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小説「落花生」01

【本作を読む前に】
 「落花生」はダークファンタジーの小説です。
 作中に残酷な表現、グロテスクな表現が一部あるため、苦手な方は読まないようお気を付けください。
 また、こちらは月に一回投稿予定の連載原稿になります。
 挿絵や文庫本風にデザインした「完全版」を後に作る予定であることを、予めご了承ください。

〈ルビ〉
「蝙蝠鳶」こうもりとんび
「花織」かおり   「只」ただ
「康人」やすひと  「琥珀流」こはくりゅう


01 
 高空を黒いものが飛んでいる。
 皮膜状の翼が風を捉えて、羽撃かずとも彼を空に浮かべ続けてくれる。 遥か高みから色の無い野原を見下ろす彼は、ピンと伸ばした鉤爪をピクリと動かした。
 襟のように広がる翼から覗く頭は鳶。黒染めの蝙蝠鳶が、ぎろりと野原を睨む。
  絶えず蠢く大地に足を取られて、つんのめるように駆ける集団を見つけていた。
 彼らは一人を先頭に、いや、一人を追って悲鳴にも歓声にも聞こえる濁声を上げていた。先頭を行く人型の少女を追って、出来損ない共は駆ける。ある者は追い付きかけて肘や蹴りを食らって砕け、ある者は蠢く大地に転倒し、そのまま飲み込まれていく。
 この惨禍の原を「肢体ヶ原」と名付ける人がいることを、蝙蝠鳶はもちろん、少女も、出来損ない共も知らない。
 地獄に生まれ出た少女という塊は、ありもしない生にしがみつくため駆けていた。

 闇色の森で目を覚ましてから、少女はずっと走り続けていた。
 それぞれに違えど、害意を感じる目と声で迫る、人の成り損ない共。彼らに本能的な恐怖を覚えて駆け出したものの、その数は減るどころか増え続ける。一筋の希望さえ見えない無味乾燥とした野原を駆けていた。
 ここは盆地だろうか。
 視界は灰色の草丘に満ちて、疲労か心労か、詮無い思考が溢れ出す。
 気が抜ければ足を取られて速度が落ち、追い縋る手や口が体に触れるので咄嗟に出る動きのまま振り払い、ただ草丘の上を目指す。
 丘に近付けば、それは崖と言う方が正しい様な急斜面だった。それでも躊躇う事すら出来ずに、草や土に爪を立てて登る。
 蹴り上げたのは土か肉か、無我夢中で登るという作業に集中し続けた。
 どれほどそうしていたのだろう、切り立つ丘の上に肩まで登り終えて、礫となって少女は向こう側へ転がり出した。
 髪を食い、土も吐き出して上げた視界の端に、靴先が見えた。
 すぐさま立ち上がる体力は無く、恐る恐る顔を上げる。
 細身の男だった。目地の粗い衣服から出る肌に、朱色に光る直線的な血管が浮かぶ、奇妙な男。
 背丈は少女より頭一つ分大きいだろうか、月も無いのに空から光が降っていて、影の落ちる双眸は冷たい。
 男は少女を試すように見続けていた。次にお前は何をしてくれるのか、何を見せてくれるのかと、そう問うような冷暗の眼。
 そよと風が吹き、少女の髪が頬を叩く。少女は思い出したように瞬いた。
「……ここは、どこですか?」
 この、束の間かもしれない停滞に、じんと体中の神経が熱を帯びるのを少女は感じた。生を実感するとはこういう事かと頭の片隅で得心する。私はまだ生きていると。
「ここは地獄だ。逸れた魂たちの淀み」
 暫しの沈黙を置いて出された言葉に、少女は僅かに首を傾げる。
 地獄。魂。それらの意味を捉えかけて、否定していた。
 ここが地獄ならば、自分はいつ死んだのか。
 魂というものが、実在しているのか。
 少女が一瞬の中で出した答えは、そんな筈は無い。という覚めた頭から下されるものだった。
 魂とは、学習の積み重ねにより形作られる人格や性格を表す言葉。地獄とは、死や罪を軽んじる者を脅す方便。
 少女はそう結論付けて生きてきたと思い出した。
「まさか。丘の向こうのは人に似た獣か、それとも何らかの罹患者でしょう。この辺りにはそれが溢れているから、地獄だなんて呼ぶんですね」
 男は依然として少女を見下ろす。彼の瞳に、少女の右頬で形作られる朱色の血管が映っていた。
 それを見留めた男は髪を掻き上げ、袖を捲り、朱色の血管を見せつける。
「直にお前の身体にも浮かぶだろうが、お前の思う人間に光る血管はあったか?」
 言われて両手に目を落とす。掌には無い。くると甲を向けると、たった今、右の袖口から光る血管が伸びようとしていた。
 少女の息を飲む音が風になってざわと下草を揺らす。
 右手の甲に伸びゆく血管は、指で押さえようとも止まることは無い。じりじりと蔦のように皮下を這い、花に似た模様を描いて少し伸び、そこで止まる。
「答えろ。お前が知っている人間に、そんな物があったか?」
 少女は知らずうちに震えていた。涙で視界が滲む。
「ありません」

 男の背中を追って肢体ヶ原を離れる道中は長い。
 太陽も月も無い、それでいて足元を見通すには困らない程度の薄闇の草原、少女は沈黙に耐えきれず口を開いた。「あの、貴方は……誰なんですか」 これといった問いが見つからず、曖昧に訊く。
「只という名前だけが明確に頭の中にある。地獄で目を覚ましてからは、五年経つ」
 驚いた少女の足が縺れる。
「五年も、帰れないんですか」
 少女自身、帰るという言葉が胡乱なものに感じながらも、同時に帰りたいという欲求は確かに湧き出していた。
「帰る場所は無い。俺も、お前も」
 我知らず、引き攣った笑い声が少女の口から漏れる。
「帰る場所が無いって、じゃあ私達は誰から生まれてきたんですか。お母さんも親父も、居るでしょ」 目の前の背中が止まり、少女もまた足を止める。ゆっくりと振り返る只の顔は険しい。「お母さんも、親父も、か」
 只の言葉は、少女に何度目かの消化不良を起こす。それから沈黙を置いて、彼女ははたと気が付いた。
「私、お父さんをそんな風に呼んだこと……」
「ある筈だ。お前の一部は」
 意味が分からない。瞼を閉じて耳を塞いで逃げようとしても、この違和感から逃れることは出来ない。
「俺やお前のことを〈市街〉の人々はゾンビと呼ぶ。あてどなく彷徨い、何かを欲し続ける。満たされぬ存在だと」
 下草を踏む音が連続する。只が歩き出したのだろう、少女は前を向くことも叶わず、立つ気力も失ってへたり込んだ。
 肢体ヶ原の草丘は遠い。出来損ない共の叫びも風の音との区別がつかない程微かだった。だからこそ思考が鮮明で、だからこそ深い絶望を感じた。
 考えれば考える程、少女の記憶は作り物めいていて、そのくせ現状が異常と感じるほどに知性が残されていた。言葉も知っている、感情もある、膝を着けた地面の砂利が痛いのも、風に戦ぐ芝が擽ったいのも分かる。
 それらがありながら、自己という観測者だけが知識にあるものよりも茫洋としていて、他人の身体に意識だけが取り憑いたような気味の悪さだった。
 気持ち悪い。
 吐き気とは異なる負の感情の堆積に、少女は左腕に爪を立てた。痛みを感じても強く握り込む、赤い血が流れ、痛みと共に苛立ちが増殖して ―― 右手を取り上げられた。
「やめろ」
 細身の体からは想像出来ないほど強い力で腕を引かれ、半ば強制的に只と目が合う。
「ゾンビの体は治らない。傷は光る血管として塞がるが、治ることは無い。ここは夢では無い。俺達はここで生まれたんだ」
 今度ははっきりと少女の頬に涙が伝った。温かい涙は下顎で滴って傷跡にしみる。
「じゃあ、私は誰なんですか」
 もご、と口を動かしたのは只が言い淀む際の癖だろうか。
「ただ、今ここに居る。そういう存在でしか、ない」
 只は初めて少女の瞳から目を逸らして答えた。
 少女の涙が止め処無く溢れ続ける。
「わた、私、花織って言うんです、名前。お母さんの料理が好きで、小さな田舎町に生まれたんです、お、お父さんは出稼ぎに行ってて、東京で。学校に行ってました、高校の友達はみんな優しくて、帰りはいつも遅いけど、夕方に実家の料理の匂いが優しくて、辛いことも忘れられて ―― 」
 肢体ヶ原から吐き出された少女、花織の言葉は止まらなかった。 只は寄り添うように片膝を突いて、花織の話を聞き続けていた。

 只が言った市街は大きかった。市街に着く前に山道を登り、見下ろした全景でも端の方は街灯らしき光しか見えない。
 山を下りて実際に足を踏み入れてみれば、乱雑に建てられたのか、元々そうなのか、ひどく入り組んでいて一人で辿り着いていたら中心地に向かえたかどうかすら怪しい。
 中心地に近付くと、火を使った街灯が電気の灯りに変わる。
 ここに住まう人々は同じ言語を発しながらも、姿形は様々だった。それこそ人かどうかすら疑わしい者も無数に見かける。
 時折、只と花織に声を掛けてくる者もいたが、只はそれに一瞥もくれずに歩き去る。小さなぬいぐるみの様な者に花織が手を引かれた時は、只が彼を蹴り上げて花織の手を引き走ることもあった。
 後で聞けば、地獄の住人の中には人の姿を羨み、ゾンビから身体を奪おうとする者が居るらしいと知った。
 文字通り地獄の様相を呈す、夜に沈み込められた市街。
 そんな市街でも役場を管理する者が居るらしい。
 ここがそうだと言われ、門前に立つ鎧 ―― 文字通り和風の鎧しかなく、どこから声が出ているのか分からないが、生きているようだった ―― に花織を紹介する只に続いて踏み入った場所は、大きな洋館だった。
 玄関の上には場違いな木製看板が取り付けられ、漢字で「役場」とだけ彫り込まれている。
「あの、ここで何を……?」
 花織の問いに只は一言「自警団だと思えばいい」とだけ告げて玄関扉を押し開ける。 扉の先は広々としたホールで、教会の椅子やらソファやらが玄関に背中を向けて並ぶ、混然とした空間だった。
 扉から真っ直ぐに続く先には、書類や棚で囲われたカウンターがあり、看護師服を着た昆虫が一人、書き物をしていた。
「マリア、新入りだ。名前は花織、ゾンビ、力仕事には向かない」
 只の声を聞き、顔を上げた昆虫は次いで花織に複眼の目を向けた。偽瞳孔が動くことなく花織に向け続けられる。
「花織さん、彼の話は難しかったでしょう?」
 微笑んだのだろうか。マリアは蟷螂に似た頭を傾げて、きりきりと口を動かす。
「……いえ、沢山話を聞いてもらえて、ありがたかったです」
 あら。とマリアは只の方を向くが、偽瞳孔は花織に向き続けている。
 それが常に見られている様に感じて、花織は落ち着かなかった。
「簡単にだが状況は伝えた。康人に会わせてくれ」
 依然として淡白な只に、マリアは小さく笑い声をこぼす。
「わかりました。書類は作っておくから、先に上がってちょうだい」
 マリアが右手を上げると、それは昆虫のようでありながら人の手にも似ていた。その右手がペンを持ちながら器用に動いて人差し指を立て、カウンター脇の階段を示す。
 マリアの許可を得てさっさと歩き出してしまう只とマリアを見比べ、花織はマリアにお辞儀をする事にした。
「行ってらっしゃい。これからよろしくね」
 マリアはまた頭を傾ける。これが彼女の微笑む仕草なのだろう。花織の口も自然と微笑んでいた。
 役場は二階建ての洋館らしい。階段を上がれば左右に長い廊下が続き、幾つも部屋があるのが見える。
 只は迷うことなく歩いて行き「管理室」と書かれた札を提げた扉をノックした。
「どうぞ」
 男の声が扉越しに届く。只が開いた扉の先は左右の壁にびっしりと本棚を並べた書斎だった。
 窓に背を向けて座る男は人間の形をしている。歪んだ眼鏡と、それを縁取るような朱色の血管。
「康人、新入りだ。細かい説明は任せた」
 部屋に踏み入るなりそう言って、扉からすぐ左に並べられたティーセットに手を付ける只に、康人は書き物の手を止めて顬を押さえた。
「またか……人手は有難いが、お前の口下手はどうにかならないか」
 康人の小言を風と流して、只はティーカップに口を付けている。
 花織もおずおずと部屋に入り、扉を閉めた。
 康人に向き直ると、彼は花織にソファを勧めてくれる。それに従って腰を下ろしたソファは柔らかく、草原で座り込んだ時とは別の脱力感に包まれた。
「初めまして。ここで中心地の管理と役場の指揮を執っている、康人です」
 書斎机を立って、康人は軽く礼をする。花織もそれに倣って頭を下げるも、視線は外せなかった。
「花織と言います」
 初対面の人間に緊張するのだなと、花織は改めて気が付いた。花織という今の自分に。
 思う間に康人はローテーブルを挟んで対面のソファに腰を掛け、花織の顔を、次いで膝の上の手に目をやった。
「光る血管、琥珀流があるね。僕や只と同じ種類だ。ゾンビと言われて驚いただろう」
 新入りの歓迎に慣れているのだろう、少し抑揚を欠いた言い方は、予め用意した言葉故か。それでも、眼鏡の奥で見つめ返す康人の瞳には曇りが無いように見えた。
「只から聞いたと思うけれど、ここは地獄だと市街に住む多くの人が考えている。抜け出すことも塗り替えることも叶わない淀んだ場所」
 そこで言葉を切り、康人は机上に人差し指を立てて小さく円を描いた。
「ここを市街だとする」
 言って9を描くように街とした場所から指が離れていく。康人は言葉に合わせ、机上に不可視の簡易地図を描きながら肢体ヶ原と市街の位置関係を花織に教えた。
「肢体ヶ原は高く切り立った丘や山で囲われていて、そこを起点に絶えず対流を起こしてる。君達ゾンビはその土の中で形成され、対流に合わせて表出し、殆どは出来損ないに、また殆どはゾンビに成れても何らかの理由で土に呑まれる」
 突然始められた説明に、花織は目を白黒させた。
 それに康人は苦笑し、書棚に背を預けてティーカップを傾ける只は無表情を貫く。
「僕らの〈知っている〉常識からは大きく外れるよね。けれどそこの只や仲間が数年掛りで集めた情報と、検証による事実なんだ。そういう事が有り得てしまうのが、地獄」
 続く康人の言葉で、花織は最も強く感じていた違和感を理解した。 彼は至極冷静に、それでいて寄り添うような仮面を被ったまま、実験の存在をきっと敢えて匂わせている。
 花織は膝の上の手を握り込んだ。
「……検証って、何をしたんですか」
 康人は驚いたような顔を作ってから、また微笑む。
「俺達には地獄に関する知識が必要だったんだ」
 声は康人ではなく左から、只が花織を見つめて言っていた。
「肢体ヶ原の下が帰る場所なのか、それとも別か。真っ先に帰りたい奴が実験を買って出た。これには俺も立ち会っている」
 しばしの沈黙。花織と目を合わせ続けた只は、やがて自分から視線を外して再びティーカップを傾ける。
「まあ、そういう事です。君は優しいんだね」
 そう言う康人は変わらぬ薄笑いで、花織は彼と只を見比べた。
 肢体ヶ原を抜け出して只に拾われた。只と出会わなければ、花織は市街で遭遇したぬいぐるみのような者か、また別の何かに遭遇してそこで終わっていただろう。
 それでも、只に着いて行った事が果たして正しい選択だったのだろうか。考えても結末はあの草原のように暗闇に隠されている。足元だけがはっきりと見えるだけの、深い夜のような闇。
「そうだね」
 短い沈黙を破ったのは康人だった。
「花織さんもまだまだ現状を知らないし、何をしようにも知識が足らない。だから、只と一緒に動いてもらおうか」
 ちゃぷ、と水の跳ねる音がする。
「待て、俺は向いてない」
「でも花織さんが信頼できるのは只だけだ。だよね?」
 水を向けられ、花織は言葉に詰まった。
 只は普段以上の険しさで花織を見ている。康人の方はと言えば、どこか楽しむように笑顔だ。
「私、私は……」
 何かを言わなければ、そう思いながらも言葉が続かない。
「君は役場に来たゾンビにしては珍しい、よく考えているタイプだ。ゾンビは大抵、思考を嫌がる。僕もそう、この状況を考えたくないから、役場の重役を担って暇を作らないようにしている」
 康人の笑顔は嘘臭い。きっと彼はこの中で一番 ―― 
「俺もそうだ。余計なことは考えられない。同行者は肢体ヶ原の帰りが限界だ」
 只が割って入るようにテーブルに近付いてくる。
「じゃあ花織さんには〈ネオン〉に行ってもらおう。色んな人が集まる所だから情報は仕入れられる」
 刹那、ローテーブルが弾き飛ばされた。花織の目の前に只の脚が伸びている。
「康人」
 背中を向けているため、只の顔は花織からは見えない。
 只の腰の向こうに見える康人は薄笑いを浮かべたままだった。
「じゃあ、ひと月。それで花織さんにはここでやる事を決めてもらう」
 舌打ちと共に、只は飲みかけのティーカップを康人の胸元へ投げた。
 カップは受け止めたものの、康人のスーツが黒く滲む。
「ひどいな」
「呑んだ訳じゃない。最近のお前は強引すぎる、それで少し頭を冷やせ」
 振り向いた只は足早に扉の方へ行ってしまう、花織も席を立ち、また二人を見比べた。
「花織さん、そういう事だから暫くは只に従うように。あと、マリアに服の換えをと伝えてくれ」
 困ったように眉を上げながらも笑顔を絶やさない康人が、ひどく人間離れして見えた。
 只が一度も足を止めずに役場を出てしまった為に、花織は慌ててマリアに言伝をして洋館を後にした。
 玄関を出た頃には只は門扉を過ぎて左に曲がっており、花織はそれを全力で追いかける。
 門を過ぎようとした時、入る時には気が付かなかったが西洋甲冑を着る麻布の案山子に呼び止められた。
「これ、御守り。また会えますように」
 麻布に顔が描いてあるものの表情のない笑顔の彼は、もごもごと麻布を動かして花織の手に何かを握らせてくれた。
「ありがとうございます」
 早口で礼をして只を追う。幸い洋館の前は長い直線道路が伸びているため、枯れ木の並ぶ道を行く只を見失うこと無く追いつけた。
「只さん、いいんですか、あんな」
 隣に追い付いた花織にちらと目をくれた只は眉間に皺を寄せたまま生返事をする。
「あの、ネオンって……」
「風俗店だ。俺にお前の面倒を見させるためにあんな事を言いやがった」
 苛立つ只の眉間に、さらに深い皺が刻まれる。
「優しいんですね」
 舌打ちだけを返事に、只は歩き続けた。
 枯れているのか腐っているのか、墨絵のような並木が立つ道を歩いて途中で曲がる。街灯は電気、まだ中心地なのだろう。
 並木道を逸れて五分ほど歩いた所で、只は右手のアパートを指差した。
「俺の寝床だ。行動を共にするなら、近くの部屋が空いているからそこに入れてもらえ」
 説明はそれだけに、木造アパートの引き戸を開けて上がり框を土足で踏み越えていく。
「只さん、そこ土足なんですか!」
 肩越しに花織を見る只は、歩みを止めずその先にある小さな窓口に肘を着いた。
「なきじんさん、新入り」
 只の声より遅れて、うっそりと顔を出したのは目の辺りに黒い線 ―― いや、線状の虚空が入ったお婆さんだった。
「只ちゃんお帰りぃ。可愛いお姉ちゃんねぇ、彼女?」
 のんびりとした話し方をするお婆さんに、只は溜息だけで答えて花織を人差し指を曲げて呼ぶ。
「こ、こんばんは。彼女じゃないんですけど、只さんと行動するよう言われて」
 お婆さんの顔は線があるため、花織には何処を見て話せばいいか分からなかった。
 花織の言葉に「あぁ」と理解したような声を漏らすお婆さんは、続けてはいはいと何度か頷く。
「だから只ちゃんご機嫌斜めなのね。花織ちゃん、おかえり。これ、只ちゃんのお隣さんね」
 一体いつ、花織の名前を知ったのだろう。察するという範囲では片が付かない状況に戸惑いながら、花織は窓口から出された鍵を手にした。
「ありがとうございます……」
 アパートの廊下は既に住宅のような造りで、さっさと行ってしまう只を追いながらも花織は土足で歩く違和感を殺せずにいた。それに加え、先程のお婆さん、只は「なきじんさん」と呼んでいただろうか。
「只さん、なきじんさんには誰が話を?」
 渡された鍵の部屋を目指しながら、三階の廊下で只に問う。
「なきじんさんは二人の記憶を見ることが出来る」
 只の返答はそれだけで、花織はまた言葉の意味を捉えかねて少し考え込んだ。
「そういう種類の人っていうことですか?」
「ああ。俺はなきじんさんしか知らないが。あの人やマリアのような人を迷い人と言う。ゾンビとは別だ」
 理解できるような、できないような答え。
 返事をしようと息を吸った瞬間、只が足を止めた。
「ここがお前の部屋だ。向こうが俺の部屋」
 廊下に面した目の前の扉と、その奥の扉を指差した只は言い終えて自室へ向かって行ってしまう。
「あの、この後は」
「休め。後で本を持って行く」
 言いながら扉を開け、只は自室に消えてしまった。
 各部屋の扉はそのまま住宅の中にある様な扉で、鍵だけは全室に取り付けられているようだった。
 手の中の鍵に目を落とした時、花織は足元が薄く汚れたフローリングである事に気が付く。
「やっぱ、土足はダメなんじゃないのかな……」
 独り言は虚しく響き、花織は自室の鍵を開けた。

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