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【往復書簡:7便】飽きる能力について

 

 さらりと書かれていた「僕がまだビジュアル系をやっていた頃」のインパクトにやられました。矢口さん、ビジュアル系だったのですね。いわれてみれば、片鱗が残っているような気もします。自分にそんなおもしろい過去はあるかな。うーん。

 「僕がまだ」から始まる、インパクト抜群の過去をさらりと言えるようになりたい。「僕がまだマツコデラックスをやっていた頃」とか言いたいですよ。「僕がまだウラジミール・プーチンをやっていた頃」とか。ああ、悔しいなあ……(謎の対抗心)。

 そういえば、『ぼくがしまうま語をしゃべった頃』という高橋源一郎の本がありましたね。新潮文庫の。そうそう、思い出した。そういえば。この本に、ずっと気にかかっていることばがあります。ずいぶん前に読んだけど、よく思い出すの。そういえばね。対談の章にある、谷川俊太郎の発言です。

何年前になるのか忘れちゃったけど、いつだったか、折口信夫が言った「飽きることだけが才能だ」というのをたしか高橋悠治が引用しててね、それを見て、オレ、目が覚めるような思いをしたのね。僕はつまり、自分の書き方というものに飽きる人だったんですよ。(笑)p.184

 高橋悠治が引用していたのはおそらく、折口信夫の「生滅」という詩。『高橋悠治対談選』(ちくま学芸文庫)の「はじめに」にも引用されています。正確な文言はこうでした。一部を引きます。

 たゞ飽きることだけが、能力だつた―。
 あきた瞬間 ひよつくり 思ひがけないものになり替る。
この白鳥の身も 明日は 飽きてしまふだらう―。
 飛んでとんで、飛びくたびれたら
 今度は 岩山の苔に なつてゐるかも知れない。

 「飽きることだけが、能力」。これをよく思い出すんです。前言を思いっきりひるがえしますが、意味はやはりつねにある。めっちゃある。「にゃんにゃん」にも意味がある。わたしたちは世界を有意味なものとして捕捉し、その一定の決め事にすがって生きています。ふつうに考えれば、そう。

 ただ、飽きちゃうんです。ときおり。うん。飽きる。振り切れてどこか、べつの方向へ失踪したくなってしまう。新説ですが、もしかするとグレン・グールドがにゃんにゃんいうのも飽きちゃってるからではないでしょうか。単にピアノを弾くだけの自分に、途中で飽きてしまう。そうして、彼特有の歌が生まれる。

何か具体的な対象物があると、心が方向性を持って出て行く。機会詩という概念があるのですが、外側の生な具体的な現実にぶつかって、心が開き、その一回ごとに詩が生まれるというものです。ドイツの詩人のゲーテが言った言葉らしいです。すべての詩は機会詩であると。随分前に知ったのですが、今まで流してきた。でも最近はつくづくそうだと思う。頭のなかだけでイメージなり言葉をこねまわしても詩はできると思いますが、それだと、内発がない。自分のなかから一度外側へ出ていくとき、自分が割れて、言葉が生まれる。対象物が書かせてくれるのです。pp.188-189

 塚本由晴と小池昌代の対談本、『建築と言葉―日常を設計するまなざし』(河出ブックス)より、小池さんの発言。

 わたしの思う「飽きる」とは、ここでの「心が方向性を持って出て行く」にちかい。グレン・グールドはピアノにぶつかると自分が割れちゃうのかもしれません。パカッと。で、「にゃんにゃん」が生まれる。

 対象物に触れてふと、自分が放出される。我を忘れる。心が飽和し、散逸する。それがつまり、「飽きる」ということ。矢口さんの左手が宙を舞って羽ばたいてしまうように。ピアノを弾きながら、「ピアノを弾く」以上の行為が発現する。意味がショートし、ぱっくり割れて分岐する瞬間が訪れる。それが詩情の熾りでもある。

  立原道造の「傷ついて、小さい獣のやうに」、とてもいい詩ですね。どこかだだっ広いところへ放り出されてしまったあと、ひとりごちるような。幾度も呼びかける。しかし何を呼んでいるのか具体的には明示されません。「人を」「千の言葉を」という。渺茫たる呼びかけを繰り返す。全体に、なにか畏れを湛えた雰囲気があります。

 畏敬や畏怖の対象を人は直接的に名指さない。今上天皇を「徳仁」と呼ぶ人が少ないように。たぶんどんな社会にもそんな慣行があるのです。

たとえば熊の物語で、「熊」と直接示されることは決してなく、「毛むくじゃら」とか「茶色い獣」のような婉曲な言い方が使われていた。チュルイムの人々にとって、熊は恐れると同時に敬うべき神秘的な獣なのである。p.159

 K.デイヴィッド・ハリソン『亡びゆく言語を話す最後の人々』(原書房、川島満重子 訳)より。チュルイム族の叙事詩では「熊」が畏敬の対象とされています。ゆえに名指されない。ほかにわかりやすいところで、ハリーポッターの「名前を言ってはいけないあの人」なんかも、名指さないことによる「怖れ」の演出ですね。

 これってたぶん特殊なことではなく、誰にでもある。人に畏れ(怖れ)を抱かせるとき。気軽に呼べない状態。たとえばピアノを弾きながらノリノリで歌うグレン・グールドを前にして、彼を呼び止めることは可能でしょうか。わたしはできない。きっと呼んでも無視される。というか、近寄りがたい。いっちゃってる。止められない。

 こんな感覚も「畏敬」のひとつなんだと思います。そのとき、彼はもはや「グレン・グールド」ではないのかもしれません。そこにあるのは、音楽そのもの。誰にも呼ばれない。誰も呼べない。この人はいま本気で信じてしまっている。止まらない状態。野暮ったい名前なんか振り捨てて疾走する。名指しを拒むものとして、存在の様態が一時的に変質してしまう。

 人には多かれ少なかれ、そんな瞬間がある。自分を投げ出しちゃうほど信じてしまう。名前を呼んでも振り向かない。いっちゃってる。芸術家はそれを極端なかたちで見せてくれるのだと思います。

 「飽きる」って、あんがいすごい能力なのです。たぶんね。異なるものへの志向性が、そこからひらける。畏怖すべき。ちなみに「飽きる」というキーワードで、もうひとつ思い出す詩があります。

この星を愛したいとか思うたび、裏切ってね地球。
熱のように冷めるものであるべきだ、愛も希望も。
好きだったものにいつか飽きてしまうこと、
それが生きるってことだよ。
肌は老いる、瞳も老いる。夏がやってくる。
薄情な感性だ、何度だって、海に感動できる。
   
「水平線の詩」最果タヒ

 「裏切って」「飽きて」「何度だって」。

 ついでにこんな文章も。

過ぎていくすべてのもの、季節、時間、それらは手をすり抜けていく、出会えば別れがくる、知ったことを忘れていく、好きになったものに飽きてしまう、けれど、私はその先へ行ける。私は「失う」ことなどないから。最初から「自分のもの」にはできないからこそ。私はいつまでもそれらと、ともに「今」をすごすことができる、その可能性を持っている。

宇多田ヒカルがいた20年/「初恋」と「First Love」

 「自分のもの」にはできない。ここがキモなのではないか。つまり、止められない。自分自身でさえ。いってしまう。それが生きるってことだよ。

 そうなの?


 もうなんかまとまんないっす(笑)。
 あとお願いします、先輩。
 自分、今日は定時で帰ります。
 止めないでください。では!




 2020年4月5日 永田(うげ)拝




にゃん