小説「枯らす少年と死なずの少女」四
はじめに
本文中には、人が死ぬ描写、架空の黒人の人物描写があります。
これらは何らかの思想の拡散や批判を目的としたものでは無く、またそれを助長する目的も無い事をご理解ください。
また、その他にもあなたの好みにそぐわない描写を含むかもしれません。
本作が創作物である事をご理解の上、お読み頂きますよう、お願い致します。
四 残像
眠りから覚めて、夢を見た様な、けれども見ていない様な、そういう曖昧な状態になる時は一体どういう訳なのだろう。
イーファは重たい瞼を上げられないまま、自らの問いに対して胸中で答える。
『きっと、夢を見た後にほんの一瞬だけ目が覚めて、それから夢を見ない眠りについたの』
その声は、イーファのものでは無く、遠い記憶。
「ゲルダ……」
すっかり顔を覗かせた太陽が大河に輝きを与える様を眺めていたアーダムは、イーファの声に振り返る。
薄く開かれた瞼が眩しそうに閉じられるのを見て、アーダムは繋いだままのイーファの右手をそっと握った。
「おはよう、イーファ」
アーダムの声に即答は無く、微睡みに濁ったイーファの瞳が泳ぐ。
「…………アーダム?」
「うん、アーダムだよ」
返答と共にアーダムは身を寄せて、イーファの右手を自身の胸に当てる。
そうする内に睡魔の濃霧から抜け出したらしいイーファは、アーダムの顔を見て、それから光の踊る水面の方へと目を移した。
「夢を、見たんだと思う」
ぽつりと呟いたイーファの視線を追って、アーダムも大きな流れへと目を移す。
「ゆめ…………こわいゆめ?」
どこか遠くで鳥が鳴いている。
枯れ野よりも遠いどこかで。
「どうだろう……それ自体は怖くないのに、悲しい事でも無いのに、見たくない夢…………ううん、思い出」
さらさらと流れる河の音が、沈黙の経過を告げていく。
「……だいじょうぶ、あえるよ。はぐれただけ、だから」
アーダムが探し出した言葉に、イーファの吐息が返された。
起きた直後の体の重さは知っている。だからアーダムは、微笑みを浮かべてイーファに目を向けた。
「もう会えないよ」
イーファはじっと、悠久の時を流れる大河を睨み据えていた。
大橋の高架下を出て、二人は丘を上がり、橋の入口に立った。
昨日見た大橋とは全く異なり、青空の下、浮かぶ雲よりも白い大橋は雨風で汚れていても尚、眩い程に白い。
「わ、イーファみたい。きれい」
独り言ちたアーダムに、イーファは目を丸くする。
河で顔を洗ってからは手を離しているので、イーファは両手で髪や顔に触れ、足下のやや汚れた白を見た。
「私……こんな感じなの……?」
「うん、しろくてきれいだよ!」
にこやかに歩き出すアーダムの背を見て、イーファは一人首を傾げる。
「こんなに埃っぽくないもん」
すれ違う二人は『凹』の字に何処までも続く奥行きを与えた様な橋を歩く。
アーダムは硬い橋の上を楽しそうに動き回った。ふらふらと右へ左へと歩き回り、時には冷たい柵に触れたり、流れ往く雲を見上げたりしているので、イーファはいつ躓くかと気が気ではなかった。
「ねぇアーダム、転んだら怪我をするから、もう少し真っ直ぐ歩こうよ」
橋を歩いて数分、イーファが声を掛けるもアーダムは生返事をするだけで止めようとしないので、イーファはアーダムの左手を取る。
「ねぇ、何が見えたか私にも教えて?」
突然手を握られた事に驚いてから、アーダムはにこりと笑った。
「うん、いいよ!」
イーファの右手をしっかりと握り、アーダムはイーファを橋の反対側へと引っ張っていく。
「あっちは、やま! みどりいろ、ひらひら、てをふってるよ!」
河の上流、大河を挟む山々が続き、ずっと遠くでも青く霞む尾根が見える。
「あんなに遠くのもの、私は見えないよ。アーダムは目が良いんだ」
「すぐじゃないよ。ほら、はじっこのところをね、じーっとみるの」
歩みを止めて、イーファは緑の萌える山の稜線に目を凝らす。
そうして意識を集中させていくと、確かに時折木々が揺れ、曲線として捉えていた稜線が枝葉なのだと気付かされた。
「ほんとだ……よく見つけたね」
山々から目を離しアーダムを振り返ると、アーダムは満足気に笑っている。
「それとね、それとね――」
再び歩き出して、アーダムは空を指差した。
「くもは、ひらひらと、ぎゅってしてるのと、いろいろあるよ!」
アーダムの言葉に、イーファは昔の事を思い出す。
「あ、それなら知ってる! たしかね、ひらひらはすっごく高い所の雲で、ぎゅってしてるのは山のてっぺんと同じ位の高さにあるんだよ」
説明を終えて、青と白に眩んだ目をアーダムに落とすと、アーダムは瞳を輝かせてイーファを見上げていた。
「イーファ、すごい、すごいすごい!」
「え、え〜……私は聞いただけだしなぁ」
左手で頭を搔くイーファの右手を引いて、アーダムは橋の反対側へと向かう。
今度は水面を指差して、アーダムは沢山の言葉を紡いだ。
長い、長い橋の上、二人の少年少女は歩く。
楽し気な声が二つ、大河の上に満ちていた。
真昼が近付き、気温がすっかり上がり切った頃。
アーダムとイーファは灰色ばかりの直線状の山々を行く先に見留めた。
「ねぇ、あれがまち?」
「うん……この街に来るのは初めてだけど、間違って無いと思う。まだまだ長いね」
「だいじょうぶだよ、イーファがいるからたのしいよ!」
元気一杯に一歩を踏み出すアーダムに引かれて、イーファも歩く。
橋の左右を閉ざす柵に寄って振り返れば、二人が歩き出した岸は遥か遠く、今では街の方が近い。
いや、街よりも先に、橋の終わりが見えてきた。
「あ……」
声を上げたのはアーダムだった。
橋の出口、白色が途切れ、傾らかな平野に青々と茂る下草たちが、アーダムの訪れを告げる様に頽れていく。
「っあ、アーダム、大丈夫。これはアーダムの所為じゃない。だから……だから、その…………行こう」
満足に慰めの言葉を出せない事に歯噛みして、イーファはアーダムの手を引く。
アーダムがそれに従い、一歩、二歩と進むと、一面の緑が遺骸に変わっていき、アーダム達が近付く程に崩れ、灰になった。
真夏を引き摺る太陽が、遺骸の白黒を強く照らし出す。
「イーファ……ぼく、おうちができたらね……もう、そとにいかないよ。みんな、かわいそうだから」
歩みは止まらない。じりじりと日光に焼かれる。イーファの慰めを急かす様に。
だから、イーファは何度も口を開きかけては閉じ、息を吸い、無音を吐き出して、広がりゆく枯れ野を見ていた。
「偶には、外に出なきゃ。健康に良くないよ。それに……」
迷い、躊躇い、アーダムの視線を感じ乍ら、イーファは大きく息を吸う。
「人は、生きている者はみんな、誰かを食べてるんだって。狼は肉……他の動物を食べるし、栗鼠は木の実を食べる。鹿は植物を、植物は、土を。だから…………そんな事、言わないで」
イーファの言葉を聞き、アーダムは迷う様に枯れ野を見渡した。
「……でも、ぼくはたべてない」
「いいの。歩くだけでダメなんておかしい。外に出たければ出て、出たくないなら出なくても良い。誰かが生きるのに、悪い事なんて、無いよ。……生きる事が幸せなら、それで良いんだよ。絶対」
その言葉を最後に、アーダムとイーファは沈黙と共に歩いた。
少しづつ近付く廃墟街に思いも馳せず、枯れ野と草原と、点在する木々の集まりを横目にして。
真昼を過ぎて午後。
枯れ野が堰き止められ、アーダムとイーファは異様なまでに白い枯れない地面が混じる場所に足を踏み入れた。
彩度の無い素材が植物の間に網目を作って、街へ近付く程にその目は大きくなっていく。
「ぼく、ここにきたこと、あるのかな」
ふと浮かんだ疑問を口にするアーダムは、背後に広がる遺骸たちを振り返る。
イーファはそれに明確な答えを持って首を振った。
「違うと思う。これは枯れたんじゃなくて、人が作った物。――街っていうのは、数え切れないくらいの人達が暮らす場所だから、過ごしやすい様に土や岩よりも頑丈な物で彼方此方を覆ったの」
アーダムはイーファを見上げて、遠くと言えない程に近付いたビル群に目を遣る。
「むかしのひと、みどりがきらいなの?」
「うーん、どうだろう……。少なくとも私の知ってる人達は違うかな。たぶん、うーん……うーんとね…………便利だから、かな」
「みどりが?」
「ううん、緑が無い方が」
気が付けば、二人の周囲からは植物が消えていた。
枯れ野よりもずっと広い街の跡が広がり、木々の代わりに崩れ掛けの建物が立ち並ぶ。
「……さみしいね」
ぽつりと呟いたアーダムの意図を捉えかねそうになり、イーファは大橋の上での事を思い出した。
『あっちは、やま! みどりいろ、ひらひら、てをふってるよ!』
そう言って満面の笑みを浮かべたアーダムの居る景色が鮮明に甦る。
「……やっぱり、さ、街に住むのはやめる? 緑も無いし、生き物も……居ない感じ。そんな所にアーダムを置いておけないよ」
イーファの言葉には足音だけが返ってくる。
硬い地面を踏む足音が暫く続いて、軈て、アーダムは頭を振った。
「だいじょうぶ」
それだけ言って、また足音だけになる。
アーダムの迷いを感じ取ったイーファは、繋いだ手をしっかりと握り直した。
廃墟街に入ると、二人は枯れない地面の上で建物の影に入ったり、西陽を受けたりを繰り返す様になった。
複雑に入り交じるのは光と影だけでは無い。道もまた、大小様々なものが交錯して、アーダムの歩いた跡も無いものだから、いつからか二人は言葉も無く一番目立つ建物を目指して歩いていた。
林立する白いビル群の狭間から覗く、白いお皿と針が幾つも組み合わさった様な、不可思議な物体。
老人の様に腰を曲げるそれを平たい屋根に載せた、白くて高い建物。
初めてその全貌を目にした時、アーダムとイーファは同時に足を止めていた。
細い枯れない物が幾つも組み合わさって囲うその場所は、一箇所だけ広い間隔があり、その脇を流麗で複雑な図形の彫られた金属板が飾っている。
「……国際、終末観測――制定局。第零研究所…………」
金属板に見入り、イーファはそう口にする。
「なに……?」
意味が分からず問い掛けるアーダムに、イーファは呆然とし乍らゆるゆると首を振った。
「読めるだけで、知らない……。たぶん、昔の人達が付けた……名前、かな」
イーファの考えを聞いて、アーダムも金属板に目を遣り、眉を顰める。
「むかしのひと、なまえ、たいへん……」
神妙に呟いたアーダムに頷きかけて、イーファは吹き出した。
「ふ、ふふ、違うよ。たぶんだけど、この建物の名前。人の名前はこんなにややこしくないと思うよ……ふっ、くくふっ」
イーファに笑われても、アーダムは合点がいった様に目を丸くするだけだった。
「ああ、おうちになまえつけるんだ〜!」
心底関心した風に言うアーダムに、イーファは遂に笑い転げた。
アーダムの誤解は解けぬまま、空の青がくすみ、夕陽の色が押し広げられようとしているので、二人は目の前の白い建物――第零研究所に足を踏み入れる事にした。
研究所の壁は彼方此方が四角く切り取らており、アーダムとイーファは金属板を横目に歩いて、地続きの切り取られた部分から建物の中へと足を踏み入れる。
其処は金属の枠で囲われているので、それを跨ぎ、しゃりしゃりと砂や土埃が積もる床を慎重に踏みしだいて進む。
「くらいね」
アーダムの言葉に、イーファは頷く。
西陽を左手に、南から研究所に入ると、陽光はすぐに遮られた。
屋内までもが白く染めらているので、そんな状況でも目が利かない程に暗く感じる訳では無いのだが、文字通りに不自然な物の腹の中に侵入した様な感覚は、二人の繋いだ手をより固く握り込ませる。
そろそろと静かな屋内を進む二人は、丁字に交わる通路に出て、左右を見比べた。
「ぼく、おうちにするなら、もっとちいさいほうがいいかも」
何度も右へ左へ顔を向けて、アーダムは眉を八の字にしていた。
「そうだね……でも、此処なら奥まで行けば夜もあったかいよ。きっと」
「そうかなぁ」
「うん。私の家もね、窓のある部屋より、窓の無い部屋の方があったかいから、ほんとう」
「……そっか、まど……まどって、どれ?」
来た道も含めてぐるりと見回すアーダムに、イーファは四角く切り取られて外の見える壁を指す。
「たぶんあれかな。たしか……えーっと……」
イーファは言い澱み、首を捻って、額に手をやる。
意図的に思い出そうとする時に限って出て来ない記憶に焦れ乍ら、イーファを見上げて待ってくれるアーダムに甘え、必死に記憶を掘り起こす。
――そう、特に変わり映えのしない七日を過ごした翌日の朝、突然甲高い音がして、慌てて自室を出たのだった。
『ああ、こりゃダメだ。劣化が酷い。……パウル! 木戸を作ろう!』
『焼いて接いでじゃダメか?』
『ダメダメ。硝子を作るにゃ、ややこしい炉が要るし、余裕が無い』
『パウル、ケネス、どうしたの……? すごい音がしたよ』
『ああ、イーファ。窓が――硝子が古くてな、手間だけど、今度からは木戸を付けて、必要な時だけ開ける様にしよう』
『そっ、か……』
『ならカーテンを白にしよう。そこに俺が色んな絵を描くよ。夜だって青空。雨でもね』
『ガウナ! 君の絵なら最高だ! 窓を塞いだっていいね』
『バカ、通気が最悪だろ』
『俺の絵で?』
『そっちじゃなくてだなぁ』
詰まりが取れると、イーファの頭の中には在りし日の思い出が噴き出してきた。
泉の如く止め処無い記憶を微笑みで押し留めて、イーファはアーダムの目を見る。
「思い出せた。――えっとね、窓には昔、硝子っていう透明な物が使われてて……それはどうしても劣化に弱いの。私達の家でも昔は使ってたんだけど、直せなくて、木で硝子の代わりに塞いだんだ」
イーファの話を聞き乍ら、アーダムは「ふぅん」と引っ掛かりを覚えた様な声を出して、すぐにイーファに目を戻す。
「まどって、どうしてつくるの?」
「あー、えっと……生きる為には空気が必要で、扉も閉じて壁に囲まれちゃうと空気が家に入らないから」
「じゃあ、かべもいらない?」
「ううん。壁が無いと今度は寒いの。冬とかは特にね…………アーダム、冬はどうしてたの!?」
話す最中に生じた疑問はイーファの声を大きくさせて、白い壁や天井で反響する。
繰り返されるイーファの声にアーダムはころころと笑い、それからはたと笑いを止めた。
「ふゆ……しってるけど、しらない…………うーん、ない……」
独り言ちて首を捻り、アーダムは顎を掻く。
「よるよりさむくて、しろ――ゆき、はく、い……」
「はく、い……白衣?」
イーファに言われて、アーダムは目を丸くする。
それは、初めての体験に対するものでは無い。何かを思い出した様な――
「あ……あ、あ、ぼく、しってるよ。だいなな、すくなくなると、とおくに、ばくしんち…………じんるいが、のこるために」
アーダムもまた記憶を辿り、辺りを見渡して、イーファの手を引く。
「ちょ、ちょっと、アーダム?」
「アンブロス、かれないひと、ちかは、あんぜんだから、にげなさい……」
虚空を見詰め、呟き続けるアーダムに抵抗する様に、イーファは敢えてゆっくりと歩く。
「アーダム、アーダム。落ち着いて、どうしたの」
「ぼく、しってる。けれど、ここじゃなくて、にてる。アンテナは、かんそくにひつようだけど、けんきゅうじょは、シェルター」
歩みを止めないアーダムに、イーファは抵抗する事を諦めた。
ずんずんと進むアーダムに従い、通路が無数に続く建物の中で四度左に曲がり、初めの丁字路に戻りかけて、アーダムが壁面に右手を着けた。
「あぶなくなっても、だいじょうぶだよ。こわがらないで、シェルターはどこでもおなじだから…………Arche Noah 6174」
アーダムが呟き、白い壁に彼の手から真っ青な光が伸びていく。
複雑に、根を張る様に伸びた光は、アーダムの目の前に鍵に似た紋様と文字列を浮かび上がらせた。
『Anerkennung』
青い光の根が描くその文字列を見て、イーファは呆然と読み上げる。
「承認…………なに、これ」
イーファが呟く間に、青い光は拍動する様に瞬いて、建物からアーダムの右手へと光を集めていく。
その異様な光景に、イーファは咄嗟にアーダムを抱き寄せた。
「ダメ! アーダム、大丈夫? 変なとこは……」
「あ……」
イーファに抱き締められ、次いで顔を覗き込むイーファの不安気な顔をちらと見遣り、アーダムは右手を見下ろす。
「なんか、ちょっとだけ、思い出してきた……」
呟いたアーダムの声に、イーファは暗い違和感を覚えた。
「わ、忘れてたのかな、ほら、お母さんとか、お父さんとかさ、良い事だよ。良い収穫だった、だから、早く此処を出よう」
希うイーファの視界の端で、一際強く青い光が瞬く。
壁を見れば、青い光の根に沿って壁が奥へと沈んで行き、歪な形の通路を形作っていった。
壁の向こうには数メートルの通路とそこから下へ向かう階段が口を開けていて、イーファと手を繋いだままのアーダムがそこへ踏み込むと天井から光が降り注ぐ。
驚き、二人が仰ぐ先には、これまで目にした研究所の天井と変わり無いつるりとした白い天井があるだけだったが――それが、確かに光を放っていた。
「あ、アーダム、怖いよ。やめよう?」
尚も進もうとするアーダムに今度ははっきりと抵抗を示して、イーファは足を突っ張る。
「こんなの知らない。危ないかも。知らないのはダメ。何が起こるか予想できない。ダメだよ、アーダム……」
足を踏み入れた壁だった場所から出ようとするイーファの右手を、アーダムは両手で包み込んだ。
「大丈夫だよ。ここはシェルターだから。アーヒェ・ノア、安全なところ。もしかしたら、ここに入ったのかも……イーファの、ケネスとか、ゲルダ達が」
イーファの潤む瞳を見詰め返すアーダムの双眸、焦げ茶の髪に似た暗い色の純粋な瞳には、此処までの道のりで見たものと同じ、優しい光が宿っている。
だが、イーファはその瞳を直視出来ずに、膝から地面に崩れ落ちた。
「いない……居ないよ…………だって、皆はオリジナルで、私は、不老不死だから……」
震えるイーファの右手をしっかりと握り締めて、アーダムはイーファと目線を合わせる。
「何年前……?」
静かな通路に嗚咽が響く。
イーファは涙を零して頭を振り、溜め息を床に落とした。
「……九百六年前。…………あの日、皆は……生き残ったパウルとゲルダ、それからヴィクトーリアは……みんな、街に行ったっきり…………私はずっと待ってた……今も……でももう、絶対に会えない……」
涙混じりの声を聞き、アーダムはそっとイーファを抱き締める。
初めて会った時のイーファがそうしてくれた様に。
「ケネスは、病気で、私達で埋めたの……ツァックもそう、良い人達だった。生きる為にしか生き物は殺さない……どうして、どうして死んじゃうの……」
子供の様に泣きじゃくるイーファを抱き留めて、アーダムは彼女の背を摩る。
「わからない……なんで皆、僕達みたいになれないのかな……」
アーダムの言葉に、イーファの嗚咽は一瞬の空白を生んだ。
そうしてからまた泣き出し、アーダムの胸の前で深く俯く。
目の前に掲げられた事実から目を背ける様に。
「そうじゃないから、皆は、私達みたいな人を作ったんだよ……」
アーダムが青い光に触れて思い出した事実を、イーファは知っていた。
いや、記憶の深い所に閉じ込めていたのだろう。
今のアーダムには、それが理解出来た。
だから、アーダムは何も言えずに、ただ優しくイーファの背を摩り続けた。
そうしている中で、アーダムは或る話を思い出す。
それは、優しくて悲しい、嘘の話。
「……天国で、きっと待ってる」
アーダムの見詰める先で、丁字路側の白い壁は刻一刻と暗くなる。
自然が作る色とりどりの光は沈み込み、人が夜を払う為の無機質な白が、地下へと続く歪な形に廃墟を照らし出す。
「イーファ、地下に行ってみよう。ここはきっと、千年続く嵐からだって守ってくれる。せめて、今日の夜はここで休もう」
イーファの背を摩って、白い頬を伝う涙を拭い、アーダムはそのままイーファの頬に手を添えた。
「大丈夫。色々思い出したんだ。まだぼんやりだけど、分かるよ。今度は僕が、イーファの手を引いて歩ける。一緒に行こう」
滲む視界で、イーファはアーダムが一回り以上も大きくなった様な錯覚を覚えた。
しっかりとした足取りで、届かない先を見つめたまま、枯れ野を行くアーダムの背も、脳裏に浮かび上がる。
「アーダム……本当の名前は……?」
イーファが口にした問いに、アーダムはぱちくりと瞬きをして、優しく微笑んだ。
「僕の名前は、アーダム。イーファが付けてくれた、素敵な名前。僕自身の事は思い出せて無いけれど、昨日から、これから先、僕はアーダムだよ」
アーダムの答えにイーファは寂しそうに笑った。
「…………そっか」
第零研究所の壁に現れた地下へと続く階段は長い。
手を繋いだまま、アーダムとイーファが何度も折れ曲がる階段をゆっくりと下りて行く中で、アーダムは壁面に仄かな色が付いている事に気が付いた。
その色は紺から青へ、そして碧掛かっていく。
「ここの壁、色があるね」
階段を降り始めてから初めての会話は、イーファの表情をほんの微かに明るくさせた。
「本当だ……」
「僕、上の街みたいに真っ白なのかと思った」
アーダムが言うと、イーファは小さく頷く。
「……ツァックはね、他の皆よりも勉強や考える事が苦手で、ある時……鳥肉が夕飯に出た時だったかな、残った骨を見て、……『死んだら皆、白くなるんだなぁ』って言ったの」
語り出したイーファの意図が掴めず、アーダムは「それで?」とだけ返して続きを待つ。
「うん、それでね……ふふ、ヴィクトーリアが怒っちゃって。『髪が白いイーファの前でそんなこと!』って」
「あ……ああ、なるほど……。僕も勉強は苦手なのかも」
「ふふふ、ヴィクトーリアが敏感過ぎるだけだよ」
「でも、どうして今そのお話を?」
アーダムに問われ、イーファは一瞬だけ足を止めて高い天井を仰ぎ、再び階段を下り始める。
「上の街、何処もかしこも白くて、骨みたいだった。その中の、さらに地下に下りるなんて、お墓の中に入るみたいな、嫌な感じがしてたの」
イーファはそこで切り、ちらとアーダムを見た。
「色があると、まだ街は生きてるみたいな、そんな感じがして……安心した」
喉の奥に閊えた物を吐き出した様に、イーファの肩からは力が抜けていく。
アーダムはそれを繋いだ手から感じていた。
「……ツァックはどうしてそんな事に気付いたんだろう」
「ん? ああ、たぶん、最後に残った六人の中で、ツァックだけ肌が黒かったからかな」
アーダムの言葉に、イーファはすんなりと答えて、息を吸う。
「誰もそんな事気にして無かったけど、ツァック自身は気にしてたみたい。遺言に…………皆が居なくなる前、ケネスのお墓を一緒に作った後に、ツァックはリビングに短い遺言を書いて残してたの。ケネスの前に居なくなった、ガウナが使ってた画材を引っ張り出して『ケネスを一人にできない。俺も白くなる』って、それだけ……」
口を止めて、イーファは洟を啜り、左手で目元を拭う。
「家から離れた所で、ツァックは首を吊ってた。……皆で下ろしてあげて、ケネスの隣に埋めたの。三人が街に行ったのはそれから二週間くらいしてから。ずっと皆の様子がちょっと変だった、私は心配だったけど、でも、私は街に行っちゃいけないって、だから、迎えに行けばよかった……小さな失敗が続いてたから、あと一人いれば、どうにかなったのかもしれない。なのに、私は……」
話し乍ら涙が止まらなくなったイーファの右肩に、アーダムは自分の左肩が擦れ合うまで近付いて、イーファの右手を優しく、強く握り締めた。
掛ける言葉が見つからないから、アーダムはそうしているしか無かった。
壁の色が、仄かな黄色に変わっていく。
階段を下りて数分、目許を泣き腫らしたイーファを連れて、アーダムは仄かに赤い行き止まりを前に足を止めた。
「これ……また、上のと同じ……?」
隣で誰に聞くでも無く呟くイーファに、アーダムは頷く。
一歩踏み出したアーダムが、そっと壁面に右手を付ける様を、イーファは静かに見詰めていた。
アーダムの手の平が壁面にぴったりと着ききると、上で見たのと同じ様に、しかし今度は赤い光の根が壁面に広がっていき、鍵の紋様と文字列を浮かび上がらせて拍動を始める。
アーダムは右手に集まる光をじっと受け止めて、瞼を閉じ、俯く。
光の拍動が何度か続いた後に、アーダムは壁面から右手を離してイーファに振り返った。
「今度はもっと沢山、思い出せた。知らない事も、教えてくれた」
やや疲れを感じる顔でそう言うと、アーダムはイーファの手を離し、イーファが驚く間も無く抱き締める。
「……イーファ、皆は、三人は、此処に居た。この街の東端で、建物の倒壊に巻き込まれて、亡くなったんだ…………東側は、縮握核の爆心地に近いから、崩落が早まってた。不慮の事故だった…………」
アーダムに抱き締められ乍ら、イーファは赤い口を開く壁面を見ていた。
何をする事も出来ず、泣く事さえも思い付かず、ただ呆然と、赤い根が分厚い壁を押し開けていく様だけを。
その先に広がる、作られた温かみが満ちた、居住区画を。
つづく
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