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小説「落花生」08

【本作を読む前に】
 「落花生」はダークファンタジーの小説です。
 作中に残酷な表現、グロテスクな表現が一部あるため、苦手な方は読まないようお気を付けください。
 また、こちらは月に一回投稿予定の連載原稿になります。
 挿絵や文庫本風にデザインした「完全版」を後に作る予定であることを、予めご了承ください。
 
 また、上述した完全版では画像で読める作品にする予定です。
 そのため、本記事ではルビを振っていません。
 ご了承ください。

08
 
 地獄と呼ばれる世界。
 そこに迷い込み、又はそこで生まれた人々は、長い年月を掛けて市街を作り、広げていった。
 初めはただ人が寄り集まっただけの市街も、地獄から抜け出すという目的を掲げた人々を中心に最低限の決まり事を以て纏められ、それを担う役場が建てられた。
 時間を測る為に役場の重役にはゾンビと呼ばれる種類の人を必ず取り入れ、そこから途方も無い時間が過ぎ、人が代わっていき、現在の市街を形成している。
 そんな市街には長い間病院と言うべき施設が無かった。迷い人もゾンビも、市街で人と共に生きるコスモポリタンも、総じて医学の通用しない体だから当然とも言えるが、四十年前にそれに異を唱えて開業した男が居た。
 市街に生きる人の中でも古株の彼は、名乗る事が無かった。名前が無いと言い張り、開業から一年と経たない内にその腕を見込まれて、彼は多くの人々から「先生」や「医師」と呼ばれ慕われていた。
 その呼び名も病院の規模が拡大されるのに合わせ、現在では「大先生」や「院長」に変わり、彼は迷い人の身体を地獄の人々の為に使い続けていた。
 花織に引き摺られて運び込まれた只を見た院長は、白衣に包んだ黒いゴムでできた人型の身体を鳴らして肩をいからせ、細い角材が幾つも張り出した頭を横に振った。
「只さん。以前お会いした時、私は何と言いましたか?」
 何とか人の顔に見えるものの、ガスマスクに似た顔が怒りに歪むと恐ろしい。花織はさっと体温が引くのを感じて只の横顔を見た。当の只は薄く笑っている。
「忘れました」
「ではもう一度」
 只の声に被せて言いながら、院長はぎちぎちと鳴る脚で只に近付く。
「無理はしないようにと……言いましたからね!」
 瞬間的に怒声を上げ、院長は手刀で只の項を打ち据えた。
 怯んだ花織の腕から只が滑り落ち、その体を院長が受け止めて荷物の様に肩に担ぎつつ、はたとジャックの南瓜頭に気が付いてゴーグルに似た目を僅かに細める。
「あなたは……」
 院長が言葉に迷い、訪れた沈黙にジャックは胸に手を当てて恭しく礼をした。
「ジャックです。ジェイコブではありません。この頭とマント、それとカンテラは彼から譲り受けました」
 頭を下げて言う彼女を見つめ、院長は何度か小さく頷いた。
「ジャック。只を連れて来てくれた事、感謝します。……お二人共、只さんの処置を終えたらお呼びしますので、待合室で座っていてください」
 院長は気絶した只を軽々と抱えて院内の通路を歩いて行き、残された花織はジャックに促されるまま整然と並べられた多種多様な椅子の一つに腰を下ろし、ジャックも花織の右隣に座る。
 薬品の香りと、きゅっと鳴る靴音。あの世界と異なり待合室の人々は外傷ばかりで、それでいながら痛みに呻く声は無かった。
 広く静かな空間、蛍光灯の明かりに包まれて座ると、途端に疲労感が押し寄せてきて花織は眠気を覚える。
「寝ていていいわよ……あ、ゾンビはすぐには起きられないんだっけ?」
 ジャックの訂正に、花織は頷く。
「そうみたいです。私もまだここに来て五日なので、よく分からないんですけど」
「もし限界だったらお家に帰りなさい。あるでしょう?」
 首を傾げて、背が高いために上から覗き込むような南瓜頭から視線を落とし、花織は頭を振る。
「只さんの容態を聞きたいので、まだ……」
 言いかけて花織の首ががくんと揺らいだ。瞼が上がらない。
 うとうととしていると、右から腕を回されてジャックの膝に寝かされる。
「眠って。疲れているから」
 顔に垂れた前髪をジャックがよけてくれる。体温の無い冷たい指先は、優しく花織の頭を撫でてくれる。それに安心して、花織の意識は途絶えた。
 
 からからと音を立てて、棘だらけの骸骨男が病院の玄関から現れる。
 彼の後から着いて来たのは白い肌に無数の穴が空く女性で、ベリーショートになった髪で隠せない火傷跡が身体の穴以上に痛々しい。
 彼らは受付の男性看護師と幾つか言葉を交わしてから待合室を見渡し、ジャックと目が合った棘だらけの骨男がびくりと姿勢を正す。
 それを見て女性はくすりと笑い、彼の手を取ってジャックの方へ歩いて来た。
 傍に来てからジャックの膝を借りて眠る花織を見て、女性がまた微笑む。
「また会いましたね、南瓜頭さん」
 さっきぶり、と言いながらジャックは隣の席に置いていたカンテラを手に取り、外套の中に収めた。
「どうぞ。私はジャック、サムとは昔に知り合ったけれど、貴女は初めましてだね」
「はい。まほろと言います、よろしくお願いします」
 ジャックの右隣に腰を下ろすまほろに遅れて、かちこちと音を立てながらサミュエルも腰を下ろす。
「サム、どうしてジャックさんを怖がるの?」
 まほろに言われ、サミュエルはびくりと、いや、からころりと骨を鳴らして頭を振る。
「いや、いや!怖がってるなんてとんでもない!」
 口ではそう言っておきながら、サミュエルの頭蓋骨、その奥に浮かぶ赤い光点の瞳はジャックを見ていない。ジャックはそれに敢えて目を細めてみせた。
「サムと会ったのは八年ほど前かしら。紲海岸に流れ着いていた所を見つけて、そこから暫く面倒を見ていたわ。ねえ?」
 こくこくと頷くサミュエルに、ジャックとまほろ、二人分の忍び笑いが響く。
「ほんと、ほんとにお世話になりました……ハハ……」
「ジャックさん、今度詳しく聞かせてください」
「今でもいいのに」
「勘弁してください……」
 三人が和やかに話す中、まほろが呼ばれサミュエルも連れ立って診察室に向かう。その背を見送ったジャックは、南瓜頭の奥で微笑んだ。
「もう少しだけ此処に居ようかな」
 呟く声は南瓜頭から外には出ない。
 院内を行き交う人々の足音に溶かされて消えていった。
 
 花織が目を覚ますと、目の前はポケットの付いた椅子の背凭れだった。
 首を巡らせ、天井を仰ごうとした先にくすんだ橙色がある。
 それが下を向いて、笑顔の形に刳り抜かれた南瓜頭の目が、その奥の青い瞳の光が花織と目を合わせる。
「おはよう。只くんは入院ですって」
 言われて、水底の泡が浮かび上がるように幾つもの記憶が蘇ってくる。
「またかぁ……今回は腎臓ですか」
 花織の声にジャックは目を瞬く。それを見て花織ははっとした。
「ごめんなさい、記憶が」
「寝惚けていたのね。只くんは怪我の療養よ。院長先生、相当お怒りみたい」
 ジャックの優しさに花織はどこかむず痒い気持ちになり、それに耐えかねて起き上がった。
「ありがとう、ジャックさん」
「呼び捨てて良いよ。花織ちゃん」
 ジャックに微笑み返し、花織は立ち上がる。
「面会ってできますか?」
 花織の問いにジャックは頷いて答え、立ち上がる。花織は彼女の手にカンテラが無い事に気が付いた。
「ジャック、カンテラは……?」
「ここ」
 言って胸の辺りをぽんぽんと叩くジャックに花織は首を傾げた。
「蝋を使って引っ掛けてるの。便利でしょう?」
 南瓜頭の奥でウインクしてみせるジャックに花織はまた笑みをこぼし、二人は受付に向かって歩き出した。
 短く刈り揃えた金髪と顔中に渦を巻く琥珀流が走る男性看護師は、無表情のまま面会の手続きを終えて部屋番号を書いた紙の切れ端を花織に渡す。
「声には出さないようにお願い致します」
 碧い瞳で花織と目を合わせてそれだけ言い、扉が並ぶ通路を手で示し、どうぞ。と呟いて彼は別の書類仕事を始めてしまう。
「ありがとうございます」
 囁くように小さかった花織の声は聞こえただろうか、男性看護師は反応を示さない。花織は後ろ髪引かれつつも先に歩き出したジャックの後を追った。
 病院は何度も増改築が行われたらしく、床材も壁材も十メートル歩けば色や質感ががらりと変わり、かと思えば待合室の清潔な質感に戻ったりして、まるでストライプ模様の筒だった。
 壁の案内を見て一つ通路を曲がり、材質の変化の節を合計して五つほど渡った後、階段に差し掛かる。
「そういえば」
 ふと浮かんだ疑問を、花織は声を潜めるように吐き出す。
「ジャックは日本に留学してたから日本語が上手なの?」
 コの字に曲がる階段の踊り場に上がり、ジャックが振り向く。南瓜頭の奥で青い瞳がぱちくりと瞬かれた。
「私、日本語は全然話せないわ」
 え、と足を止めた花織に、ジャックは南瓜頭の口元に手を添えて笑う。
「地獄だとね、言語が違っても不自由無く会話が出来るの。詳しくは知らないんだけど、伝えたい事が声に出した分はしっかりと伝わる。たぶんこれも、この世界の仕組みなのでしょうね」
 ジャックの話を聞きながら、花織の脳裏にはこれまでに出会った人々の声が蘇ってきた。
 只や康人、まほろは名前からして日本人だろう。なきじんさんも名前に馴染みは無いがおそらく。しかし、蟷螂の姿をしたマリア、西洋甲冑を着た案山子のトマ、双眼鏡頭にガラクタを寄せ集めた身体のニコラオス、松葉服飾店のトユンは中国人か、いや韓国人だろうか。そして棘だらけの骸骨男のサミュエル。
 役場で働くコスモポリタンのマルもそうだ。
 思えば様々な人と出会い、彼らと何の疑いも無く日本語で会話をしていた ―― していると思っていた花織は、そこに至ってまた一つ驚いた。
「私、日本人なんでしょうか……」
 花織の問いに、ジャックは長く息を吐いて踊り場の壁に背を付ける。
 そのまま南瓜頭の口に手を入れ、おそらくその奥の顎に左手を当てて小さく唸った。
「分からない。ゾンビは凄く複雑だから、例えば……そう、例えばの話だけど、貴女の中核となる魂があったとしたら、日本人の花織という人なのかもね」
 一段上に居るジャックは元の身長もあって遠く、高い位置に居るように見える。花織は手摺に乗せた掌を握り締めた。
「私、怖いです。もしそういう中心になる物が無かったら……私は、誰なんでしょう……」
 手摺の上で握る拳に力が入る。初めて只と出会った時の事を思い出して。
「それはあの世界でも変わらないわ。あると思うけれど、見当たらない」
「それって、凄く……凄く怖いことです……」
 こつこつと歩く音、階段を下りて、ジャックは花織の背にそっと手を置いた。
「だから信じるしか無いの。この世界に来て、私は初めてスピリチュアルの存在意義を知ったから」
 見上げた先、隣に立つジャックの瞳は優しく微笑んでいた。
「……イギリスって、キリスト教の人ばっかりだと思ってた」
 ふと口を突いて出た言葉に花織は失言を悟ったが、ジャックはくすりと笑った。
「家は形ばかりだったわ。日本の文化に近いかしら、祈ったりしてみるけれど、教会まで遠くて。大きな催しの時に足を運ぶくらいだったもの」
 恥じてみせる様に肩を竦めて、ジャックは花織の背中をぽんと叩く。続く道へ押し出してくれるように。
「ほら、只くんの所に行きましょう」
 頷き、花織は踊り場に上がった。
 
 男性看護師から渡された部屋の番号を見つけ、花織はその扉に少し戸惑った。
 病室の扉と言えば、真っ白な板に銀の手摺状の握りが付いた引き戸を想像していたのだが、目の前の扉は丸いドアノブの付いた木戸だったのだ。
 分かりやすく、扉の表面に取り付けられたプレートには紙片と同じ部屋番号。ジャックが花織を窺う気配を感じ、花織は思い切って木戸を三度叩く。
「どうぞ」
 扉の奥から届いた声は只のものではない、康人がこんな声だっただろうかと思い、花織は「失礼します」と言いながら戸を開けた。
 病室の中はやはり木造らしく、そこにパイプで作られた無骨なベッドの端が覗いている。遅れて部屋の奥から顔を見せたのは、やはり康人だった。管理室で会う時と同じくスーツに身を包み、右目の部分が歪んだ眼鏡を掛けたその顔で笑顔を作ろうとして、その目が驚きに見開かれた。
「じ、ジェイコブさん?」
 康人の視線は花織の背後、ジャックに向かっている。彼女は首を傾げるようにして木戸を閉め、花織と共に病室の奥へ進んだ。
 室内は突き当たりの壁に四枚の硝子が並ぶ大窓と室内灯の明かりではっきりと物が見える。只はベッドに上体を起こして枕を腰と壁の間に挟んで座っていた。相変わらずの険しい表情で花織はどこか安心しつつも、包帯だらけの只の姿に笑うことは出来なかった。只の右腕は肘から先が無く、ジャックの蝋は外され包帯で厚く覆われている。
 康人は慌てて花織とジャックに椅子を勧め、驚いた様子のまま口角を上げた。
「いやぁ、お久しぶりです。以前お会いしたのは」
 話し出す康人に真っ白な右手を出して制し、ジャックは南瓜頭に手を掛けた。少し力を入れて外された南瓜頭の中から、手と同じく真っ白な蝋で出来た顔が現れる。
 精巧に作られたドールのような整った顔に長い前髪が垂れて左目を隠し、纏め上げた髪は蝋燭の炎の様に静かに揺らめく。
 だが、髪は繊維状ではなかった。
 石膏像か布で作ったような、のっぺりとした髪。ジャックは青く燃える右目で康人を見つめ「ごめんなさい」と呟く。
「ジャクリン……でも、その、その格好は……ジェイコブさんは……」
 息苦しそうに言葉を零す康人は、下顎のない南瓜頭とジャックの外套、そして彼女の顔を何度も見比べる。
「久しぶり、康人。ジェイコブは十年以上前、肢体ヶ原決壊の時に……説明が難しいけれど、此処には居ないの」
 花織は戸惑い、康人からジャックへ、そして只の顔を見て、息を呑む。
 只の瞳が琥珀の輝きを紅く燃やして、ジャックを睨んでいた。
「居ないって……し、死んだんですか」
 康人の問いにジャックは頭を振る。
 長い外套をはだけ、袖口にベルトのあるコートを象った真っ白な左腕を出して伸ばす。その腕が脈打つ様に蠢いて引いていき、中から骨格にも似た三本指の木の枝が現れた。
 木の枝は藍鼠色、これもまた命を感じさせない冷たい色をしている。
 その手を見て、康人は完全に笑みを吹き消す。
「ジェイコブは私と融合した。彼の……彼の心が消えて、最期に彼の物を全て私に譲って、消えていった」
「あの世界へ帰ったのか」
 低く静かに、しかし怒鳴るように強い只の声が響いた。
「分からない。たぶん、成仏と言う方が近いのかも」
 ぎっ、と椅子を鳴らして腰を落としたのは康人だ。項垂れ、やがて両手で顔を覆う。
「だから、今の私はジャック。ジャクリンでも、ジェイコブでも無い。この世界の住民」
 腕を戻し、外套を直してジャックは椅子に腰掛ける。花織からは顔に掛かる前髪で表情が窺えないが、只を運ぶ道中と似た寂しさを湛えているように見えた。
「ジャック。何故あの時麓森に居た」
 問われ、ジャックは只を見る。
「巣喰が市街の方へ向かうのを見たから。それも、数え切れないほど」
「では、姿を消してから市街の外で何をしていた。灯籠のジャック」
 只はぎらぎらと燃え盛るような目でジャックを睨んでいる。ジャックはすぐに答えられない様子で、俯いた。
 花織はそんな二人を止めたかったが、室内の冷えた空気があまりにも冷たくて、喉の奥が凍ったように動かない。辛うじて動いた足も後退って、壁に凭れて三人を眺めるだけだった。
「……市街の人が見落としたゾンビや迷い人を探していた。彼らに地獄の事を教えて、市街に送り出していたの」
 ジャックの言葉に康人は顔を上げ、そしてまた俯いた。
「ジェイコブが生きているのだと、思ってました」
 康人の声は滲み、彼は眼鏡を外して目を覆う。
「それもここ半年は止めていた。何故だ」
 花織は只の責める様な口調に息が詰まりそうになる。対するジャックが申し訳無さそうにしているのが余計に辛かった。只や康人、ニコラオスよりも背の高いジャックが、誰よりも小さく見える。
 その背から逃げるように、花織は木造の壁から窓へ背を伝わせて、ジャックの顔を見た瞬間、移動した事を後悔した。
「……私は、彼の様にはなれなかった」
 今にも泣き出しそうな、いや、泣いているのにジャックの身体は涙を流せないのだろう。悲痛に歪みながらも、ジャックは震えるだけで一筋も涙を流していない。
 それでも、彼女は泳ぐ視線を只に引き戻し続けている。
「迷い人を、ゾンビを、彼らを助ければ、いつかあの世界へ帰れると思ったわ。でも、けれど……帰る方法を探るどころか、彼らを助けるだけで精一杯だった。そうして夢中になればなる程……この世界が……こんな生活が、良いって、思ってしまった。彼らを保護して、市街へ送り出して、時折再開する度に、満ち足りていたの」
 ジャックの声が消え、沈黙の凪ぐ室内。くしゃりという音は只の左手が布団を握り込む音だった。
 只は瞳孔が隠れる程に強く、ジャックを睨む。
「お前は」
「やめてください!」
 咄嗟に叫び、その場の誰もが驚いて花織を見た。花織も我ながら自分の行動に驚いたが、一度解凍された喉が、肺が、続く声を生み出さんとする。
「ジャックは悪い事をしてないんですよね!?だったらそんな、泣く事は無いじゃないですか。ジェイコブさんの事は……残念ですけど、只さん、ジャックを責めないでください。お願いします。怒らないで」
「俺の」
 言いさして一度咳込み、只は花織に睨む目を向け直す。
「俺の五年は、市街で噂されていた此奴を探しての五年だ。地獄に長く住まい、人を導き、救世主だと言われ続けていた。噂する奴等が口を揃えて言っていた、彼処へ帰る為に力を貸してくれ。そう言われ、鍛えられたと。それを……当の本人は、此処に満足していただと!?ふざけるな!お前には義務がある筈だ!ジェイコブに申し訳無いと思わないのか!!」
 瞬間、ジャックの方を向いて怒鳴る只だけが花織の視界を占めた。
 一拍心臓が脈打つ間に只に駆け寄り、その頬を力の限り張っていた。振り抜いた左腕に花織自身も体勢を崩し、ベッドに手を突く。リネンに涙が滴った。
「それの何が悪いんですか!帰れるかも分からない世界より今居る世界を大切に想って、悪いんですか!」
 駄々を捏ねる様な花織の声が僅かに反響して響く中に「そうだな」と只の声が混ざる。
「誰も悪く無いんだろう。お前の面倒を見させられて死にかけても、片腕を失っても、お前は悪く無い。俺が勝手に動いたからな。あの世界に囚われる方が悪いか。この市街に居る一万近い人間、その半分以上は悪いんだな」
 花織の視界は涙で酷く歪み、頭を振れば何が何だか分からなくなる。リネンの擦れる音がして「おい、只」と康人の声がする。続く彼の声はどんと木の壁を叩く様な音で遮られ、木戸が軋み、激しい音を立てて閉じられた。

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