小説「パラレルジョーカー」02
はじめに
本作「パラレルジョーカー」には、暴力、暴言、戦争や著しい差別などの描写を含みます。
それに伴い、グロテスクな描写、憂鬱な気分にさせる描写を含む為、苦手な方は本作を読む事をお控え下さい。
また、本作は創作物であり、実在するあらゆるものへの批判や、思想の拡散を目的とした物では無い事をご理解下さい。
前回までのあらすじ
或る大陸の片隅で、カーニダエ帝国とフェリダー共和国という二国は長い戦争の歴史を紡ぎ続けていた。
人も資源も豊富なカーニダエ帝国に対し、凡ゆる貧困に喘ぐフェリダー共和国は、史上七度目となる生体兵器〈フェリダーの英雄〉を作り、ライガと名付けて希望を押し付ける。
一方のカーニダエ帝国もまた、一進一退の歴史を繰り返さぬよう、隣国の支援を求めてフェリダー共和国討滅への駒を進めようとしていた。
その、時代の畝りが起きようとする只中で、嘗て〈若き英雄〉と呼ばれたカーニダエ帝国の男、グリーセオは動かされる。
過去と現在の自分に板挟みにされるグリーセオは、何処へ向かうのか。
英雄を押し付けられ、作り出されたライガは、怒りとして湧き続ける正義感で何を成すのか。
長き戦いが、緩やかに燃え広がろうとしている。
01話はこちら。
目次について
本作では本編中の場面転換を軸にnoteの「目次機能」による見出しを付けております。
表記は「 ✕✕✕ 」が大きな場面転換。
その後に付く「 01の零 」など、末尾の漢数字が見出しの番号代わりとしております。
例外として、長い節にも小見出しによる区切りを付ける場合がございます。
しおり代わりにご活用ください。
02 傷痕、滲む
アルゲンテウスは震える己の脚に拳を振り下ろした。
鈍い痛みがして、しかし、腰から下に力が戻る事は無い。
(くそっ、くそっくそ! グリーセオが、グリーセオが……!)
焦りは増す程に全身を震えさせ、茂みの中からグリーセオの戦いを見守るアルゲンテウスには、それ以外に何も出来なかった。
爆風の最中に突如として現れた、血みどろの獣へ果敢に立ち向かうグリーセオは、獣の左側面へと駆け出している。
しかし、それは数歩の後に打ち止められた。
獣が大口を開けて吠える様な姿勢を取った直後、びょうと風を切る音がして、突風に煽られたグリーセオが呻き声でもって叫び、のた打つ。
(なんで!? グリーセオ、そんなヤツに負けんなよ! どうして!)
ぱくぱくと音の出ない口を動かし、アルゲンテウスは赤黒い獣の顎に持ち上げられるグリーセオを眺めている。
(行かなきゃ、行かなきゃ、助けに行かなきゃ。早く、早く早く――早く!)
心の声は幾らでも湧き出し、それを叶える力は枯れていた。
痩せぎすの四つ足で地面を捉える獣は、身の丈一八〇もあるグリーセオを玩具宛ら振り回す。
そこに、流星が墜ちた。
いや、流星に似た一条の閃きは、樹上から跳び立ち、外套で隠れる腰背部に帯びていた刀を振り下ろす、赤毛の女――クリスによるものだ。
クリスの斬撃はしっかりと獣の頸を捉え、グリーセオには掠りもさせず湿った土を巻き上げて、グリーセオごと獣の頭を宙に躍らせる。
それを見て駆け出し乍らも、刀に着いた血を払い納刀したクリスは、鈍い音を立てて落ちたグリーセオの元へと駆け付けた。
「おじさん、大丈夫!?」
眼前の戦闘が終わり、今さら思い通りに動いたアルゲンテウスの両手は、ただ腐葉土を握り込むだけ。
――カニス族の落ち零れ。
何度も何度も自覚した言葉は、再びアルゲンテウスの掌を汚した。
✕✕✕ 02の二
グリーセオは駆けていた。
雄叫び、悲鳴、怒声、慟哭。夫々が感情を迸らせ、ぶつかり合う、石造りの家々が建ち並ぶ集落を。
――見付けなければならない。
そう叫ぶ己の声を胸中に聴き、グリーセオは独り、戦場を駆けている。
暗夜の下、炎と黒煙を噴き上げる集落は日常の風景では無い。
カーニダエ帝国が攻め込んだのだ。
――見付けなければ。早く見付けなければならない。
何を、とは思い描けず、ただ背中に張り付く焦燥感に追い立てられて、グリーセオは集落を突っ切り、離れた場所に見える弱々しい灯りを目掛けて走る。
あれは、人の点けた灯りだ。
そう認識して速度を上げ、ふっと夜闇に消える灯りの元へとひた走る。
――早く、早く。
灯りが見えた位置はグリーセオが走る荒野よりも高い。
丘か山に建てられた家があるのか、それとも別か。
仔細には興味が無い。ただ、出来るだけ、早く。
そう思う間に、グリーセオは闇に慣れた目で不自然な土と葉の盛り上がりを見付けた。
足でそれらを払い除け、現れた木板の隙間に指を差し込んで持ち上げる。
隠された地下道への階段が口を開けて、グリーセオはその先の暗さに不思議と安堵した。
小さく息を吐き、そろそろと、階段を爪先でなぞる様にして地下へ。
――今度こそ大丈夫だ。
先程までの焦燥感はすっかりと剥がれ落ちて、背中に噴き出した汗が冷たい。
息を整え乍ら暗闇の階段を暫く降りて、グリーセオは扉の前に辿り着いた。
簡素な作りの木扉は、把手に触れただけできぃと押し開かれていく。
温かな火の明かりが溢れ出して、扉の先に、白く長い髭を蓄えた祖父が、浴びた返り血を滴らせて立っていた。
「良くぞ見つけた。次代の英雄よ」
大斧を払い、地下室に新たな血の汚れを作り出す祖父を、グリーセオは呆然と眺めていた。
祖父が左手に持つ松明で浮かび上がらせる周囲には、人の形を保たない、人数さえ知れない肉塊が転がっている。
その中に、黒衣は無い。
黒衣は、フェリダー共和国の戦士の証だ。
フェリダー共和国の民草達は、黒を除く色を選んで、己が非戦闘員である事を示す。
祖父の足下に転がるそれらは。
戦傷一つ付かず、着衣も乱れず、返り血に塗れた祖父の足下に転がる、人だった物は――
✕✕✕ 02の三
フェリダー共和国に於ける地図の中心部であり、国家を内陸から蝕む荒野、クロー高原は、国の末端を担うフェリダー共和国の民にとって瀬戸際でもあった。
フェリダー共和国の北側を覆うグラーツィア山へと通じ、南を指す逆三角形状のクロー高原、その南西の辺に、褪せた緑が広がるペクトーラル原野を含めた、比較的肥沃な場所を統治する〈ガーランド領〉がある。
ガーランド領は、他の領地に較べて清潔で安定した地下水脈に恵まれており、それ故に農耕や牧畜といった第一次産業――主に食糧自給を担う重要な土地だ。
領地を運営するのに必要最低限の食糧は残し、限界以上に切り詰めたそれを超過する分を国中へ、特に、宿敵カーニダエ帝国との国境を担う〈六領〉への補給を怠れば、ガーランド領、延いてはフェリダー共和国の滅亡を意味する。
そういう切実な状況に生まれた事を理解しているガーランド領の人々は、結果が目に見える仕事を好み、地道で先の見えない物事は他所の仕事であると割り切っていた。
逼迫した情勢を常に見詰め続けているガーランド領に、片手で数え切れない欠落を持った人間の居場所は無い。
それは例えば、個人の性格であったり、不具であったり、偶然による失敗の積み重ねであったとしても。
欠落を見咎められ、味方を失って追い出された人間は、クロー高原に面した各領の外れ、荒野との境である〈トラッシュ〉と呼ばれる貧民集落を形成する。
彼等が住まうのは嘗て辺境の集落があり、今はクロー高原から年々広がっていく土地劣化に呑まれた廃墟群だ。
ガーランド領内の生きている町や村落と変わらない動植物が僅かに残され、閑散としたガーランド・トラッシュには、近年、クロー高原の侵食が一際大きく進んでいた。
今まで根付いていた植物が腐り、昨日まで汲めていた土色の井戸水が遂に枯れ、乾燥した風によって病が広がり、ガーランド・トラッシュの人々は少しづつ、侵食と共にガーランド領の内側へと住処を移していく。
しかし、同じ領内の民であっても、一度追放された人々を受け入れてくれる場所は何処にも無い。いや、寧ろ威嚇され、攻撃され、再び閑散とした大地へと――最悪、それよりも先へ追い出されるのが日常だった。
そんな状態に在っても、霞程も無い物資を必死に掻き集め、人が生きればそこに営みは生まれる。
ガーランド・トラッシュの片隅で、片端の母と病気がちな父の元、五体満足に生まれて八年を生き延びた少年、コドコドは、幼い乍らに両親を支えて日々を過ごしていた。
貧民集落の中でも人当たりの好い大人に訊いたり、自身の口で確かめた安全な植物を持ち帰り、蜥蜴や虫等の確実に捕まえられる動物を狩って来たりするコドコドを、両親は戸惑いを見せつつも大いに褒めてくれた。
それから決まって、コドコドの父は咳を挟み乍らコドコドと母の肩を抱き寄せる。
「よぉし、今日はコドコドのおかげでごちそうだ! 父さんが腕によりをかけるからな!」
捨て置かれた魔法道具を使って、火を起こして焼くだけなのに、大口を開けて笑う父と、家族に愛を振りまく父に優しく微笑む母の顔が、コドコドが日々を生きる何よりの糧だった。
✕✕✕ 02の四
「そもそも俺が勇気を出せてりゃ良かったんだ。それなら、グリーセオは……」
ふと、アルゲンテウスの声が響いた。
続かない彼の言葉を待たず、大きな溜め息を吐く音がする。
「そんなの今更。死んだ人もいるけど、グリーセオが間に合ったからあの四人は生きてる。私達に出来たのはそれだけってこと」
「でも、でもよぉクリス」
「ぅるッさいなぁ! だったらジマーマン領主の首でも獲ってきたら? 今度こそは出来るはずだぁ〜、でしょ。ジメジメノッポ!」
「ちょっ、ジメジメノッポってなんだよお前! 言って良い事と悪いこと――」
「なにを、喧嘩してる……」
霞む視界が戻らないまま、グリーセオは堪え切れずに上体を起こした。
突いた手が筵のちくちくとした感触を伝えて、その煩わしさが不思議と生きた実感を与えてくる。
「お、おじさん……起きてんなら言ってよね…………」
天井に掛けられた、光を絞った携帯燭台に照らされる小部屋の中、壁に背を預けて脚を組み、相変わらずの悪態をつくクリスを見て、グリーセオは枕許で胡座をかいているアルゲンテウスに目を移した。
背を丸めてグリーセオの顔を覗き込むアルゲンテウスは、親に縋る子供の様に涙を浮かべ乍らグリーセオを見ている。
「ぐ、グリーセオ、大丈夫なのか……?」
「ああ……あー、いや、全身痛むな…………あの後どうなった」
グリーセオの問いにアルゲンテウスは袖で目許を拭うだけで、クリスはそれに鼻息を漏らして脚を組み替えた。
「私がアレの首を斬り落としたの。あの、よく分かんない化け物の。それで、私とアルグでアンタを引き摺って駐屯基地に戻った。
そんなに時間は経ってないよ。偉そうな女王サマからの連絡も無いし。――何の為に私らを呼んでんだか」
クリスの言う『女王サマ』とは、〈第三ナスス駐屯基地〉に足を踏み入れたグリーセオ隊を丁重に出迎えてくれた、青い裳裾の彼女の事だろう。
一言でそう理解できて、グリーセオはふっと笑みを零した。
「なに?」
笑う声を聞いて苛立ち気味に言うクリスに手の平を見せたグリーセオは、その手で笑みを抑えようと自身の口許を撫でる。
「いや、女王サマっていうのが、なんだ、その、上手いなと思ってな」
「…………あっ、そ!」
微笑して言うグリーセオにそっぽを向いて怒声を残し、クリスは小屋から出て行ってしまった。
「はは……まったく、『なんなんだよ、あいつ』」
アルゲンテウスがやや芝居がかって言い、引っ掛かりを覚えて眉を上げたグリーセオが彼を見ると、アルゲンテウスはいつもの調子を覗かせる笑みを浮かべる。
「これは……クリスが報告に来てさ、グリーセオが……なんだったかな、『早く行くぞ』みたいな事を言ってこの小屋を出た後に、あいつが言ってたんだよ。……そん時の物真似」
グリーセオの知り得ない話をされて、グリーセオは曖昧に頷いてから立ち上がった。
「まぁ、誰しもお互いをそう思うだろう」
言って、痛む体を引き摺る様に歩き出すグリーセオに従い、アルゲンテウスも立ち上がる。
「どこ行くわけ? まだ安静にしてようぜ。そんなんじゃ保たねぇって」
「クリスともう少し話しておく。あとは――女王サマに今後のお話をお伺いしなくちゃな」
「……っぷ、はは。なんだ、なんかイイ感じになってんじゃん」
「何が?」
「いいや、こういう方が楽だなーってね」
「……そうか」
木戸を引き開け乍ら、グリーセオは人知れず両手を握り込む。
忘れかけていた骨肉を断つ感触が、何故か今、蘇った。
✕✕✕ 02の五
空はまだ青い。
返り血が固まって黒ずみ、ぼそぼそとした欠片になって剥がれるほど時が経っても、少年は母親の死体に縋り付いたまま動かなかった。
だから、近くの岩に腰を下ろしていたライガは立ち上がり、少年の襟首を掴んで死体から引き剥がし、軽く放る。
少年はほんの少しだけ驚いた顔を見せた後、ライガの顔を見てまるで安堵したかの様に全身の力を抜いた。
細く、頭を支えられるとは思えない首を差し出す様に。
「…………殺さねぇよ。お前は」
少年から目を移し、ライガは完全に生気を失った女の死体を見下ろす。
捨て置かれた男達の死体とは違う、脚以外は綺麗に見える死体。
だが、彼女の腕は左右夫々で長さが異なるものの、失くしてから随分と経ったか、元々『出来なかった』様に見えた。
「か、かあちゃんに何すんだよ……」
震える声で呟かれた言葉にライガが振り向くと、少年は地に手を付き乍らもライガを弱々しく睨んでいる。
ライガはその姿に、言い知れぬ無力感を覚えた。
原因も、それがどういう種類の感情なのかとも言えない、皮膚の裏を這い回る様な、無力という言葉を連想させる、何か。
その正体を探らんとするライガは、不意に右足の重さを覚えて、思考から現実に引き戻される。
「かあちゃんはもう……もういいだろ! そっとしてよ! やめてよ!」
ライガの絝を掴み、引き、弱々しく叩いて、少年は幾筋もの涙を流す。
ライガはそうする少年をまた引き剥がそうとして、しかし、襟首を掴んだ所で体が止まった。
引き剥がすという意思は形を変えて、少年の襟首を引っ張って滂沱を流す顔を仰向かせる。
「や、やだ! やめろ! やめろ、やめろ……!」
必死に抵抗する枯れ枝の様な少年の顔に近付いて、ライガは真上から彼を見下ろす形になった。
「……オレは、オレの名前は、ライガだ」
その静かな声に、少年は抵抗を止め、呆然と目の前のライガを見上げる。
「こいつ、お前の母ちゃんなんだろ。……もう、そっとしてやりたいんだろ?」
ライガの問いに、少年は暫くの間押し黙って、こくりと一つ頷く。
それを見たライガはぱっと手を離し、ぐらりと揺れた少年が枯れ土を転がった。
「だったら埋めてやんねぇとよ、この辺の虫に食われちまうだろ。あ?」
乱暴な口調のライガに、少年は怯えを引き摺り乍らもまた頷いて、それから辺りを見回した。
「……何処も変わんねぇけどよ、まぁ……埋めるとこくらい決めてやれ」
ライガが話す最中に、少年はよろよろと腰を上げて、特に返事も無く歩き出した。
少年が向かったのは、ライガが殺した男達とは別の男の死体。
それは顔から胸元までを切り裂かれていて、ライガには『恐らく自身が殺したものとは別』という事しか分からない。
だが、少年はその死体の両腋に腕を突っ込んで、それを引っ張ろうとする。
そうする少年を訝し気に見てから、ライガはゆっくりと歩み寄った。
「何してんだよ」
「……これ、とうちゃんなんだ。とうちゃん、オレとかあちゃんを守るために、弱いのに、前に出て、だから、こんなに離れてんだ」
淡々とした説明に、ライガは絶句した。
少年の父親が死んだ時の音と声に、心当たりがある。
「とうちゃんはいっつも言ってた。オレと、かあちゃんと、コドコド、三人だからやっていける。辛くても生きられるって」
ライガの体内を渦巻く無力感は、先程よりももっと酷い。
苛立ちが自らを締め上げ、這い回る荊となって、体の彼方此方を掠め去る。
無意識に力の篭もる足が、渇いた土を抉っていた。
「だから、とうちゃんはかあちゃんと一緒じゃないと。こんなんなっちゃったけど、かあちゃんの大切な、オレにも大切な、とうちゃんだから……!」
言い乍ら、少年は涙を蘇らせる。
何度も何度も溢れて止まらない涙を拭い、動きもしない父親の死体を引いて、泣いていた。
ライガは其処に向かって、少年を父親から乱暴に引き剥がし、父親の死体をそっと抱え上げる。
「お前じゃ何年経っても無理だ。手伝う。……何処に埋めてやるんだ?」
死体を軽々と抱えるライガを見上げて、少年は辺りを見回した。
クロー高原の外れ、石や枯れ木で組み立てられた荒屋は遠く、辺りにはライガの腰ほどの高さに砂岩が隆起するばかりで、綺麗な場所など一つも無い。
しかし、少年は歩き出し、母親の死体の傍に立って、足下を指差した。
「こ、ここにする…………。いいのか、わかんないけど、かあちゃんは最後に、ここにいたんだ。とうちゃんは、かあちゃんのとこにいなきゃ……」
胸に支える重たい空気を堪え切れず、ライガは音を立てない様に溜め息を零して歩き出す。
少年の父親を一時的に母親の隣に寝かせて、ライガは少年の指示を仰いで渇いた地面を掘った。
人の域を外れた膂力を持つライガと言えども、直ぐに充分な穴を掘る事は出来ず、少年も細い指で土を掻き出して、日が傾き出した頃、立った状態の少年がすっぽりと埋まる程の深さを掘り終えて、ライガは狭い土中に寄り添い合わせる様に、二人を寝かせた。
穴の緣に上がり、膝を着くライガが土を入れようとして、少年はその腕を引く。
「あっ…………う……ごめん、とうちゃん、かあちゃん…………」
それだけ言って、少年は力無くライガの腕に寄り掛かった。
「どうしよう、ライガ、ダメだ。オレ、できない、もう、ダメだ。こんなこと、だって、土をかけるなんて、かあちゃんなのに、とうちゃんなのに」
掴んだ腕から滑り落ち、ずるずると項垂れていく少年を、ライガはただ見る事しか出来ない。
そうして、軈て、ライガは手本を見せる様にゆっくりと、手の平の土を死体の上に流し込んだ。
「駄目だ。埋めてやるんだ。これ以上、何かされないように。一番静かなとこに入れてやるんだ」
ライガの言葉に、少年は泣いた。
年相応に、声を上げて泣き、暫く経った頃、細い指でそっと土を入れ始めた。
02の六
少年の手伝いをする中で、いや、一通りの事が終わり、二人を埋めた場所に辺りから拾って来て置いただけの墓石を前にして座り込む、少年の小さな背を見ている今も、ライガは臓腑の底で煮え滾る怒りを感じ続けている。
言葉では吐き出し切れない激情の澱で、喉から腹までが汚れた様にも感じて、ライガは墓から離れて唾を吐き捨てた。
それからまた、夕闇に沈みゆく少年のちっぽけな背中を見る。
ただでさえ幼く小さな背中は、憔悴し切って老人の様でもあった。
「……コドコド、だっけ? お前」
ライガの問いに、少年――コドコドは墓石を向いたまま頷く。
「なんでアイツら、お前らを襲ったんだよ。お前も、二人も、オレと同じくらい無一文だろ」
「…………わかんない」
コドコドの返答に、ライガは眉を顰めた。
「アイツらが『盗人』っつってんのは聞いてんだ。なんかマズイもんでも盗ったんじゃねぇの」
「わかんないよ!」
突然、コドコドが悲鳴じみた声を上げて、ライガは一瞬だけ息を呑む。
「わかんないよ……どうして、かあちゃんも、とうちゃんも、優しいのに、病気なのに、町に入れないの…………」
コドコドの絞り出した言葉で、ライガは彼の両親を穴に入れた時を思い出した。
父親は、一太刀で顔から胸元までを斬り裂かれて死んでいた。殆ど肉の無いその体は、ほんの少し歪で、胸骨の辺りが凹んでいて、ライガはそれに違和感を覚えていた。
母親は脚の他に外傷らしいものは無く、左の腿を折られていた。両腕は左右夫々で長さが異なるものの、上腕より先は元から無い様にも見えた。
コドコドの言葉から――彼らの病を治せるか如何かはともかくとして――町と呼べる人里が、このフェリダー共和国に存在するのだと窺える。
そんな物が有り乍ら、何故――
「お前らは何でこんな所に住んでたんだよ。どうしてこんな」
「わかんないって言ってるでしょ!」
「だから、親父とかお袋から聞いてないのかって言ってんだ」
「……そんなの…………。…………とうちゃんが、前に……『俺達が普通じゃ無いから』って、言ってた……だけ…………」
膝を抱え、コドコドは頭を揺らす。
恐らく膝で涙を拭っているのだろう。そう察したライガは、コドコドから視線を外した。
コドコドの両親が殺されたのは、砂岩が隆起する人影の疎らな地帯から更にクロー高原側に離れた荒野だ。
ライガが目を向けたのは、コドコドの両親を埋葬し始めた頃からじろじろと不躾な視線を送って来ている遠い砂岩地帯の人影や、その更に先に見える緑が点々と見え出す丘陵地帯が見える方角だった。
「普通じゃ無いから、ね……」
コドコドやその両親に似た、擦り切れた襤褸布を着込む砂岩地帯の人間達には興味が無い。
ライガが本当に見たかったのは、遥か先、この先の何処かにある町だった。
しかし、それらしい物はこの場所からは見えず、結局泣き噦るコドコドの背中に向き直る。
「コドコド、良いのかよ、こんな糞滓な世界で、隅っこに掃き捨てられて、なんもねぇまま死んで。それで良いのか、お前は」
「……もうどうでもいい。このまま天国に行きたい…………」
膝に顔を埋めてくぐもった声に、ライガの心臓が跳ねた。
均一な重低音が響き、周囲の空気を押し退けて、ライガの右腕が肩口から外骨格に変化する。
その兇悪な右腕を振り上げたライガは、背後からコドコドの首を左手で掴み、乱暴に地面に押し付けて、自らの血に濡れる深紅の五爪を小さな顔の前に突き付けた。
「じゃあオレが殺してやるよ。首を捻じ切って、裂いて裂いて裂いて! バラバラにして、親とは別の場所に投げ捨ててやる……! ――生きる気のねぇ奴に弔いは要らねぇんだよ……!」
怒りに満ちたライガの声に、コドコドは驚き、呆然としたまま頭を振った。
「何だよ、どうでもいいんじゃねぇのか!? あ!?」
突沸した怒りを剥き出しにして叫ぶライガに押さえ付けられ、コドコドは涙を浮かべる。
その涙に、ライガの胸中には別種の怒りが浮かび、口許を強く引き結んだ。
「い、やだ……」
コドコドのか細い声がそれと重なり、ライガは苛立つ。
――違う、これは、間違ってる。
「嘘を吐いたのかよ、親父とお袋死なせて、それで無駄死にしてぇってか! なぁ、答えろよ! 死にてぇなら殺してやる! さっきの奴等みてぇに! 一瞬で!」
思う言葉とは裏腹に、ライガの口は憤怒のままに動く。
ライガの怒気に当てられ、過剰に上がった息が言葉を紡ぐ事を許さず、コドコドは只々泣き噦り乍ら、頭を振り続けた。
軈て、ライガの左手が緩み、右腕の外骨格が各所に隙間を空けて人の肌を見せていく中に、必死に息を吸うコドコドの声だけが響く。
「……っや、やだ…………やだ、やだ。とうちゃんとかあちゃんに会いたい……バラバラも、死ぬのも、嫌だよぉ…………」
「だッッたら……!」
再び燃え盛る憤怒の炎を、ライガは右腕を地面に叩き付けて抑えようとした。
それは重々しい破壊音を伴って、ライガの右前腕が砕ける。
砕けて入り乱れた外骨格が肉を裂いて、ライガの右腕は背に負う襤褸布の様に、人の形を崩した。
目が眩む程の痛みよりも、肚の底から噴き出し続ける怒りの感情の方が勝っていた。
「だったら、両親を見付けるまで生きろ。ここから先、諦める事も、負ける事も許されない。お前はお前を変えるんだ。
オレを追え。いいか、コドコド…………オレは世界を変えるぞ。この糞ッ滓の世界を、バラバラにして、作り直させてやる。オレの満足いくまで、何度も、何度も、何度も…………!」
荒々しい息を吐き、行き場の無い怒りを吐き出して、コドコドの目の前に、血に汚れた男が立ち上がる。
人の手が届かない、昏く晴れた空の下、黒髪の中に燃える赤を宿した髪を揺らめかせて、ライガは歩き出した。
へたり込むコドコドは両手で涙を拭って、最後に両親の墓石を見遣り、ライガの後を追う。
向かうのは、荒野と緑野の混じる丘。
砂岩地帯の野次馬達は、道を開ける様に住処へと隠れて行った。
住処を持たない獣と、住処を失った子供だけが、荒野を歩く。
独りでに治癒していくライガの右腕が、血の跡を遺して。
✕✕✕ 02の七
リトラ砂漠を介してカーニダエ帝国と接するフェリダー共和国の西、その中央部に位置するジマーマン領の正に最前線に建つ砦を〈スナド戦線基地〉と言う。
そこは、国境を兼ねた砂漠を跨ぐ広大なオキュラス湖の東端、滴型の底面に当たる曲線部を意地でも守る為の要塞だ。
水の貴重なフェリダー共和国に於いて、国中何処を探してもこれ程迄に広大な水源は無い。
フェリダー共和国の人間が口にする水と言えば、北部を覆うグラーツィア山の雪解け水が地下を通り、クロー高原を経て汚染されたものか、それが更に天然の濾過を経て運良く滲み出したものか、はたまた海沿いの地域でのみ年に数える程降るとも知れない雨粒か。
その、枯渇と飢餓に常に苛むフェリダー共和国が、遠い過去にオキュラス湖東端――現スナド戦線基地と同じ箇所――に建てられたカーニダエ帝国の前線基地を占領して、死守しないという冗談は無い。
だからこそ、ジマーマン領では力と武勇だけが物を言い、弱き者は下働きか、その程度の役にも立たなければ首の皮を剥がれ、それを敗者の証――実質的な奴隷の証として他の領地に送り付けられ、消息を絶ってきた。
勇名高きジマーマン領で、歴史上の唯一人『生き屍人』の渾名を持つスナド・ル・フィッシャーを除いて。
過去、オキュラス湖の奪還を目標として攻め込んだカーニダエ帝国との戦で、第三ナスス駐屯基地を攻め落とす可く下された作戦があった。
鼓動の停止を感知して発動する自爆魔法を埋め込んだ兵士――〈フェリダーの蛍〉を使った強行戦術。
その作戦に編成されたスナドは、体内への魔法道具の取り付けに反対し、逃亡。
敢え無く捕縛されるも、全体の士気に関わるとして内々に敗者の証と共に顔を焼かれ、スナドはジマーマン領主の元に送られ、公にはその消息を絶つ事となった。
それから十五年。スナドは名を変えずにジマーマン領へと戻り、当時――現在より五年前のオキュラス湖防衛を担うフェリダー共和国の戦線基地にて決闘を乞い、実に六人の兵を打ち負かし、最後に戦線基地首領を決闘に於いて殺害。
その首を以て、戦線基地の名を塗り替え、現在の〈スナド戦線基地〉としたのだった。
そのスナドが、石造りの砦内に作られた貴賓用の一室で腰を折り、頭を下げていた。
「此度は貴重な兵士を死なせ、剰え敵主力兵を討ち損ねた事、深くお詫び申し上げます」
対するのは手元の小さな机に肘を突き、革製の椅子に座してスナドを睨む老齢。
黒に灰色が交わるフェリダー共和国式の礼服を着込んだ老齢の男――ジマーマン領の主、ロシャブル・ジマーマンは、低く唸る。
「立場を気にした御託宣などよい。お前の為人は十五年前に割れている。……それで、収穫の話をしろ」
ロシャブルが先を急かすと、スナドはくつくつと笑い声を漏らし、頬から上に無数の根が這う様な、古傷が覆う顔を上げた。
ロシャブルは嗤うスナドから一瞬目を背けて溜め息を吐き出し、にやつく黒衣の男を睨み直す。
「やはりカルニボア機関の研究者は優秀です。融解形成型再生魔法……擬似英雄はあと少しで実用段階といった所でしょう。
此度の奇襲で生体への魔法発現も確認し、その後に変化した被検体による魔法行使も確認されました。
数少ない自国民を『蛍』にするよりも、精神的にも物的被害としても、此方の方が効きますよ」
楽し気に語るスナドを詰まらない物の様に見据えるロシャブルは、頬杖を解いて背凭れに体を預けた。
「成程、『敗者』に使い道が出来たという点は評価しよう。――だが、人間を消耗品にする点は『蛍』と何ら変わらない。過程を変えただけ……いや、寧ろ後処理を考えれば手間が増えるだろうに」
ロシャブルの意見に、スナドは笑んだまま息を吸う。
「ええ。ですからあの時にカルニボア機関へ志願したのです。手間暇かけて生産する〈フェリダーの英雄〉に、更なる付加価値を与える為に」
「……何を仕込んだ」
「仕込んだ等と、とんでもない。隠し事はありません。……ただ、ライガであれば擬似英雄の獣達を従えられるというだけですよ。しかし、それは旧型の英雄には無かった――いえ、あったとしても、今の技術だからこそ実現が可能になった代物です。
戦死した者をその場で獣にし、再起したそれを引き連れて仇敵に攻め入る。その様は帝国は疎か、フェリダーの民草をも畏れさせるでしょう。
だからこそ其れがいい。戦後、持て余して飼い殺すよりも、危険因子を摘んだとすれば、英雄を物語で終わらせられる」
語り終えたスナドに、ロシャブルは鼻から溜め息を漏らした。
「本の虫らしい夢物語だな」
ロシャブルの言に、スナドは体毛の無い眉を跳ねさせる。
それを直ぐに微苦笑で隠して、スナドは一つ頷いた。
「ええ。今はまだ。ですが今頃はライガが完成し、この国を放浪している事でしょう。贋作の正義感を育み、近い内に収穫期を迎える。それまでどうぞ、私めにお任せを」
恭しい礼をして見せるスナドを、ロシャブルは嗤った。
「そうだな、そうするとしよう。――貴様が〈カニス族の若き英雄〉に勝てたなら」
ロシャブルの言葉に、スナドは今度こそ表情を崩した。
古い火傷痕に覆われた目を見開き、口元を歪め、驚きと怒りを露にする。
「それは、どういう……」
「私兵が持ち帰った確かな情報だ。彼の若き英雄は生きており、貴様の送り付けた奇襲分隊を全滅させた」
ロシャブルはそう言って立ち上がり、立ち尽くすスナドの脇を通り乍ら彼の肩を叩いた。
「良い獲物を釣り上げたな、〈オキュラスの釣り人〉。精々食われぬように気を付けろよ。
――お前が生きていたら、改めて夢物語の詳細を聞かせて貰おうじゃないか」
遠ざかる足音と閉扉の音を背にして、貴賓室に独り残されたスナドは、背を丸め、火傷の痕を掻き毟る。
「ぅぐ、ぐ……ぎきぃ、イッ…………グリィセォォ…………」
スナドの顔から血が流れ出し、歪む口端から忍び込んで血の味を滲ませる。
二十年前、オキュラス湖の戦線基地を追い詰め、苦肉の策としての〈フェリダーの蛍〉作戦を実行せざるを得なくした、若き戦神。
――グリーセオ・カニス・ルプスは、スナドの顔と半生を奪ったに等しい。
そう考えているスナドは、先程ロシャブルが肘を掛けていた机に手を突き、鈍痛を訴える顔を押さえて呻いた。
「ぅうぅう……お前さえ、お前さえ居なければぁ…………」
堪え切れぬ怨嗟の声を、扉の向こう側で立ち止まるロシャブルは聞いていた。
満足気に微笑を浮かべて、ロシャブルを待つ黒衣の三人に目を配り、静かに廊下を歩き出す。
貴賓室から充分な距離を取ってから、ロシャブルは肩越しに最後尾に着く黒衣の女を見た。
「よくやった、ジャグア。目の上の瘤を取るのにこれ程の機会は無い」
ロシャブルの言葉に、女――ジャグアは静かに頭を下げ、そっと左腕に手を遣った。
「痛むか?」
ロシャブルに問われ、ジャグアは左の袖を握り締める。
「いえ……勝手乍ら、スナドが勝つ事を求めてしまったもので……」
「……そうか。別に構わんさ、何方にしろ、スナドは死ぬからな」
「は……?」
再び歩き出したロシャブルの背を追って、ジャグアは意図を汲みかねると言わんばかりに眉を顰めた。
「井の中の蛙という事だ。あの道化は」
不敵に笑い、ロシャブルは先を歩く。
ジャグアはその背に、不穏な影を幻視した。
✕✕✕ 02の八
密林の中に無数の巨大蜘蛛の巣が寄せ集まった様な〈第三ナスス駐屯基地〉の夜は、光を明滅させて飛ぶ複数種の夜光虫と、基地の各所に取り付けられている碧掛かった蓄光灯の明かりで、辛うじて足元が見える程度の明るさだった。
小屋から足を踏み出す直前、其処に残ると言ったアルゲンテウスと別れ、グリーセオは一人、痛みに気を取られて吊り橋を踏み外さないよう、慎重に歩みを進める。
クリスの声を聞いたのは、樹上の建物を四つほど後にしてからだった。
「なに徘徊してんの、おじさん」
暗がりの中でもぶすっとした表情の分かりやすいクリスに、グリーセオは苦笑を零して最後の橋板を踏む。
「目的は持ってるさ。お前に会うのがその一つだ」
「別に嬉しくないし」
「なるほど――」
軋む橋板を踏み越えて、グリーセオはクリスの居る円形の見張り台らしき場所に辿り着いた。
「そんなに喜んでくれるとは、意外だった」
「あんた、私に命を救われたの忘れてない?」
忌々し気に言って、クリスは平たい柵の上に片手を突く。
「忘れてないさ。ありがとう、クリス。君が居なければ、巡回兵の全滅どころか、俺も死んでたよ」
鼻息を返事にして、クリスは半月の浮かぶ夜闇の丘陵地帯に顔を向け、柵の上で腕を組んで凭れた。
「あんたを見殺しにして村に帰りゃよかった」
「それはまずいな、今頃お前達は『クリス隊』になって無茶な特攻を命じられる」
「それで死ぬって?」
「…………そうかもな」
「はっ。ほーんと、あんたが居てよかった〜。お陰で何日かは寿命が伸びたもーん」
「そう茶化すな」
「……なんなの? 軽口叩いたり勝手にヘコんだりさ。面倒臭いんだよ、あんた」
クリスの刺々しい言い回しを夜風と共に聞き流し、グリーセオは彼女から少し距離を取って、柵に両手を突く。
剥き出しの掌に木の感触を覚えたグリーセオは、今更乍ら、蒸し焼きにされた肌の痛みが殆ど無い事に気が付いた。
「俺の手当てはクリスが?」
「……アルグ。私が先に報告に行ってる内に、駐屯基地の人達と小屋に上げたみたいで、戻った時には終わってた」
「そうか、アルグにも礼を言わないとな」
「言っとくけど、私はあんたを助けた上に基地の下までは運んだから。――アルグと一緒にだけど」
「はははっ。ああ、ありがとう」
「はいはい。この借りは村に帰すって方法で返してね」
「…………そうだな」
虫や動物の声が、二人の沈黙を淋しいものにはさせない。
眠らぬ夜闇の最中、グリーセオはそっと息を吐き出した。
「なあクリス。俺は、アルグも、クリスも、きちんと帰すつもりではいるんだ」
「つもりじゃダメ。あんたのやらかした余計な事をきっちり清算して」
「ああ、もちろん。……だが、だがな、これだけは知っていてくれ。俺は…………お前達を帰す事より、何よりも……生きていて欲しいんだ」
「…………」
沈黙を守るクリスの横顔を見遣り、グリーセオは正面に広がる、半月と星に照らされた暗い丘陵地帯へと目を移した。
「同じ氏族だからとか、女だから、年下だからとか、そうじゃないんだ。…………誰しもに平等に与えられた命を、全うして欲しい」
ぎちり、と革手袋の軋む音がして、グリーセオは奥歯を噛み締める。
グリーセオの直感は外れて、何かを噛み殺した様な、細く荒いクリスの吐息が響いた。
「……それが、何百人も殺して思った事、ってやつ?」
苛立ちとも失望とも思える声で、クリスが言う。
それを聞いたグリーセオは我知らず右手の甲を見詰めて、それに気が付き、柵の上で握り込んだ。
何も手にしていないのに、これ迄に斬りつけ、刺し、抉り、引き抜いた血肉の感触が、骨の髄から蘇ってくる。
「…………そうだ。……数え切れない程殺して、今日もまたその数を増やして…………それでも、せめて、この手で守れる人には――」
瞬間、グリーセオの視界が揺らぎ、クリスの顔が眼前に迫った。
弧を描く手摺に腰がぶつかり、捻り上げられた襟首が震える。
「それが族長の言った『貧しい正義感』ってやつでしょ。あれ程あんたを言い表せる言葉無いよ。殺して殺して殺して、何にも吹っ切れずに、私を巻き込みやがって……!」
噴き溢れる怒りは夜光虫を寄せ付けず、暗闇の中、クリスの鋭く歪められた双眸がグリーセオを射る。
「…………すまない」
それ以外の言葉が見付からず、数秒の後にグリーセオは大きく突き放された。
「馴れ合いならアルグとやって。私は隊員としてあんたの言う事は聞くけど、あんたの考えなんか毛程も興味が無い。――分かったらもう……独りにして」
グリーセオから顔を背け、クリスは再び組んだ腕を柵に乗せて、そこに顔を埋める。
怒気を孕む荒い呼吸を繰り返すクリスから離れて、グリーセオは来た道とは別の方向に歩き出した。
「女王サマならもう寝てるから。明日出直しな」
くぐもった涙声を聞き、グリーセオは大人しく来た道を引き返す。
軋む橋板と綱の音の狭間に、クリスの啜り泣く声を聴き乍ら。
つづく
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