眉を上げた。

  ***

 不意の覚醒と同時に、モーグは全身の倦怠感に襲われた。
 瞼を上げようにも腫れた様に重く、寝返りをうとうにも手足が、いや、身体のありとあらゆる部分が痺れている。
 凝り固まった体のわずらわしさをぐっと堪えて、モーグは肺に意識を集中させて深呼吸を繰り返した。
 意識と同期して動く肉体に違和感を覚えつつも、モーグは懸命に酸素を取り込み続ける。
「先生、モーグ選手が意識を取り戻しました」
「ああ。まだ動けないだろうから、そっとしておいてやれ。栄養剤の投与とマギニウム化合促進を。活性マギニウムを残すな。それから運営委員会を……マルコ、お前が呼んで来てくれ」
 医師と思しき男の声が指示を飛ばすと、二人か三人くらいの人々が返事をして忙しなく靴音を立てる。
 モーグはそれらを聞き乍ら、うっすらと瞼を開けて真っ白な室内に三つの人影を見留めた。
「モーグくん。聞こえるか? 聞こえたら、ゆっくりと、瞬きを二回して」
 先程指示を飛ばしていた声の主がモーグに顔を近付けて言い、モーグはそれに従う。
 眠たい。閉じたまま意識を手放してしまいそうな程に疲れている。
 しかし、モーグは甘い微睡みを振り切って再び目を開き、また閉じる。二度目の瞑目めいもくには睡魔を感じなかった。だから、三度目には重たい瞼がしっかりと上がり切る。
「よし、処置しつつ機能不全が無いか確かめろ。モーグくん、まだ治療は完全とは言えないから、安静で。あと五分もすれば終わるから」
 寝台の周りを忙しなく動く四人の人々を眺めて、モーグは瞼を下ろした。
 ばたばたと響く足音が、さらりと流れていく衣擦れの音が、自分の呼吸音が、等速で流れる時間が、心地良いものなのだと初めて知る。
 師は、剣闘舞曲祭に招致されたモーグに『お前が行う行為とは、全てが摂理に非ず。また全てが摂理に在る』と言った。
(今だから分かる。あれは、ロバトを持つ俺に向けた言葉だった……)
 胸中で呟いて、唾を飲む。
(その言葉を、忘れはしなくても、理解できていなかった)
 モーグの愛剣『ロバト』と、それに仕込まれた接触式信号増幅魔法は、優柔不断なモーグの為に師が見繕みつくろってくれた物だ。
 師に出会う前のモーグは、恵まれなかった上背うわぜいと、鍛錬に遅々として応えない筋力を補う為、いつからか古今東西の武術書を読み漁り、戦った相手の動きを脳内で反芻して仮想訓練を繰り返し、未熟な頭に独学の知識を蓄えたまま染み込ませてしまっていた。
 その知識量の多さが、結果として剣の迷いに拍車をかけるとも知らずに。
 モーグの故郷は、フランゲーテ国の西にある広大なアメリゴ湖と、海に挟まれた『ヨルク』と言う土地にある。
 そのアメリゴ湖周辺――ヨルクを含むフランゲーテ国西部代表選手に与えられる称号が、西座さいざ
 アメリゴ湖周辺に集った戦士達は、年に一度、西座の称号を――そして、央都で開かれる剣闘舞曲祭への切符を奪い合うべく大会に参加する。
 二年前まではモーグもその大会の一参加者に過ぎなかった。
 恩師『ヨハン・アイゼナハ』に出会う迄は。

  ***

 闘技場の屋内通路を駆ける姿がある。
 石畳を鉄靴で踏みしだき、湖面を思わせる銀青の髪を揺らして、腰から下だけが鎧姿という妙な出で立ちの女――プレスティアは、集中治療室を目指して走っていた。
 準決勝戦の第一試合が終わり、運び出されるレベクとモーグを見るなり客席から離れたので、通路内に人気は無い。剣闘舞曲祭など嘘だったかの様に静かな通路内を駆けたのも束の間、突如として建物が震え出した。
 重心を崩して踏鞴たたらを踏んだプレスティアは壁に手を付き、思わず天井を仰いだ。
「な、なんだ……?」
 驚きの余り独りちて、プレスティアはこうべを巡らせる。
 今すぐに建物がどうこうなる感じも無く、耳を澄ませても客席へ向けた司会者の声が漏れ聞こえるだけで、屋内に発信される様子も無い。
 天井の隅に取り付けられた音声中継器を見てそう考えたプレスティアは、再び駆け出した。
 プレスティアは医術に精通している訳でも、魔法に精通している訳でも無い。だが、一度は刃を交えた少年の、モーグの異様な戦いぶりを見て、駆け出さずにはいられなかった。
 飛ぶ様に過ぎ去っていく柱を幾つも横目にして、闘技場の玄関口と言える大広間の手前で通路に入り、一般人用の道順を省略して南側の集中治療室を目指す。
 しかし、何度目かに折れようとした所で通路上に立ち塞がる男と鉢合わせた。
「うおっ、なん……プレスティア選手…………? 何故こちらに」
 面食らって呟く様に言った軽装備の男は、剣闘舞曲祭の運営委員会を示す腕章を着けている。
 男の問いにプレスティアは視線を泳がせてしまい、その所為で男は不信感を露にして顎を引いた。
「ここより先は関係者以外の立ち入りを禁じております。関係者には出場選手は含まれません。お引き取りを」
 断固たる意思で胸を張る男に、プレスティアは何も言い返す事が出来ず、ただ立ち尽くした。
 思えば、どうして此処まで駆けて来たのか。
 どうして咄嗟に体が動き、それを疑問にも思わずただ『顔を見たい』と思ったのか。
 プレスティアはその自問に答えを出せず、石畳に視線を落とす。
「プレスティア選手、お引き取りくださ」
「彼女は恋人の安否を気にして此処まで来たんだよ」
「えっ?」
「は」
 通路のから響いた声に、男とプレスティアが間の抜けた声を漏らした。
「だから、プレスティア選手とモーグ選手はそういう仲なの」
 長い外套がいとうと長髪を揺らしてゆっくりと歩み出して来る男は、準決勝戦を目前にしてタロウに敗れた、ルテニスだった。
 ルテニスの突拍子も無い発言を遅まきながら理解したプレスティアは、わなわなと全身を震わせて、しかし、運営委員会の男がプレスティアを振り向いた隙にルテニスが人差し指を口許に添えた事で怒声を飲み込む。
「ごめんね、秘密にしてたんだろうけど、二人で居るとこ見ちゃってさ。そういう訳だから、通してあげてよ。ね?」
 顔が、頭全体が熱くなるのを感じてプレスティアは俯く。
「ほ、本当でしょうね……?」
 驚きを露にし乍らも職務を全うしようとする男の声に、プレスティアは苦虫を噛み潰す思いで頷いた。
「…………特例ですよ。それと、武器は私が預かります。それだけはご了承下さい」
 プレスティアは男の指示に黙って従い、背負っていた剣と盾、そして腰鎧の裏に隠していた旅用のナイフを渡して、通路を進む。
 にこやかにしているルテニスとすれ違い様、プレスティアは「覚えておけよ」と怨嗟えんさを込めて呟いた。
「そう怒らないで。偶然だったんだ。役に立ったろ?」
 微笑みを崩さないルテニスも、その背後で生温かい視線を送る運営委員会の男も張り倒したい気持ちを全霊で抑え込み、プレスティアは集中治療室へ続く通路を進んだ。

  ***

  つづく

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?