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あらゆる研鑽、あらゆる学問の究極は、自分自身を知ることに帰着する

「知る」

哲学では

「ものごとを正しく知る」とは、「客観」と「認識」を併せ、

その出発点が「知」と「不知」の自覚的区分から・・・「無知の知~ソクラテス」

分かりもしないで分かったかのように思い

知りもしないで知っているかのように思い込む

この「慢心」と「錯覚」が認識の最大の敵である!

人間である以上、だれにでも過ちはある。間違った見解に陥ることもあろう

しかし、過ちを指摘されたときに、率直に非を認め、

大胆に改めるかどうかで

進歩の人か保守の人か

また善意の人か悪意の人かが決まってくる!

「客観」と「認識」・「知」と「不知」これをもって『実相』か

実相をありのまま受けとめ、それに対して、どう「価値創造」していくか

どう「対処」していくか、それが「智慧」である。

「価値創造」=「自己変革」 「智慧」=「言動の配慮から」

「智慧」とは、価値創造していく一念の輝きであり、自己自身のうえに

働きのうえに躍動してくるものである。 

私の些細な実体験から・・・

「根も葉もないうわさ」との表現がある。

これは、“うわさ”を単なる“うわさ”として切り捨てているに過ぎない。

確かに、根も葉もない(客観)かも知れないが、

“うわさ”の「種」自体が、私自身であるとの「認識」を合わせ考え、

そこから、どのように振る舞うかが問われている。(率直に、大胆に)

また

「火のないところに煙は立たぬ」との諺(ことわざ)で言えば、

うわさ(客観)の事実関係ではなく、

“うわさの根拠”自体が私自身であるとの「認識」をすることであり、

そこから、自己自身をどう改めていくかが問われている。

果たして、それらは私自身が、どのような人間に映っているのか?

まさに「鏡」であると「認める」ところから、

自己変革の戦いは始まると考えます。

*“うわさ”を打ち消すだけの信用も信頼もされていない

*やはりそうか!と、卑怯な人間、ズル賢い人間と思われている

*「言動の不一致」所詮は口先だけの人間だと思われている  等々

少々、ネガティブで自虐的に思われてしまいそうだが、

決してそうではない。

強いて言えば、これらは一人・個人によらず、

法人・会社もまた然りではないだろうか?

「結果を良くすることと、客観的評価を良くすることはイコールなのだ」

とのアンリミ創立者のメッセージがあるように、

極めて大事な事であると認識を新たにするものであります。

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