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「ふつう」とは何か

 われわれは自分が unique one(世界の中でただ一つ)であると同時に one of them(大勢の中の一人)であることを「知って」いる。通常は前者のほうが後で、これを「唯我論的自己の発見」とし十歳前後に多いとする。後者のほうが先で、通常、「こころの理論」すなわち自分以外の人間には自分と相似たこころ(知情意)のあることの発見といわれている。だから、カトリックの新トマス学派などは「自己は他者からの贈物である」というのであろう。この二つを論理的に統合することはできない。論理的とは言語的表現によってということである。つまり、この双方は論理的に一方から他方を導き出せるものではなく、言語的に関係を表現できない。pp.260-261

中井久夫『統合失調症の有為転変』(みすず書房、2013)より。

前回の記事から自己引用しよう。

「ふつう」はつねに矛盾とともにある概念で、そこがおもしろいとわたしは思う。どこにもないようで、どこにでもある。包摂的であり、排除的である。ふつうでありたくないようで、ふつうに焦がれる。個体としてあり同時に集団としてある。そうした人間世界の一筋縄ではいかない諸相に興味がある。わたしたちは「ひとり」と「みんな」のグラデーション内で色を変える、カメレオンみたいな存在だ。

「ひとり」と「みんな」はそのまま、中井久夫の書く「unique one」と「one of them」につうじる。わたしたちはこのふたつの「論理的に統合することはできない」矛盾とともにある。

さらに追記として、こう記した。

「個体としてあり同時に集団としてある」と書いたけど、「同時に」ではないかもしれない。まず人の集まりがあって、すこし遅れて「個」が立ち上がる。「私」とはたぶん、遅れてやってくるざわめきのような、なめらかにいかないきしみのようなもの。

これは「こころの理論(one of them)」が先行し、「唯我論的自己の発見(unique one)」が十歳前後に遅れて生じる、とされている言説につながる。自分の感覚的な記述に、ひとつ裏付けが見つかったようでうれしい。とっくに考え尽くされていることを、周回遅れでゼエゼエ追っかけているだけともいえる。

「ふつう」は論理の外にある。なんだかぬらぬらした概念だ。ゆえに理屈っぽい人は「ふつう」や、それに類する「常識」「世間」「みんな」といった大雑把なくくり方に違和感を抱きがちになる。その感受性はおそらく「唯我論的自己」にもとづく。論理的な思考は第一に「個」を基点とする視座から育まれるのだろう。ロジックは孤独への導き。やり過ぎると生きづらくなる。孤独だからロジカルになるのか、ロジカルだから孤独になるのか……。たぶん、どちらの方向もありうる。




論を詰めることは、「信」をなげうつことにつながるのだと思う。「ふつう」をなげうつ、といってもいい。「ふつう」とは信心の語らいなのだ。それぞれがそれぞれに信じてやまないことを「ふつうこうだ」と語っている。そこに理屈はない。あるいは、そこに理屈の限界がある。宗教とは「理屈の外側にあるもの」と佐藤優が話していた。

さいきん岩波現代文庫に入った、永井均の『哲おじさんと学くん』にこんなくだりがある。対話形式で記述された哲学の本。引用は学くんの嘆き。

なぜ僕がここにこのように存在しているのか。いったい何のために生きているのか。そういう根本的なところが全く分からないのに、誰もそういうことは教えてくれないで、今のうちに英語をしっかり勉強しておくと将来役に立つぞ、なんてわけの分からないことばかり言われるんだから。まあ、みんなはわけが分かるらしいけどね。僕一人だけ、僕にはわけが分からない教義を信じ込んでいる異教徒の集団に紛れ込んでしまったみたいなんだ。pp.10-11

個人的に馴染み深い「わからなさ」だ。日本人として日本で生きているはずなのに、わけがわからない異文化に接している感覚。休む間もなく絶えず考えることを強いられてしまうような。

「世の中には、自分が直接感じ取った問題を自分で考えていくことができる人が驚くほど少ない(p.11)」と哲おじさんはいう。思考はまず強いられて始まるものだとわたしは感じる。集団から放たれる斥力を痛感したとき「自分で考えていくこと」がドライヴされるのではないか。「大勢の中の一人」から、決定的にはぐれてしまったとき。すくなくともわたしは、最初から自らすすんで考えはじめたわけではなかった。「僕一人だけ」という学くんの発言からも排斥感が読み取れる。

だれの目にもみえていることを、神よ、哲学者にわからせたまえ。p.169

ウィトゲンシュタイン『反哲学的断章』(丘沢静也 訳、青土社、1988)の一行。ここにも斥力の痛感がよくあらわれている。だれの目にもみえていることを知りたい。あたりまえの、ごくふつうの、みんながやりこなしていることを。そこがいちばんわからない。わたしたちはどうやって歩いて、どうやって話して、どうやって生きているのか。

人々にまみれながら、人々に織り込まれていないほころびとしての自己と格闘しつづけること。それが「自分が直接感じ取った問題を自分で考えていくこと」なのだと思う。つくろいきれないほころびをひらき、ひとりの織物を編み上げるみたいにことばを綴る。孤独な試みかもしれないが、ほころびはもともと人々の中で生じたのだから、べつべつの素材ではない。かならず人々のもとへつながるはず。と信じたい。そう、これもまた「信」の変種にほかならなかった。なげうってなど、いなかった。

キリスト教信仰が育てた誠実さが最後には神など実は存在しないことを誠実に認めることを強いた、というニーチェという哲学者の有名な言葉があるが、それが哲学なのだ。ポイントは宗教を否定するその誠実さそのものは依然として宗教的な誠実さだというところにある。哲学徒は、理のあるところにのみ従い抜くというこの信仰を決して手放さないのだ。p.18

理も信仰のひとつだと哲おじさんはいう。哲学者は理を尽くす。それを「ふつう」とする。わたしは哲学徒ではない。いや、わかんないな……。自分にとっての「ふつう」とは何なのだろう。わたしは何を信じているのだろう。




「ふつう」を探ることにはきっと、治療的な効果がある。「そうすることが救いになる」と哲おじさんは哲学について語っていた。それが彼の「ふつう」なのだ。ひとつの、差異の埋め方なのかもしれない。ふたたび中井久夫の前掲書に戻ると、治療とは「非差異化」である、とあった。

 私の考えでは、病理学は精神病理学であろうと身体病理学であろうと、差異に注目し、差異を強調する。これに対して、そもそも治療とは「非差異化」である。共通性に注目し、特異的なものを相対化し、非特異化する。おそらく、精神療法における解釈というものも、相対化、共通化、非特異化であるはずであろう。薬物療法も、療法であるからには、おそらく同じことであろう。p.237

「共通性に注目し、特異的なものを相対化し、非特異化する」。平たく言い換えると、ひとりになり過ぎた部分をみんなのもとへ接続しなおす。治療者はいわば、その連結項として機能する。連結の仕方はひとりひとりちがう。そこをつかむには、個々の生に肉迫しなければならない。

個別具体的な「ふつう」を構築する手助け。それは医者だけが為す仕事ではない。ラッパーのZORNは「洗濯物干すのもHIPHOP」とリリックに書いた。ZORNにとっての「ふつう」はそこにあり、そこにこそ「みんな」がいた。そこにしかいなかった。それがHIPHOPだった。


誰かの幸を願えたら
きっともうこれ以上はねぇんだな


ZORNがHIPHOPによって誰かの幸を願うように、医者は臨床によって、哲学者は哲学によって誰かの幸を願う。そこになにか、救いがあると信じて。日常はそうしたひとりひとりの願いでつくられている。「ひとり」と「みんな」は論理ではなく、願いや信心の飛躍によってしか接点をもちえない。


 あきらめがわたしを喰い破りそうになるとき、問いがわたしを心配そうにのぞきこむ。わからないと投げ出したくなったり、早急に答えを決め込みたくなったりしたとき、まだわからない、まだわからないよ、と問いは言う。

 そして問いは、年も所属も時代も超えて、見知らぬわたしたちをつなぎとめてもくれる。労働に疲れ、ぐったりと身体を電車の座席にあずけているとき、ふと13歳の少年の問いが目の前に立っていることに気がつく。彼とはたった一度しか会わなくても、こうして同じ月を見るように、同じ問いを考えることができる。 

 だから、たとえ問いに打ちひしがれても、それでも問いと共に生きつづけることを、わたしは哲学と呼びたい。哲学は、慣れ親しんでいる世界を粉砕し、驚きをあたえ、生を不安にさせて役目を終えるのではない。息切れをして、地上に倒れてもいい。心細くなって、頭を抱えてもいい。それでも、人々と、問いと共に生きることをやめないことだ。

水中の哲学者たち  永井玲衣


ここにも願いがある。まだわからない問いに「みんな」を見出したい。わたしもこんなものを書きながら、問いの中に「みんな」を探している気がする。誰が読むんだこれ?と、いぶかりつつ。やはり、哲学徒にちかいのかもしれない。でも、それだけではない。

音楽の中に「みんな」を探したり、写真の中に「みんな」を探したり、詩の中や、おしゃべりの中に「みんな」を探したりもする。あるいは、向かいのホーム。路地裏の窓。そんなとこにいるはずもないのに。

なんでもいい。

人間はうっかり、混同を生き抜いてしまう。
わたしはわたしを取り違える。








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