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往復書簡18 好きな詩返し



永田(うげ)さん

ちーーーっす、久しぶりっす!……

お久しブリーフ!……

あ、いえ、あの……ご無沙汰しています。
普段通りの矢口れんとです。

正直、あまり久しぶり感はありません。永田さんが音声配信を聴かせてくれているからですね。最近は更新頻度が増えていてとても嬉しいです。後追いではありますが、毎回楽しませてもらっています。
もちろん写真も拝見していますよ。ますます腕を上げられたようで!深淵を覗いた先にあるおかしみ、それが極まってきているように感じています。

前回のお手紙に「いくらか考え方がシンプルになったのかもしれません」とありました。実はあなたのラジオを聴きながらそんな雰囲気を感じ取っていたのです。
永田さんのラジオといえば、独特な比喩と深い思索が不意に広がっていくのが持ち味だと思っていますが、その反面、聞き漏らしたらついていけなくなるような幾許かの不安も付き纏っていました。
でも近頃はあまりそれを感じない。決して魅力が目減りしたわけではなく、おそらく、あそびや余白が増えているのだと思います。最近の方が、ずっと良い。

……なんだかイヤですね。久々にお手紙を書けることがハッピーで、最近永田さんに感じている良い部分をお伝えしようとしているけど、その実はなんだか批評じみていて。
ちょっと私たちらしくない!(私たちらしさって何?) というわけで、ゆるりと本題に移ろうと思います。


バグノポリスキーの詩より「遊びにおいでよ──美しい流刑地に」の軽みと重み、そのバランス感覚の話をされていましたね。主にレトリカルな面から。
僕はこの詩には背筋がぞくっとするような、被虐的な情趣を感じました。最後の「流刑地」で詩の色が激変するわけですが、詩的感受性からは「詩の落下」とか「詩の眩暈」とも表現できるかもしれません。あるいは「顛倒」?
僕がこのように下矢印の力動で感じ取っていたものを、ある詩人の方は、おそらく別のベクトルで表現されているようでした。

「詩とは何か」──ちなみに僕はこの問いに対して「発見と飛躍」と答えています。「発見」は詩の核であり「飛躍」はその発見したものを文学へ昇華させる役割を担うものであると。

高階杞一『特集「詩とは何か」に寄せて』

確かに「流刑地」という語には「発見と飛躍」があります。特に最後に此処が「流刑地」であることが明らかになることで、一気に詩に昇華される、つまり文学になる。

このベクトルの話を乱暴にまとめるなら、作者にとっては飛躍であることが、鑑賞者にとっては落下にも感じられるのでしょうか。あるいは「顛倒」と言っても良いでしょうか? いったい詩の重力ってどこに働いているんでしょうね???

こんな風に、少しばかり詩が分かったり分からなくなったりして、触発されて書いてみようとすると、逆に全く上手くいかないことがままあります。
そんな時によく思い出す文言がありまして、作詞家の松本隆と最果タヒの雑誌の対談の中で語られていたものです。

「手法や技法みたいなものは、得たそばから捨てられなくてはならない」

出典失念しました


確かこんな文章だったと思います。いや、そもそも話者すら間違っているかもしれないので、責任を持てないのですが。
何にせよ、詩の技法について語っているこの文言自体がもはや詩になってるんですよね。飛躍や落下に裏打ちされている。修辞的にも温かさと冷たさのバランスが絶妙で、まともに読んでいる人なら途方に暮れてしまう。少しずるいよなぁと愚痴をこぼしたくなります。けっ、天才ぺっぺっ!!


せっかく永田さんが好きな詩を紹介してくださったので僕もひとつ、と最近読んできた何冊かの詩集とそれらに付けた付箋を漁ってみました。
残念ながらバグノポリスキーの3行詩のようにバシッとキマるようなものはなく、長めの物語的な詩しか見つけられませんでした。
たとえば、

〜前略〜

ある日
 それは聖クリック・クラックの祭りの日
はあとのないむすめは病院にいる
沖仲仕おきなかせはドアの前で立ちどまる
手にオレンジをにぎって
けれどもそのときむすめが死ぬ
沖仲仕は手をはなす
ころがれオレンジ ころがれ川のなかへ
港できみは腐るだろう
 古いコルクのきれはしといっしょに

〜後略〜

ジャック・プレヴェール「沖仲仕の心」

恋仲だったむすめが失ったはあとを、自身の胸にいれずみする港労働者の男の物語です。
オレンジが落ちる前後で詩の雰囲気が大きく変わります。この連の前までは叙述的で無機質だったものが、落ちた後では感傷的で幻想的なものに一変します。
セピア色の物語の中に落とされたオレンジ、その色の鮮やかさ。詩のこのような部分に僕は惹かれたりするのです。
(原語はフランス語ですけど、和訳の「ころがれオレンジ」もいいですよね、、、)

なんというか、詩的でありながら感覚的にリアリティに溢れていると思うのです。臨場感。詩的体験とはまさにこのようなものだと。
生きるのに絶望した人の見た花の色とか、大人になって久しい人の耳に届いた学生の管楽器の音色とか、仕事帰りにただよってくるシュークリームの匂いとか(!?)  そういうのに近い感覚。
詩の内のコントラストが好きだというのなら、その詩はある程度散文的にならざるを得ないのでしょうね。だから物語詩を好むのかもしれません。逆にコントラストのない詩は読んでいてちょっと疲れてしまうこともあります。


そうそう、本当は前前前回くらいから続いている「喪失と欠如」の話も、もう少し深掘りしたかったのです。

たとえば時間的にあったことがなかった「欠如」だとしても、喪失感に近い感情を持ち合わせている人のケースもあって、それって間主観的につまり共同体内部の自己として「喪失」を味わったりしているのかなって。
そうなると昨今のネット社会は地獄そのもので、なくて元々困らないものまで、まるで「喪失した」幻想をあたかも現実のように舐めながら生きていかなくてはならないのか、なんて。

もしかしたら次回のお手紙で拾ってもらえるかも、なんて淡い期待を込めて、私見を一気に書き残しておきました。
発つ鳥あとを濁す!きわめて美しくない!
拾うか拾わないか、拾い上げて捨てるかどうかはお任せします。
またお互いの興味の内で、お互いのペースでやりとりしていけたら嬉しいです。

さらに言うなら、ラップの話も拾い上げたかったです。ただ積極的に聴かないことはバレているようですし(笑)、頭の中でこねくり回したところでバイブス0の内容しか書けないと思うので、自粛しておきます。でもSOUL'd OUTは好き。ボースティングというより、メローな部分に惹かれてるだけかもしれませんが。
それではまた!


2023年5月21日
矢口れんと 拝

#往復書簡 #日記 #エッセイ

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