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往復書簡19 持つ、捨てる、掛け違える


 いやー、夏ですね。

 夏なんです。ギンギンギラギラの。

 お返事のなかに、松本隆の名前があって思い出しました。はっぴいえんどの曲。そうそう。矢口さんがうろ覚えで松本隆と最果タヒの対談から引いていた、「手法や技法みたいなものは、得たそばから捨てられなくてはならない」ということば。これってたぶん、前にわたしが取り上げた「飽きる能力」とつながってきます。



 さいごにわたしはこう書いていました。

「自分のもの」にはできない。ここがキモなのではないか。

出典:俺

 矢口さんは「自分のもの」って、あると思いますか? なんだかんだありますよね、きっと。なかったらビビります。悟りの境地です。「自分のもの」があると、それを「失う」って事態も起きてくる。「自分のもの」ではなければ、いくら捨てても喪失感はない。

 「得たそばから捨てられなくては」というのはつまり、得たとしても「自分のもの」ではない。自分の手法、自分の技法は別にある。ことばを補うと、そういうお話なのかなと思いました。ぜんぜん元の文脈わかんないけどね! 

 逆に言えば、「これは自分のもの!」と思うと捨てられなくなる。なんでもそうです。道端の石ひとつでさえ、自分のものだと思ってしまうと捨てられない。そのへんの石ころなんて、誰のものでもないはずなのに。ふと手にして、「自分のもの」と感じてしまうときがある。「所有する」という感覚のふしぎなところです。

 人間はたぶん、なんでも「自分のもの」とすることができる。ゆえに、なんでも「失ったもの」とすることもできる。

 この融通無碍な所有感覚を応用すると、もともとないものを失ったもの(ありうべき過去)として自分のものにすることもできる。こう書くと複雑だけれど、ありふれた心の機微だと思います。ある種のノスタルジーがそのひとつ。

 夏は記憶の欺きに満ちた季節です。
 たとえば、こんな曲はどうでしょう。

 


 これほど見事な夏を過ごしたことはない。まったくない。と思うけれど、なんか懐かしいなと感じてしまう。まるでかつて経験したかのように。妙なリアリティがある。この曲を聴くと、知らない誰かの、いつかの夏の記憶が自分の記憶みたいに思い出される。

 矢口さんの想定とは異なると思いますが、欠如(いまだ持たないもの)が喪失(いつか持っていたもの)にすり替わるという指摘でまず思い浮かんだのがこのようなノスタルジーでした。

 わたしたちは、良くも悪くもこうした掛け違えの重なりに揺られる時を過ごしているのだと思います。

 というかね。自分だけの、たったひとりの、なんの掛け違えもない純粋な記憶なんてあるのか疑問です。これは所有に関しても言えて、醇乎たる「自分のもの」はこの世にあるのか。わかりません。ぜんぶ借り物なんじゃないかと、ときどき感じます。自分の身体でさえ。悟りの境地です。ビビります。

 生々流転。そりゃそうだけど、こわい。なんかほしいよなって思うのが人情です。なにか、確からしいものがほしい。「セピア色の物語の中に落とされたオレンジ」。矢口さんがジャック・プレヴェールの詩を引きながら書かれていた、場面が色づく瞬間。悲劇にせよ、ここには確からしい人生の感覚があるのかもしれない。

 あの詩を読むと、落とされる前後でオレンジの意味が変化しているように思います。「オレンジ」は果実の名称であり、色の名称でもありますね。落とされる前は果実の意味合いが強い。落とされたあとは色の意味合いが強くなる。果実が色としてころがりだす。「実」を失って、抽象性を帯びるんですね。それが恋人の死とも符合している。鮮やかな詩です。

 いま書きながらふと、ソール・ライターの写真を思い出しました。

 ジャンルを掛け違えた連想です。作品集の表紙にもなっている、代表的な写真。傘が傘である以上に「赤」なんです。「傘だ」と認識するより先に、「赤い」と感じる。こんなコントラストがお好きかな? と思って。おしゃれですね。触発されて、似たテイストの写真を撮りたくなります。でも、わたしが発見できるのはせいぜい雪見だいふくのフォークぐらいです。

精一杯

 たいてい黒いアスファルトの上に細長いピンクがぽつんと落ちているので目立ちます。見つけたら、とりあえず撮る。これはこれで日常が色づく瞬間なのかもしれません。「あった」と。こどもがそのへんの石を「自分のもの」として持ち帰るような感覚と、たぶん似ています。

 発見した。見出した。その瞬間の、ちょっとした盛り上がり。ときめき。以下のような感覚とも似通っていそうです。本を手にする瞬間。

「この本を読みたい」と思ったその瞬間こそ、この世でいちばん愉しいときではなかろうか。それをなるべく引きのばし、いつまでもそこに「読みたい」が並んでいるのが本棚で、その愉しさは、読まない限りどこまでも終わらない。

クラフト・エヴィング商會『おかしな本棚』(朝日新聞出版)より

 発見的愉悦は、所有のはじまりでもあります。自分の棚に並べたい。はじめは「自分の」。でも、その探求をつづけていると、あるとき裏返るんです。あれ? ってなる。本を買っているのか、本に買わされているのか。石を採集しているのか、石に採集を命じられているのか。わたしが雪見だいふくのフォークを見ているのか、雪見だいふくのフォークがわたしを見ているのか。

 俺がお前でお前が俺で……みたいな、主体がどこにあるのかわけわからん状態になる。そこからが本番だと思います、何事も。わたしはもはや雪見だいふくのフォークを見つけたいとは思っていません。心底どうでもいい。でも、あれば撮る。なぜなら、そこに雪見だいふくのフォークがあるから。気分はもう登山家です。悪く言えば、腐れ縁です。腐らせてからいい味が出てくる、そういう寸法。なの?

 ことばもね、たまにわからなくなる。自分がことばを使っているのか、ことばに使われているのか。詩人の大岡信は「人間は言葉に所有されているのだ」と書いています。

 自分が言葉を所有している、と考えるから、われわれは言葉から締め出されてしまうのだ。そうではなくて、人間は言葉に所有されているのだと考えた方が、事態に忠実な、現実的な考え方なのである。人間は、常住言葉によって所有されているからこそ、事物を見てただちに何ごとかを感じることができるのだ。自分が持っていると思う言葉で事物に対そうとすることより、事物が自分から引き出してくれる言葉で事物に対することの方が、より深い真の自己発見に導くという、ふだんわれわれがしばしば見出す事実を考えてみればよい。

大岡信『詩・ことば・人間』(講談社学術文庫)より

 この考え方は「手法や技法みたいなものは、得たそばから捨てられなくてはならない」の亜種と見ることができそうです。「持っていると思う言葉」より、「引き出してくれる言葉」に自己が宿ると。

 それでまた思い出したんすけど、倉田めばという方のお話で、あるときパフォーマンスアートの舞台に「何をしていいかわからぬまま立て」と言われ、練習もアイディアもないまま不安を押して立ってみたそうです。そしたら、意外となんかできたと。めばさんは、こう話します。

「何をしていいかわからないままにやれ」っていうことぐらい、アートをやる上で力になる言葉って私はいまだかつて知らない。それからはいつも、本当に何していいかわからぬままやってるんだ。でもやれるの。「あっ、人間ってそういうものなんだ」って思った。学習したり、ノウハウを身につけたり、もちろん踊りの練習したり歌の練習したり、レッスンに行ったりするのもいいと思うんだけど、でもそれをしないと人の前で何かしちゃいけないもんだとか、思い込まないほうがいいかな。

精神看護2022年9月号、特集「赤坂真理×倉田めば 表現の中で安全に壊れること 回復に殺されないために」より

 太字は原文ママ。こういうお話、けっこう共感するところがあります。というのも、わたしはいつも何を書くかわからないまま書いているから。この記事もそう。その場しのぎの思いつきコンボです。ははは。

 会話なんかは、多くの人がそうかなって思う。自分が何をしゃべるかというよりも、場がしゃべる感じ。相手やその場の雰囲気・状況によって、自分から引き出されるものはガラッと変わる。

 わからないままでもやれる。むしろ、そっちのほうがおもしろいかも。こんなふうに振り切れたのは、ここ数年です。むかしはめっちゃ準備して予習をしまくるタイプでした。自信のなさゆえに。即興性や流離性を信じられるようになって、大袈裟に言えばちょっとだけ生きるのが楽になった気がする。自信がついたのかな、謎の。

 「自信のなさ」「臆病さ」は勉強や練習の動機になりますから、それはそれでたいせつですね。自信だけあってもいけない。



 じゃあ、そろそろ、このあたりで切り上げましょう。話題が散漫にいったりきたりしているようですが(いつものごとく!)、だいたい「持つ/捨てる」みたいな所有の感覚をめぐるテーマでゆるくまとまっているかな? とも思います。

 触れなかったけど、矢口さんが3年前に書いていた記事も読み直して参考にしました。

 ぶっこみたい話題はほかにもありますが、すでにくそ長いのでやめますね(笑)。でも、ちょこっとだけ自分への宿題として書いておくと、ダニエル・ヘラー=ローゼン『エコラリアス 言語の忘却について』(みすず書房)について。 

子どもは言葉を覚えるときに、それ以前の赤ちゃん語を忘れる。そのように、言葉はいつも「消えてしまった言葉のエコー」である。そして、忘れることは創造の源でもある。言語の中にはつねにもうひとつの言語の影があり、失われた言語が響いている。

エコラリアス | みすず書房

 「流離こそが言語の核心であることを明かす、言語哲学の最重要書である」だそうです。この本、すごく興味深いのだけど中途半端に読んだっきりで何年も積んである。次回の書簡までに読んでおきます。たぶん!!

 あと、最果タヒ×松本隆の対談は『ことばの恐竜 最果タヒ対談集』(青土社)に収録されていますね。図書館で元の文脈を確認しました。わたしの推論は当たらずとも遠からず、でした。対談のなかで、松本氏は「飽きたら終わり」と発言しておられましたが、終わってナンボだろ人生!と思います。わはは。

 終わったつもりでも、つづくんです。
 気楽に終わりましょう。
 じゃ、終わります。


 2023年8月31日 夏休みの終わりに 
 永田(うげ) 拝


にゃん