小説「落花生」09
【本作を読む前に】
「落花生」はダークファンタジーの小説です。
作中に残酷な表現、グロテスクな表現が一部あるため、苦手な方は読まないようお気を付けください。
また、こちらは月に一回投稿予定の連載原稿になります。
挿絵や文庫本風にデザインした「完全版」を後に作る予定であることを、予めご了承ください。
また、上述した完全版では画像で読める作品にする予定です。
そのため、本記事ではルビを振っていません。
ご了承ください。
09
モランディ橋。
煉瓦造りの建物が軒を連ねる街を横切る長大な橋を見下ろして、ニコラオスは双眼鏡のアイレリーフに眼鏡を押し当てる様にして覗き込んだ。
目標はその橋の外縁にちょこんと乗ったニシイワツバメの夫婦。この数日街の空を飛び回り、定期的に橋へと向かう彼らを見つけたニコラオスは、簡単に装備を整えて山腹から彼らを観察していた。
夫婦はまだ営巣していないため、今は内見中と言った具合だろう。とは言え四六時中車の行き交うモランディ橋を選んだのは不思議で仕方が無いが、狩りに出る分には案外都合が良いのかもしれない。
巣から顔を出し、街を見下ろして餌まで真っ直ぐに飛んで行き、狩りを終えて子供に分け与えたらまた巣から街を見下ろせばいい。その繰り返し。
ひょっとするとあの夫婦は面倒臭がりな性格なのかも。
そう思い至って笑みをこぼしたニコラオスは、胸ポケットに仕舞っておいた双眼鏡のレンズキャップが煙草の箱のせいではみ出している事に気が付かなかった。
ニシイワツバメの夫婦が飛び立ち、それを追って体勢を変えた時、かたっと足下で鳴った音に目を向け、レンズキャップが山肌を転がり落ちる様を見、ニコラオスは慌ててそれを追い掛ける。
「ま、待って!待ってください!」
二つあるレンズキャップの内、一つは木の根に弾かれて高く飛び、それをニコラオスがキャッチする。
しかし、綺麗に木の根を避けるようにして転がり続けるもう一方は、あっという間に見失いそうな程小さくなっていた。
捕まえたキャップをジーンズの臀ポケットに押し込み、ニコラオスは更に山肌を駆け下りる。
斜面の角度はかなりのものだ。とても立っては居られないが、腰を低く木々を足場や手摺代わりに滑り落ちるようにすれば危険ではあるものの速度を出してレンズキャップを追える。
先を行くレンズキャップはニコラオスを挑発するように時折高く飛び、しかし何処にも引っ掛かることなく転がり続けていく。
「お願いします、止まって。もうメンテナンスをサボりませんから。そうだ、今日帰ったらケースを買いましょう!クリーナー付きの快適な物ですよ!だからほら、止まって、どうか!」
すっかり癖になった独り言をレンズキャップに向けて話しながら、ニコラオスとレンズキャップは麓まで下りて来てしまった。
それでもレンズキャップの方は無慈悲に転がり続け、道路手前 ―― 山側の用水路にぽちゃんと音を立てて飛び込んでしまう。
それを見てニコラオスは天を仰ぎ、眼鏡を外して目元を手の平で覆う。
「ああ、なんてこと……」
溜息と共に声を出したニコラオスは眼鏡を掛け直し、用水路でゆらゆらと流されて行くレンズキャップを見てもう一度溜息を吐く。
車道よりも大きく窪む用水路は人が歩ける幅が無いくせ、腕を伸ばして届くかどうかの深さだ。車道を走ってレンズキャップを追い越し、ニコラオスは両頬を張って用水路に飛び降りた。
跳ねる飛沫に顔や服を汚し、お世辞にも綺麗とは言えない水に手を突っ込んで手の中にレンズキャップを迎え入れる。
「なんて事をしてくれたんだ。いや、私が悪いのですね、貴方を蔑ろにしていましたから……」
ぶつぶつと呟き車道に上がろうと道路に手を突き、迫るエンジン音にニコラオスは体を仰け反らせた。間一髪トラックを避けたニコラオスだったが、今度はボロいエンジンの黒煙をまともに受けて顔中が煤ける。
車道に出るのが厭になり、ニコラオスは山の方へ体を捻って土と下草に手を突き、今度こそ用水路から這い上がった。
「酷い、あんまりだ。言ってくだされば頭の悪い私でも理解できるのに!」
濡れたジーンズの膝を叩き、ずれた眼鏡を直して、ふとニコラオスの動きが止まった。
車道の半ば、人の歩く道など無い山肌にぽっかりと口を開けたトンネルがあった。
それは植物に侵食されて殆ど隠されているが、フェンスや標識が無く、一歩踏み込めば陽の光も届かない程に暗い。だが、そのずっと先に暗闇よりもほんの少しだけ明るい場所が見えている。
「向こう側まで……?」
呟き蔦を分けてトンネルに踏み込む。石造りのトンネルは苔むして嫌な臭いがしたが、ニコラオスは好奇心に突き動かされるままに双眼鏡を覗き込んだ。
二十メートルは下らない距離を越えた先、そこに見える薄闇は満月の夜を思わせる明るさで、トンネルを抜けた先にはどうやら木で出来た柵があるらしい。柵は出口を塞ぐ為の物では無い様で、よく見ると薄闇の中に建物らしき影が見える。
双眼鏡から顔を離し、背後から差す陽の光に顔を顰めたニコラオスはまた一歩トンネルの奥へ踏み込む。しゃりっと砂埃を踏む音、天井が低いので腰を屈め、双眼鏡を握っていない左腕で頭を守りながら進んで行く。
愈々足下の石畳さえ見えなくなってきて、ニコラオスは来た道を振り向いた。
遠くなった車道は蔦やら雑草やらで見通せないが、帰る道がある安心感は心強い。歩む先へ顔を向け直すと、薄闇に浮かぶ影までもう十メートルと無かった。
進む足を速くする。
「これは冒険です。忘れられたトンネル、その先に見える建物、一体どんな謎が隠されているのでしょうか。記事にすればお小遣い稼ぎになるかも知れません。そしたら、ちょっと背伸びしてレストランで美味しいパスタでも……いや、キャップケースの方が先ですね。ロックの付いた、カラビナでズボンに着けられる便利な物にしましょう。さぁ、一体何が?」
独り言で高鳴る心臓を落ち着かせ、ニコラオスはトンネルを抜け切った。
かしゃり、と足下で金属の擦れる音がして、しかし見下ろした場所には土と植物しか無い。
土に紛れた瓦礫だろうかと思い直し、前を向いた先は森だった。左右も薄闇の中に佇む木々があるだけで、それ以外には朽ち果てた木の柵と建物の残骸。見上げた先は何の光もないが、空を思わせる薄闇。
ふとニコラオスは背後を振り返る。
入口とよく似たトンネルがそこにあり、入り直して「え」と声が漏れた。
つい先程、真っ直ぐ戻れば出られる筈だったその先は、全くの闇だった。
手にした双眼鏡を覗き込む。そのつもりが、ニコラオスの手は何も掴んでおらず、それはおろか顔に当たる筈の無い距離で顔に手が当たり、目元に僅かな痛みが走った。
困惑に声を漏らして手を見て、ニコラオスは叫んだ。
手の形をした機械。いや、無秩序にガラクタが寄せ集まって人の手を模した様な、しかしそれは自分の意志の通りに動き、握り込めば指の腹や手の平に感触が伝わる。
再び叫び、自分の右腕を掴む左腕も同様に変化している。
完全にパニック状態に陥ったニコラオスはその場から逃げるように脚を動かして転び、仰向けになったその先、薄闇の空に黒い点が浮かんでいるのに気が付いた。
目を凝らそうとするとぐんとその影が近付いて目の前に居る様に見える。驚いて顔に触れ、ニコラオスは狂気に満ちた笑い声を上げた。
感触は確かにある。しかし、自分の顔は目の周りが大きく張り出していた。あちこち触って分かる。手に馴染んだ形、何倍か大きくなっているが、愛用していた双眼鏡の形状。
「ああ、ああ、そうですか……ワタクシは、あの時トラックに轢かれたのでしょう。これは……これはそう、夢ですね!怪我や麻酔で混乱しているんです。だからこんな……」
独り言ちる中、ニコラオスは転んだ瞬間の痛みを思い出した。後頭部らしき部分を摩り、たん瘤ができた時と似たような痛みを覚え、ニコラオスは泣き出した。
後頭部を摩っても、殴っても痛い。体を動かし地面の上で四つん這いになり、その手やジーンズ越しの膝に伝わる土と下生えの感触まではっきりとしている。
まるで受け入れられない状況だが、夢としても有り得ない。
ニコラオスはふと思い付き、金属のガラクタで作られた様な指を地面に立てた。
『Non progredi est regredi.』
ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテの言葉らしい。ニコラオスはラテン語で暗記したその一文を土に彫り込み、その文字達をもう一度指でなぞる。
「前進せぬは後退なり……前進せぬは、後退なり」
いつの日だったか立ち読みした本で目にして、以来心の支えにしてきた言葉。
それを何度も何度もなぞり、呟き、そしてふと視界に赤色が差した。
驚いて顔を上げ、がしゃりと体が鳴る。
薄闇の森、赤い炎を灯すランタンを持った大きな南瓜頭の何者かが、ニコラオスの目の前に迫っていた。
驚き駆け出そうとするニコラオスの背に「待った待った!」と声が掛けられ、南瓜頭を振り返る。
彼は黒い外套から異様に細く、そして指の足りない左手を挙げて、南瓜頭の奥に浮かぶ青い光でニコラオスを見つめていた。
「君……その、気が付いたら此処に?」
恐る恐る頷きつつも、ニコラオスは南瓜頭の奥に焦点を合わせる。見ようと思えばぐんと近付く視野に戸惑いながらも彼の顔を見ようとして、ニコラオスは腰を抜かした。
顔が無かった。
南瓜頭の奥には無骨な丸太があるだけ。時折瞬きをする様に消えたり現れたりする、眼のような光だけが人間らしさを思わせるが、よく見れば挙げたままの左手も藍鼠色の枝でできている。
「あー、あれか、見えたのかな。この奥」
南瓜頭は笑う形に刳り貫かれた口元を指差す。ニコラオスが頷くと、南瓜頭は光る目を細くして小さくうんうんと頷いた。
「ごめんね、驚くよね。けれど君も結構な身体になってるよ。ほら、ご覧」
言って南瓜頭は外套の中から小さな手鏡を取り出す。
子供が持つような可愛らしい手鏡はすっかりボロボロで、鏡面も欠けたり汚れたりしていたが、そこに映る双眼鏡頭はしっかりと像を結んでいた。
手に馴染んでいた筈の双眼鏡。それが今、鏡の中でニコラオスの意思の通りに、頭の代わりとして動いている。
「恐ろしいだろう。僕もそうだった、他にも此処に迷い込んだ人達が大勢居るんだ。そういう人達は皆、この場所……この世界を、地獄と呼ぶ」
ニコラオスには訳が分からなかった。
ただただ恐ろしく、絶望的で、涙が溢れてくる。
涙を流しても視界は明瞭なままで、しかし目元を伝う感触だけがあり、ニコラオスは何度も顔を擦った。
「僕はジェイコブだ。ジェイコブ=リバモア。君は?」
南瓜頭のジェイコブはゆっくりとニコラオスに近付き、膝を着いて握手を求める。
その細すぎる手を怖ず怖ずと握り、ニコラオスは彼の光る目を見つめた。
「に、ニコラオス=アンリです」
握り合った手をしっかりと掴まれ、ジェイコブは力を入れてニコラオスを立ち上がらせてくれる。
「よろしく、ニコラオス。一日でも早くこんな地獄とおさらばしよう」
握る手を離し、ジェイコブは森の方へ振り返る。
カラン、と冷涼な音を立て、カンテラの炎が木陰を払っていた。
只が去った後の病室にニコラオスが訪れた。
康人から事情を聞いたニコラオスは、ジェイコブとの思い出を語りながら錆色の涙を双眼鏡頭から流し、それをウエストポーチから取り出したハンカチで拭いとった。
康人は立ち上がり、ニコラオスに自分が座っていた椅子を勧める。
「私は役場に戻ります。麓森の件もありますから」
そう言い残して静かに木戸が閉められると、無人のベッドを囲んで三人が居るという妙な空間を意識してしまう。
「……取り敢えず、此処を出ましょうか。外の空気を吸いましょう。只さんもきっと、その為に出たんですよ」
沈黙を破ったのはニコラオスだ。双眼鏡頭をジャックに、次いで花織に向け、問うように首を傾げる。
「私、謝らなきゃ」
花織の呟く声は静かな病室に響く。膝の上で組んだ手を見つめながら、只を叩いた左手を意識していた。
「それはまた後日にしましょう。今日は、時期が悪いですから」
ニコラオスに止められ、花織は迷いながらも静かに頷く。
冷静さを欠いていた事は理解していても、只を叩いた手の平が厭に痛む。
「私も一緒に行ってもいい……?」
まだ泣き続けている様な表情のジャックに聞かれ、花織が頷くと同時にニコラオスが立ち上がった。
「良いですとも!生還祝いにご飯でも食べましょう!高いですけど、きっと美味しいですよ」
声だけはいつもの調子で、しかしニコラオスの双眼鏡頭からはまた一筋の涙が伝った。
院内の道を遡る中、三人は一言も無く歩き、きっとそれぞれに只を探していた。
一歩一歩、ゆっくりと歩いて待合室と一体になっている玄関ホールへ向かう途中、不意に診察室の扉が開いて眼帯をしたゾンビが出て行く所だった。
彼を見送る為か、その診察室から角材が頭から突き出た白衣の男、院長が顔を出し、ゾンビの背を見送ってから花織と目を合わせた。
「只は三十日間入院だ。それより短くは絶対にしない」
それだけ言うと、院長は診察室へ引っ込んでしまう。
面食らって立ち尽くした花織だったが、その言葉の意図は何となく呑み込めた。
「ありがとうございます」
院長本人には聞こえないと分かりながら、花織は待合室の扉に頭を下げて歩き出す。
ニコラオスに連れられて歩く道に看板を掲げた建物が多く見えてくる。
赤みを帯びた橙色の電灯、それらの間隔が短くなり、
市街にこれ程明るい場所があるのかと驚いて首を巡らせていると、ニコラオスが鼻を、ではなく双眼鏡頭を高くして両手を広げた。
「如何でしょう!市街唯一の商店街、夕焼け通りです!」
道中に考えていたのだろうか、ニコラオスが手を広げたのは丁度「夕焼け通り」の看板を掲げたアーチの真下だった。
ジャックは南瓜頭を巡らせてくすりと微笑む。
「此処、昔は闇市みたいだった場所よね?」
懐かしそうに目を細めるジャックに、ニコラオスは頭を掻いて肩を窄めた。
「ご存知でしたか。ここ四年くらいですかね、役場の指導が入って、それに便乗した有志の方々が色んなお店を出し始めたんですよ」
二人の会話を聞きながら、花織は立ち並ぶ看板を読んでいく。
ブティック蛾の繭、洋菓子店マリー、ファラリス楽器店、ろおるけえき蓑虫踊り、個室純喫茶みつ、ベーカリー・ジャンドラム、中華料理店東南、糖衣和菓子、ビアガーデン曝、エリザベスワイナリー。
中にはデザイン重視のために読めない看板もあったが、そういった看板もまたアクセントとして雑多な夕焼け通りを飾っていた。
ニコラオスは花織とジャックを先導し、反対側のアーチが見えた辺りで二人を振り向いてある一角を指差す。
「あのお店です!」
ニコラオスの指を追って目を向けた先に、八席分の大きなテラスを取った木造の飲食店が見えた。
人の往来が途切れ、店頭に立てたボードに「ダイナー・ルナ 」と読めるデザイン文字。
ルナに近付くと、花織はテラス席の一つに着いた二人分の人影に目が留まった。
「まほろ、サム!」
花織の声に、ベリーショートヘアの女性が瞳の無い目を向け、その向かいに座る棘だらけの骸骨男もその視線を追って振り向いた。
まほろはぼろぼろになってしまった服を着替え、体の穴が目立たない長袖のカットソーを着ている。彼女は花織に手を振り、サミュエルと何事かを話して手招きした。
「行こう」
言って花織はジャックとニコラオスの手を引き、テラスに続く木の階段を上がる。
ルナの店内からは美味しそうな料理と珈琲の香りが広げられていた。
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