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小説「落花生」04

【本作を読む前に】
 「落花生」はダークファンタジーの小説です。
 作中に残酷な表現、グロテスクな表現が一部あるため、苦手な方は読まないようお気を付けください。
 また、こちらは月に一回投稿予定の連載原稿になります。
 挿絵や文庫本風にデザインした「完全版」を後に作る予定であることを、予めご了承ください。
 
 また、上述した完全版では文庫本風にデザインした、画像で読める作品にする予定です。
 そのため、本記事ではルビを振っていません。
 造語などは、前書きにルビを置いておこうと思います。

〈ルビ〉
「花織」かおり   「只」ただ
「康人」やすひと
「迷い人」まよいびと
「巣喰」すぐい   「琥珀流」こはくりゅう
「落涙峰」らくるいほう
「紲海岸」せつかいがん
「終砂漠」ついさばく
「雷没岩盤」らいぼつがんばん

04

 市街の外周は何処も似たようなものらしい。
 スラム街とも廃屋とも言えるような荒屋が中心地から溢れ出すようにして広がり、炎の光が闇の中に散らばっている。
 一歩進む毎に近付く松明の灯りたちを眺める花織は、只に渡された本に描かれた大雑把な地図を思い出していた。
 頁の下方を複雑な線を描いて横切るのが紲海岸。その方向を南として、便宜上の方角が決められたらしい。
 花織が生まれたとされる肢体ヶ原は市街の北東。つまり、今歩いている方角、顔を向けたずっと先にはあの地獄が広がっている。
 勿論、今目指しているのは市街の中心地に建つ役場であって肢体ヶ原に向かう事は無いのだが、花織はあの場所を想起せずにはいられなかった。
 先頭を歩く只は服を破いてしまったため、薄明るい常夜の闇に無数の光る血管を露にしたまま歩いている。直線状の血管が密度の高い痩躯を走る中、右の肩甲骨の辺りや左の腰部、腎臓の辺りは琥珀流が眩しい程に密集していた。
 ゾンビの体は治らない。
 初めて出会った時を思い出して、花織は僅かに目を逸らした。
 その時、先を歩いていたニコラオスの双眼鏡頭と目が合う。ふふ、と控えめな笑い声を漏らして、ニコラオスは花織と並んで歩いた。
「気にする事はありませんよ。只さん、じーつーは〜優しいので」
 実は、という部分を強調した言い方がなんだか可笑しくて、花織の心は少し軽くなる。
「うん、今日わかった」
 花織の言葉にニコラオスもくつくつと忍び笑いを漏らすので、二人して悪戯を共有する子供みたいだ。
 その声を聞きつけたのか、只が肩越しに目をやる。
 じろりと向けられた只の眼差しに、花織もニコラオスもぴたりと笑い声を止めてしまい、それがまた悪い事をしている気分にさせた。
「市街に入ったら服を買いつける。少し寄り道をするぞ」
 そう言って只はまた正面を向いてしまう。
 それが少し寂しく感じる花織は、ぼんやりと左足を意識していた。

 市街を歩く時、そこが中心地なのかどうかは街灯や窓から漏れる明かりが火から電気の光に変わった事で分かる。
 この電気というのが技術によるものでは無く、この土地の地下二十メートル程掘り下げた場所にある岩盤から発せられている物だと知った時、花織は驚いた。改めてこの世界の異常性を認識して、自室の電気を眺めたりしたものだった。
 浅い地下に現在の市街をすっぽりと覆う程広がっている雷没岩盤は、常に電気を放出しており、常夜の地獄に於いては灯りを絶やす理由も無い為、花織の部屋には電気のスイッチが存在しなかった。
 電気自体はそう言った理由で半永久的に、とは言えいつまで続くのか分からないが、少なくともここ十年以上は問題無く稼働しているらしい。
 その電気を利用して光る街灯を、市街のど真ん中、電気局から徐々に伸ばし、現在の中心地を形成しているそうだ。
 初めて市街に足を踏み入れた時と異なり、ニコラオスが話を続けてくれるお陰で何かの商売をしている住人以外から声を掛けられたり絡まれる事は無かった。
 そうして歩く中、不意に只が足を止めて左を向く。
 只の視線の先は青い煉瓦造りの四角い建物。店内を覗ける大きな硝子窓が嵌め込まれた一面が通りに向かい、淡いステンドグラスを遇った扉に「松葉服飾店」の文字が浮き彫りにされた小さな看板と「営業中」の布地で作られた可愛らしいドアプレートが掛けられている。
 大きな窓、ショーウィンドウ越しに見る店内は様々な文化圏の服が並べられて混沌としているが、花織はその光景に胸が高鳴るのを感じた。
「ここだ。……花織」
 言って、只はちらと花織の目を見る。
 店内に見惚れていた花織は少し遅れて只と目を合わせた。
「これから市街での買い物を見る事になるが、お前はまだ保留期間だ。勝手に出掛ける事は許されない」
 この世界で目覚めてから初めての店に入る前に、花織の気持ちは手折られた。
 松葉服飾店の扉を只が開けると、しりんしりんと細い金管が来客を告げる。
「はい、ただ今 」
 愛想の良さそうな男の声は様々な服や靴、帽子が陳列された店内の奥に構えられたカウンター、そのさらに奥に見える珠暖簾の掛かった部屋からだった。
 只はカウンターへ進んでいき、花織もニコラオスに先を譲られるまま店内に足を踏み入れる。
 店内は外よりも少しだけ暖かく、珠暖簾の向こうから規則的なミシンの音や、こんこんと木を叩く音が聞こえてくる。
 ややあって珠暖簾を掻き分け姿を現したのは、花織と同じくらいか少し高い程度の背丈で、青いエプロンを着けた温和そうな青年だった。
「おや、只さん。その格好は」
 挨拶も忘れて面食らった様子の男は首を傾げ、眉より長い前髪の奥から只の体を見つめる。
「出先でな。服をくれないか、俺とこいつの分。厚手のやつを頼む」
 只が親指で花織を差し、男は花織に視線を移す。花織が小さくお辞儀をすると、頷くようにそれに返して男は笑った。
「はじめまして、トユンです。店長では無いのですが、お客様への対応は私がしております」
 トユンは自己紹介をしながら胸元に人差し指を当て、また小首を傾げる。彼の顬に丸い琥珀流が髪の間から覗いていた。
「はじめまして、花織です」
 名乗りながら微笑むと、トユンはさらに明るい笑顔になった。それからニコラオスの方を見て「ニコラは?」と訊く。
「ワタクシの分はまたの機会に。左腕を生やして頂けるなら話は別ですね」
 失った左腕を掲げられ、トユンはぎょっと目を剥く。が、平気そうにぶんぶんと腕を回すニコラオスを見て安心したように声を上げて笑った。
「分かりました、只さんと花織さんの服ですね。厚手の」
 言って店の奥に戻ろうとするトユンを只が止める。
「一揃い頼む。上着とズボンと靴だ。出掛けられるように」
「長旅ですか?」
 トユンに訊かれ、只は思案気に目を伏せた。
「いや、予定は無い。外の動きが不穏でな」
 それを聞き「分かりました。お待ちください」と言ってトユンは店の奥に消えていく。
 只がカウンターに凭れ、空き時間を察した花織は改めて店内を見渡した。
 多種多様な衣服に溢れて雑然としているとも言えるが、色も形も様々な服達に囲まれるのは自然と心が踊る。只の周囲からカウンターに陳列されたアクセサリー、そのまま右へ視線を動かしていき、くるりと振り向いた先でニコラオスがテンガロンハットを試着してショーウィンドウを鏡代わりにポーズを取る瞬間を見てしまった。

 お待たせしました。と、トユンが現れたのは花織が店内を二周半ほどしてからだった。
 彼は大きくて四角い籠を二つ積み、さらにその上に二回り小さな箱を載せて珠暖簾に突っ込むようにして潜り、カウンターに立つ。
 木製のカウンターに荷物を置き、籠を分けてから小さな箱をそれぞれに載せ直す。
「こちらは只さんの分です。店長がサイズを覚えていたので、大きさの問題は無いかと」
 そう言って籠と箱を只の方へ押し出し、続いて花織を見て余った籠と箱に手を添えた。
「それから、花織さんはこちら。目測なのでサイズが合わない場合はお申し付けを」
 トユンは話しながら小さな箱をカウンターに下ろす。小さな箱には黒い靴が一足収められていて、籠の方にも丁寧に畳まれた服がいくつか詰められていた。
 花織が服と靴を見つめていると、すっと籠が引かれてトユンは珠暖簾の脇にある扉を示した。
「試着室はこちらです」
 服を入れた籠に靴を入れた箱も載せて抱えたトユンに促されるまま、花織は扉を開ける。
 きいと小さく音を立てた先に、姿見と服や荷物を掛ける台の置かれた二畳程度の狭い部屋があった。
「大きさと形がお気に召したら良いのですが、仕立て直しや選び直しも出来ます。何なりと。服は畳まずに籠に入れて、後はお任せ下さい」
 にこやかに説明をするトユンに礼を言って、花織は試着室に入った。
 足下に置いた籠から靴の箱だけを除けると、一番上には亜麻色のスタンドカラーコート。厚手ながら動きやすそうだが、花織は肘や腰周りに当てられたレザーの無骨さに渋い顔をして、壁の外套掛けに預けた。
 コートは三種類用意されており、花織はその内の一つを選んで荷台に畳んで置く。
 籠に残った服は今着ている汚れたトップスの代わりらしい。
 肩峰で引っ掛かるタイプのカットソーを脱ごうとして、花織はふと手を止めた。
 何気無く着の身着のままという体で過ごしていたが、このトップスもサブリナ丈のボトムスも、肢体ヶ原で花織と共に生み出された物だ。左の裾が無惨な状態になってしまったボトムスを見て、花織は今更ながら謝罪したい気持ちに襲われた。
 電気の灯りの中で、左の脛を覆う只の服だった包帯は所々赤茶色の染みが滲んでいる。
 それを解くと、左足にはいつの間にか複雑な蔦と花模様の琥珀流が流れて傷を塞ぎ、痛みもすっかり無くなっていた。
 花織は改めて自分の服とトユンに渡された服を見比べて、ひとつ頷く。
「今度こそは大事にしなきゃ」

 花織が試着室の扉を開けると、三人が一斉に視線を送ってきた。
 ニコラオスがすぐに拍手をしながら「とってもお似合いですよ」と褒めてくれる。
 トユンもにこやかに首を傾げて「お気に召しましたか?」と訊いてきた。
「はい。トユンさん、ありがとうございます」
 花織が選んだのは汚れたカットソーの代わりのトップスと、その上から羽織るパッチの無いスタンドカラーコート。ボトムスはフルレングスの物を選んだ。
 靴は渡された物に履き替えた。底と爪先、それから踵に硬い素材を仕込んだ固めのソックスブーツで、よく足に馴染む。
 着心地を改めて確かめてから花織は只に視線を送ったが、彼の表情が特に変わることは無かった。
「問題は無いか」
 機能性を気にする只の言葉に胸中の靄を自覚しながら、花織は「大丈夫です。ぴったり」と答える。
 そうか。とだけ答え、只は服を手に近付いて「交代だ」と言って試着室に入ってしまった。
 籠に収めた服と空になった靴箱をトユンに返し、二言三言交わす間に只が出て来る。
 靴とボトムスは黒の頑丈そうな細身の物に着替え、モッズコートに似たフードの無い紺地のコートを羽織っている。インナートップスは茶鼠色の当たり障りの無い無地だった。
 真っ先に反応したのはやはりニコラオスで、ぴょうと口笛を吹いてから「只さん、素敵ですよ!」と声を上げる。
 トユンはにこやかながら特に言葉を発さず、花織が内心首を傾げた。
「二ヶ月保てば良い」
 ニコラオスの言にばっさりと言い放った只の台詞に、トユンの反応を理解して花織は苦笑した。
「それで、お会計はまた?」
 トユンが口を開き、只は頷く。
「ああ、役場宛に。今日中には払われるだろう」
 只の言葉を聞いて、トユンはカウンターに立って抽斗から紙を取り出す。紙面に書き込みながら小指から指を立てて何かを数え、只に差し出すようにその紙をカウンターに広げた。
「本日はコートを二着、上着を三着、褲が二着、靴を二足。それぞれの素材分と、道具手当、それから人件費でこれだけになります。康人さんに怒られませんか?」
 康人の名前に、無味乾燥とした作り笑いを思い出した花織は内心どきりとしたが、只の横顔は揺らがない。
「危険手当の後払いだ。怪我もして釣りでも貰わないとやってられるか」
 真顔で冗談ともつかない事を言う只に、花織とトユンは苦笑いでニコラオスは声を上げて笑った。
「ワタクシも左腕の分、何か頂けるでしょうか」
「無理だろう。また生えるからと飲み物一つ食い物一つ貰えれば良い方だ」
 ニコラオスと只のやり取りを聞きながら、トユンは封筒を用意して領収書を仕舞い込み、封蝋で綴じて只に返した。
「ご自愛ください。それでは、またのお越しをお待ちしております」

 落涙峰の視察を断念した一行を迎えた康人は、一つ息を吐いた。
「そうですか、思い通りにいかないものですね」
 事のあらましを聞いて、康人はこつこつと書斎机を指で叩く。
 市街の役場、その中の管理室に訪れた花織、只、ニコラオスの三人はローテーブルを囲むように配置されたソファに腰掛けていた。
 只が一人掛けのソファに着いたため、花織とニコラオスは並んで長椅子に座り、書斎机に掛ける康人と向き合う形になっている。
 かたり、と小さな音はニコラオスの方からだった。金属を寄せ集めたような右手で、ティーカップに入れたコーヒーを服の中へ流し込むように飲み、机上に戻す。彼は居住まいを正して康人を見る。
「ワタクシの見た限り、黒涙の量に異常は見られませんでした。但し、川は水量が多かったですね。……これは推察ですが、黒涙はここの所休みなく流れているのではないでしょうか?」
 ニコラオスの言葉を聞き乍ら、花織は只の本を思い返す。
 落涙峰は如何なる者も寄せ付けない、巌々たる険峻。未だその頂に辿り着いた者は無く、その麓に於いても花織達が訪れた残骸洲やそれの元となる地滑川、そしてそれを渡った先にある麓森と、近づく者を拒む様な土地が広がっている。
 それでも南方、紲海岸の方角から迂回していけば時間を掛けて落涙峰に近付くことは出来る。只が視察の為に選んだルートはそういう事情からだと今だから考えられたが、結果として危険は避けられなかった。
 そこに付随して、あの世界の残骸を地獄に落としているらしき黒涙の増加。それにより何が考えられるのかは只の本にも無く、未知の領域だ。
 地獄の情報は研究を重ねられた今でも乏しい。
 ニコラオスの報告に、承知の沙汰といった体で康人は頷く。
「今はニコラオスさんをはじめ人の眼に頼っていますから確実ではありませんが、巣喰が降りて来ている以上氾濫があったという事でしょう。まあ、あの世界の知識に照らし合わせるなら、ですが。……外壁が出来上がった今だから、まだ良かった」
 外壁とは、市街にだろうか。花織は内心首を傾げて、足を組み替える只を見た。
「そうとも言えない。今回出会したのは子熊だ。森の中に群れが居るだろう」
「麓森か……只、狩りが必要だと思うか?」
 机を叩く指を顬に当て直して、康人が問う。只はティーカップを傾けてから頷く。
「時間をかければ殖える。用心に越したことはない」
 言われ、康人は再び考え込んだ。
「花織さん、巣喰について知っている事を話して貰えますか、どこまで頭に入っているのか、確認のため」
 言われ、花織は慌てて脳裏に只の本の一頁を呼び起こした。
「巣喰は、この世界、地獄に生息する極めて敵対的な存在……です。その形は我々の持つ知識で言う、人以外の動物に似た姿をしていて、顔には人間と同じ構造の口だけがあるという特徴が共通しています。あとは……」
 概要として書かれた文章を諳んじる中、何か忘れている気がして花織は目を伏せた。
「巣喰は人を喰う。迷い人を優先して襲い、次にゾンビ。コスモポリタンに反応する事は無い」
 焦れた様に声を出したのは只だった。彼は空になったティーカップをテーブルに置いて、花織に視線を飛ばす。
「昨日の今日にしては十分だろう」
 そう言った只の表情が柔らかかったように感じたのも束の間、只は康人に顔を向けてしまった。
「基本的な事は頭に入っている、それでいてこの足だ」
 只に指差され、花織は即席の包帯が巻かれた左足を隠したくなるが、その報告は真っ先にされていた。
 康人は苦笑し、何かを言おうと口を開く。
「こんな奴を、見学はおろか荷物持ちとしてすら麓森に連れて行く事は出来ない」
 康人の声を遮って只が言い放った。
 その只の目を覗くように、康人の笑顔が幾らか重暗くなる。
「随分気に入ったんだな」
 物か、愛玩動物でも指すような冷たい声音だった。
 花織は背筋が粟立つのを感じ、膝の上に置いていた手を握り合わせる。
「人手が減るぞ」
 対する只の声もまた抑揚に欠ける。それでも、花織は只の言葉の端々にあたたかな温度を感じていた。
 それを感じながら、立ち込めた沈黙に只と康人の関係を思う。
 どうしてこの二人はいつも衝突するのだろう。それでいながら、どうして互いに完全な絶縁へと至らないのだろう。
 浮かび上がる疑問は、隣から発した衣擦れの音で泡沫となった。
「あのう。その件、ワタクシに向かわせて頂けませんか?」
 ニコラオスが顔の高さで手を挙げている。
 対する康人は考えるように笑みを消していて、ニコラオスはそれに駄目押しと言わんばかりに小首を傾げてみせた。
「……ニコラオスさん、貴方は見張りから離れたいだけでしょう」
 康人の言葉に、ギクリと音がしそうな程ニコラオスの体が強ばった。
「適任ではある。今回の当事者であり、目が良いぶん本隊から離れて付いて行けばいいだろう」
 只の助け舟に何度も頷くニコラオスが先程までの冷えた空気を吹き払ってくれる。
 康人は溜め息を吐いて眼鏡を直した。
「分かりました。只と花織さんには追って指示します。今日の所はお休み下さい」

 話を終え、三人は管理室を後にするべくソファを立った。
 扉に向かう只の背を見て、花織は違和感を覚える。
 あっと声を上げてローテーブルを振り返ると、三人分のカップか置かれたままだった。
「す、すみません、カップはどうしたら……?」
 慌てて康人に尋ねると、彼も意識していなかったのかテーブルに目をやってから「ああ」と呟く。
「役場にはお手伝いさんが居ますから、どうぞお気になさらず。今日は帰って休んでください」
 立ち止まった花織を後ろで待つニコラオスも、それを気に留める様子もなく花織に出口を勧めている。
 顔を向けた先では只が廊下に出て、扉を背中で押さえたまま待っていた。
 その足下を、黒い影がさっと走る。
 慌てて後退る花織の背に、ニコラオスの手が当てられる。影は花織の前で飛び上がって立ち止まった。
「わぁ!すみません、すみません」
 花織の腰よりも小さな背丈をぺこぺこと折り曲げて謝ったのは、眉から上が虫の頭に似た形状の、それ以外は人間にしか見えない小さな女の子だった。
 謝罪を述べ、上目遣いに花織の様子を窺う女の子は、黒地に細やかなレース飾りという服装からして件の「お手伝いさん」だろうか。花織が考える間にも女の子は大きな、と言うより白目のない真っ黒な瞳に涙を浮かべてしまう。
「あの……ごめんなさい、不注意でした……その、あの」
 困惑して辺りを見回す彼女に、花織は屈んで目の高さを合わせた。
「こちらこそごめんね、お仕事中?」
「はい……お客様の帰る気配がしたので、まだいらっしゃるとは思わず……すみません」
 頻りに謝罪する女の子の頭を撫で、花織は「大丈夫だよ」と微笑んだ。
 お手伝いさん、という康人の言い回しに何処か納得していると、管理室の奥から「マル」と呼ぶ声がする。
「管理室の掃除は僕が呼んだら来るように。今月三度目だよ」
 声音は優しかったが、康人に叱られたマルは小さな体を窄めてしまった。手弄りをするように、頭から伸びる触覚を擦り合わせている姿が子供らしい。
「……まあ、こういうことです。役場では好きに寛いでいいので、花織さんはお気になさらず」
 普段通りの嘘くさい笑顔とマルの小さな背中を見比べた花織は、マルの背中にそっと手を置いた。
「いつもありがとう」
 言い終えて立ち上がる花織を振り向いたマルは、涙とは別に瞳を輝かせていた。

 今度こそ管理室を後にして受付のマリアに挨拶をした花織は、相変わらず雑然としたホールで隣を歩くニコラオスに「あの子も迷い人?」と尋ねた。
 しかしニコラオスは頭を振る。
「彼女たちはコスモポリタンに分類されるみたいですよ。役場の人達を手伝って、報酬として寝食とお菓子を頂いていると聞かせてもらった事があります。可愛らしいですよね」
 見て、そして触れたからこそ、花織は更なる疑問を抱いた。
 マルの頭は確かに人とは違って硬いヘルメットのような質感だったが、背中に触れた時は服越しでも人間の、それも子供らしい細く柔らかい感触だったのを憶えている。
 では、人 ―― 迷い人やゾンビと何が違うのだろう。
 花織が疑問を抱いたのを感じ取ったのか、ニコラオスは三本、親指と人差し指と中指を立てて花織に見せてきた。
「彼女、マルは三番目に生まれた働き蟻です。ひと月に一人、女王……康人さんは母蟻と呼んでいましたが、役場の奥にいらっしゃる方が産んでいるそうですよ」
 へえ、と打つ相槌にニコラオスは右手を下ろす。
「彼女たちは一年で大人になり、残る一年働き、死んでいくそうです」
 ニコラオスの言葉に、花織は思わず足を止めた。
「二年……?」
「はい。なので、来年……マルはあと二ヶ月で。そういうサイクルで生きている、この世界の生き物だそうです」
 突然の事に花織は頭が重たくなった。
 その場で俯いて、カーペットに視線が落ちる。
「この話を私が聞いたのは一年ほど前の事です。今のマルが交代してきて、翌月に交代を控えたエプリという名の子に教えてもらいました」
 ニコラオスの顔を見る勇気が無い。
 それでも、話す声やズボンの生地を摘んで擦る仕草から、彼もまた完全に呑み込めていない事実であると窺えた。
「おい、そろそろ時間が来る」
 先を歩いていた筈の只が、いつの間にか戻ってきてニコラオスと花織を見ていた。
 時間。ゾンビである花織と只の体力が尽きて眠りに落ちる時間が迫っているらしいが、疲れも眠気もまだ遠い花織は只の目を見たまま足は動かさなかった。
「只さん、あの子……働き蟻達について知ってましたか?」
 花織の問いに只はすぐに頷く。
「そういう動物だ。母蟻と教育係によって俺達とのコミュニケーションに問題は無い。よく働いてくれている」
 それを聞いて、花織は頷く以外に何も出来なかった。
「行くぞ」
 そう言われたまま、着いて行く事しか出来なかった。

 役場の玄関を出て、門扉を潜ろうとした時だった。
「お姉さん、また会えた」
 声に振り向くと、門番を務めているらしき西洋甲冑を身に着けた案山子、彼の麻布で出来た頭に縫い付けられたバツ印の目と目が合った。
「あっ!あの時の」
「はい……お守りは役に立ちました?」
 言われ、花織はあれから持ち物に部屋の鍵しか増えていない事に気が付いた。
 改めてポケットを弄るが、両方とも空。その様子を見て案山子は笑う。
「ああ、いえ、物ではないので」
 そう言う案山子に花織は眉を顰めて首も傾げる。
「なきじんさんやニコラオスと同じだ。珍しいなトマ、お前がお守りをやるとは」
 只に言われ、案山子のトマはまた笑った。
「只が新人を連れる方こそ珍しい。けれど彼女、危なっかしく見えて」
 だとさ、と呟いて花織を見る只は意地悪そうに口端を上げる。
 只にはせめてもの反抗として睨み返しておき、花織はトマを見た。
「……あの、お守りって?」
「僕に渡された力です。一度だけ、貴方の身を守ってくれるはずです」
 トマの説明を聞き、花織は今日の、巣喰に襲われた時のことを思い出したが、あの時はニコラオスの活躍で逃げる時間を稼いだだけだった。
 もしあの時、花織が選ばれていたら。
 そう思う間に、トマは再び花織の手を取って何かを握り込ませる。
「また、会えますように」
 トマの手は木の枝で出来ていたが、不思議と温かい。
「はい、また帰ってきます」
「花織さん、大胆ですね」
 ぬっと花織の顔に双眼鏡頭が近付いてきた。
「大胆?」
「ワタクシの目にはラブストーリーの一幕に見えましたとも!」
 久しぶりによく分からないポーズを見せたニコラオスに、役場の門前は生温かい空気に包まれた。
 少し間を置いて、トマと共に門扉を守っている日本鎧だけが吹き出した。

 不慣れな筈の私室でも、帰ってみれば全身の力が抜けていく。
 そのまま玄関口で眠りに落ちそうになるのをどうにか振り払って、花織はサイドテーブルに置いていた本を手に取る。
 ベッドに腰を下ろすか迷ったが、本を手にしたまま眠りに落ちた後を想像して止めた。
 改めて手に取ると、革に見立ててデザインされた量産品だと分かる本。その簡素な表紙をひと撫でして、頁を捲る。
 迷い人、ゾンビの項目を飛ばしてその先、巣喰の項目へ。
 巣喰とは、顔以外があの世界の動物に酷似した、人を喰らう危険な動物。
 その生態は謎に包まれているが、ただ一つ、人 ―― 迷い人とゾンビに対してのみ反応し、捕食の為に襲い掛かって来る。
 ある程度人を喰らった個体は何処かへ去り、近い内に似た形状の小さな巣喰が殖える事から、蚊か鳥に似た生態を持つと推測される。つまり、壊胎したか子を産んだ個体が狩りを行い、繁殖しているのだと。
 ここまでの一連の記録を読んで、花織は一つの疑問を抱いた。
 残骸洲で遭遇した巣喰を只は「こぐま」と称していなかっただろうか。
 勿論、この本に空白の頁がある以上これらは研究段階にあるのだろう。しかし、こぐまが小さな熊では無く、熊の子を指しているのなら、今日の件は狩りの練習と言えないだろうか。
 あの場所には実は、そう遠くない場所に熊の親が居たとしたら。
 もしもあの時襲ってきた巣喰が、もっと成熟した個体だったなら。
 ぼたぼたと垂れたインクが染みるように、点と点が線ではなく真黒な染として形作られる様な、たらればの恐怖。
 肘から先の無いニコラオスの左腕を思い出して、花織は震え上がる。
 只も、ニコラオスも、そして管理室でおそらく司令塔として働く康人も、まだこの世界を ―― 地獄を知り尽くした訳では無い。
「私は……」
 何をすればいいのだろう。
 一体、何の役に立てるのだろう。
 ぱた、とは本の閉じる音か、涙が床を打つ音か。
 薄いカーテンの隙間、黒い窓に一人分の姿が映っていた。

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