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小説「落花生」05

【本作を読む前に】
 「落花生」はダークファンタジーの小説です。
 作中に残酷な表現、グロテスクな表現が一部あるため、苦手な方は読まないようお気を付けください。
 また、こちらは月に一回投稿予定の連載原稿になります。
 挿絵や文庫本風にデザインした「完全版」を後に作る予定であることを、予めご了承ください。
 
 また、上述した完全版では文庫本風にデザインした、画像で読める作品にする予定です。
 そのため、本記事ではルビを振っていません。
 造語などは、前書きにルビを置いておこうと思います。

〈ルビ〉
「花織」かおり   「只」ただ
「康人」やすひと
「迷い人」まよいびと
「巣喰」すぐい   「琥珀流」こはくりゅう
「落涙峰」らくるいほう
「紲海岸」せつかいがん
「終砂漠」ついさばく
「雷没岩盤」らいぼつがんばん​

05
 
 目を覚ました時、ソファのような山肌に座っていた。
 土と石ころで出来たソファが心地の良い筈は無く、夜闇を朧に払う光が満ちて、頭上からぶら下がる薄墨色の葛が葉陰を顔に落とす。
 体を起こそうにも全身が軋むように痛み、疲労感で頭が一杯だった。
 それでも此処から出なくてはという衝動に腰を折り、手を掛けていた山肌に力を入れていた。
 その時。
 視界の左端で何かが動き、目の下、頬骨の辺りをそれが掠めて行った。
 遅れてやってくる鋭い痛みにその場を飛び出すと、彩度を失った森の中、右腕だけがやけに長い ―― いや、右腕が上腕一つ分多い、溶け崩れた顔をした人の成り損ないと言える何かが居た。
 野球のピッチャーがボールを投げた後の姿勢。場違いにそう思ってから、目の前の此奴にたった今殴られかけたのだと悟る。
 脳が焦りと恐怖で冷える。
 自分の弾む息を聞きながら、立ち上がるべく動かした左足が掴まれた。
 何時の間にか迫っていた小さな成り損ないに左の足首を掴まれている。頭だけは老人で、首から下が幼児のそれを右脚で蹴り潰し、闇夜の森を駆け出した。
 木陰からぞろぞろと現れる成り損ない共を避け、蹴り飛ばし、開けた視界は灰色の草原だった。
 何処なんだ。疑問が浮かびかけて、止めた足を再び動かす。
 よく見れば草原にも成り損ない共が居た。
 振り返って見れば森で遭遇した奴等も陽炎のように体を揺らめかせて追って来ている。
 兎に角、此処は駄目だ。
 そう思い直して出した足が何かを踏み抜いた。沼、という言葉が脳裏に過るも、予想は裏切られる。
 地面、彩りを無くした植物が繁茂する地面がそこだけ地中に吸い込まれる様にめり込んでいた。
 慌てて足を引き抜き、その短い間に追い付いてきた無数の成り損ない共から腕が伸ばされる。蚊柱を払う動作で振り払おうにも、服や腕、足を掴まれ、右の肩には噛み付かれる。遮二無二四肢を振り回し、頭突きを繰り出して成り損ない共の破片を浴び、満身創痍でその一団から抜け出す。
 言葉にならない声を上げて追い掛けてくる人擬き。蠢いてあちこちでめり込んだり突然盛り上がる草原。月も星も、雲もない闇空。
 この世の全てが敵だった。

 いつ、何時も、この世の全ては敵だった。
 気の緩みを悔いても、目の前で巣喰に頭をしゃぶられている迷い人の現実は変わらない。
 落涙峰の東、市街へ向かう途中に横たわる麓森で、只は消えゆく命達を前にして花織の右手を取った。
 ぶつかり合った先頭集団の命は、一つでも多くの命を生かす為に。
「ニコラ、まほろ、サム!逃げろ!市街でいい、逃げろ!」
 只は自分に従ってこの場所に付いて来た人々の名を呼び、花織の手をしっかりと握りしめて駆け出した。
 麓森はゆっくりとのたうつ木の根で迷い込んだ者の足を取る。
 それに注意しながら、出せる限りの速度で走らねばならない。
 枝葉が顔を切ろうと、素早い巣喰が視界の端に映ろうと、今は走ることしか出来なかった。
「只さん!大丈夫です、付いて行きます、手を離して!」
 花織に言われ、只は躊躇して振り向いた。
 走りながらも真っ直ぐ見交わす花織の目は強く光っている。
「……何があっても市街へ向けて走れ。康人に伝えるんだ。巣喰が徒党を組んでいる」
 言うべき事を伝え、只の左手と花織の右手が離れる。花織を先に走らせて、只は左右を見た。
 猿に似た巣喰が、人の口腔だけの顔で笑っている。それらが木々に隠れては姿を現し、木を伝って只を、花織を、そして更に先を走る迷い人の三人を狙っていた。
 巣喰の知能は動物並だ。しかし、その身体能力は地獄ではないあの世界の動物達を凌駕する。
 猿型の巣喰は見える範囲で右に一頭、左に二頭の計三頭。瞬間で判断した只は左によれた。
「こっちだ!畜生共!!」
 木の根を飛び越え、只は二頭の猿巣喰に呼び掛けた。二頭は跳び様に振り向き、樹上に体を留める。
 顔の部分を埋め尽くす半笑いの口が、その口角が下がり、怒りを露にしていく。
「クソ猿!何匹来ようと俺だけは殺せないぞ!」
 視界に無いが、右手に居たもう一頭にも聞こえてる事を祈り、只は挑発を続ける。ほら、来てみろ。そう言う間にも二頭は跳び掛かる体勢になり ―― 突然、右側から黒い影が跳んできた。
 咄嗟に身を引いた只の判断は正しかった。
 右手側から花織達に迫っていた猿巣喰があっという間に距離を詰め、枝を手に襲いかかってきている。
 ばきばきと頭上から降る音は、他の二頭も武器を手にした事を意味するのだろう。それに一瞥をくれる余裕も無く只は駆け出した。花織達が逃げた方向とは少しずれた方へ。
 二頭の足下を駆け抜ける間に左の肩口に枝が当てられる。思わず顔を顰める痛みも蹴り出して、只は最大速力で麓森を駆けた。
 数メートル先の木の根だけを見て、予めイメージした通りに体を動かす。速度を落とさず、時折ルートを折れ曲がって猿巣喰に喰い付かれない様にすることを忘れない。右に折れ、左に折れ、右へ行くと見せかけて前へ跳ぶ。計算ではなく本能で選ぶ不規則なルートを駆け抜ける。
 先頭集団が襲われたのは麓森に入ってから徒歩で一時間ほど。この調子で走ればあと二十分としない内に外が見える筈だ。異常なまでに冴えた思考で方角と麓森の外縁までの時間を想像した所で、只は自分が跳び越えた木の根に違和感を覚えた。
 今、何を渡った?
 黒い木の根。麓森の木は見た目だけなら至って普通の茶色い木ばかりの筈。
 足は止めずに振り向こうとして、左脇腹から全身へと衝撃の輪唱。
 視界が認識不可能な速さで流れ、落下した先で強く背中を打ち、低く短い悲鳴を上げた。
 その顔面に何かが叩き付けられ、ぱきりという音で猿巣喰の枝かと理解する。
 理解は出来ても顔と背中、そして脇腹の熱にも似た痛みで頭が働かない。無我夢中に動かす脚で這いずる事が出来ているのかさえ分からなかった。理解と白痴が痛みの熱で対流し続ける中、突然体が引き摺られる。右の足首を握り潰されそうな程に鷲掴まれて落涙峰の方角へ連れて行かれている。
 それも直ぐに終わった。
 右足が不意に持ち上がり、只は宙吊りにされてから漸く右だけ視界を確保できた。ぐらぐらと揺れる視界の中に三頭の猿巣喰。足は、何が。
 疑問のまま顔を向けようとした刹那、再び顔面を強打される。幾度目かの衝撃に鼻血と共に飛び散りそうになる意識を引き留める。また、強打。がくんと口が開き、眠りに落ちる際に似た脱力感に襲われる。
「か……かえ……あの、かいに」
 鼻から逆流した口中の血で溺れそうになりながら、只は呟いた。
「俺は、帰りたい」
 吊られてから三度目の殴打は顔を外れて左の鎖骨を打ち抜く。
 遠くで甘い香りがした。
 夕暮れの道、重たい鞄を背負う。
 ブロックで舗装された赤い道は色が落ちて錆色に、日暮れの色が差して熱した鉄のよう。
 道を挟む家々。焼けた魚の匂い、卵、スープ、にくじゃが。
 鴉の鳴き声。
 一人で歩く道。
 腹の虫が泣く。
 その中で、一つだけ大きな煉瓦の家がある。毎日毎日、飽きずに見上げてしまう赤い家。
 そこからはこの時間だけ、甘い香りと珈琲の香りがしていた。
「帰らなきゃ」
 意思に反して口が動く。それでも脚だけが素直だった。
 二分だけ。ただそれだけの間そこに立ち止まって、ブロックの道を進む。
 その家を境に黒くなる道を進む。

 花織はまほろの名を呼ぶ。
 先に走り出したまほろの背は遠いが、腰よりも長い黒髪から横顔が覗いて、まほろが振り向いてくれているのがわかる。
「まほろ!只さんを助けなきゃ!」
 先を行く三人、まほろとニコラオス、そしてサミュエルは足を止めずに走り続けているので、花織も走りながら声を掛けなければならなかった。
「只さんが来てない!ガスを出せるんでしょ!?このままじゃ」
「只は何て言った!?」
 答えたのはサミュエルだった。
 サミュエルは刺々しい牙だらけの骨の顔で怒っている。
「何があっても、だ!!」
 それだけ叫び、サミュエルはまほろと花織の視線を遮る様に位置を取って走り続けた。
 救いを求めてニコラオスを見ても、彼は花織でもなく何処か後方を見ている。不安を覚えてその先を追ってみたが、巣喰が迫っている様子は無かった。それが余計に花織の胸を締め付ける。
「た」
 言いかけて、花織は木の根に躓いて顔から地面に突っ伏した。
 起き上がろうとして、腐葉土に垂れた血が二本の線になっているのが見えた。只の左目の辺りに、こんな琥珀流が走っていたな。じんと痛みの滲む頭で思い付き、顔を上げた先ではニコラオスが足を止め、その少し先でまほろが立ち止まり、サミュエルはその傍らで丁度振り向こうとしている。
「人手が減ってもいいの!?」
 足音の絶えた樹海の中、花織の悲鳴じみた言葉だけが反響した。
 木霊は短く、辺りがしんと静まり返る。
「只さんは私より生かさなきゃいけない人でしょ!?その人が……そんな人を見殺しにしていいの!?」
 また、花織の声だけが森にある。
 肺の空気を全て吐き出し切って、それ以上は続けられずに花織は奥歯を噛み締めて荒い息を続けていた。
 腐葉土を握り込む自分の手だけの視界、先の方から足音が近付いて来る。顔を上げてニコラオスの双眼鏡頭を認識したと思った次の瞬間、その像が下へ落ちた。
 いや、花織の顔が上を向いていた。
 遅れて額がじんじんと痛む。
「バカ。皆が生きる方が良いです」
 顔を正面に戻した先、ニコラオスが真剣な眼差しで、初めて花織と出会ったアパートの廊下、あの時の様に花織の瞳を覗き込んでいた。
「サム、只さんを見つけました。猿と、長い尻尾の生えた熊か鰐のような巣喰が見えました」
 ニコラオスは花織を見つめたまま、右手だけで方向を示す。
「捕まったようです。四頭とも、只さんに集中しています」
 そこで一度視線を外し、ニコラオスは遠くを見つめる。
「向こうが風下。遠くありません、二十秒も走れば行ける。今だけです」
 二歩、此方へ刺々しい脚を踏み出して、サミュエルの足が止まった。
「サム……」
 サミュエルを呼んだのはまほろだ。黒目の無い眼球を彼に向けて、まほろはニコラオスの指した方を気にしている。
「ダメだ、出来ない。俺は……お前を守る為に来た」
 サミュエルは足を退き、まほろが只の居る方へ踏み出した。
「じゃあ貴方が街に伝えて」
 まほろの声はそれだけで、伸ばしたサミュエルの手は空を掻いた。まほろはニコラオスの指した方に駆け出している。
「まだ小さいですが、市街が見えています。サム、頼みます。まほろさんは命に替えても」
 言い残し、ニコラオスもまほろを追って駆け出した。二本右へ。と言うニコラオスの声を追って、花織も駆け出す。
 じりじりと街の方へ退りながら、サミュエルの体はかたかたと音を立てて震えていた。

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