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日記707 適度に姿を消さなければ

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正しくありたい。でもぜんぜん正しくなんてなれない。その循環。あやまつ自己を視野に収めつづける。正しくあろうとする方法として。「知る」ためには、無知の自覚が不可欠であるように。すなおに「知らなかった」とおどろくこと。

わからない。保証のなさだけが、ことばを発する動機なのだと思う。疑い深い不信心な想いがことばとなってあらわれる。信じたい。でもぜんぜん信じられない。その循環だとも言える。語るたび裏切りを繰り返す。自己の度し難さを視野に収めつづけること。

信ずべきものを、信ずべくがゆえに、いかに信じていないか。個人的に信頼のおける方々の語りはみなそのようなおもむきを帯びていると思う。すくなくともわたしは、そのような人間だけが信頼に値するのだと感じる。自己をいかに解体するか。いかに意識の代謝を機能させるか。合成と分解のサイクルによって平衡をたもつ。永遠に壊れないかのようにふるまうものは、うそくさい。

言語には、成り立とうとしているけれども、同時に壊れようとしている力が含まれていて、だからこそ生きている。と、多和田葉子は書いていた。そうだ。「生きているということ」がすべての前提にあるのだった。思い出して、びっくりする。あたりまえすぎるから。でも、見落としがちな事実なのだと思う。あまりにも自明な傍らの謎。

生きているということ。

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その、生命力がこわい。

ゴキブリのキモさについて友人と何気なく話していて、ふと思った。ゴキブリはむきだしの生命力を誇示してくる。強烈に「いる」のだ。いるいるいるいる。めっちゃいる。どっかにいる。家で見つけると、気になってしょうがない。殺しても殺してもいる。意識の一部がごっそりもっていかれる。

人間の赤ちゃんも同様にこわい。あいつらも生命力のむき身だ。生まれてからしばらくはもう全力でずっと「いる」。丸出しでいる。ただただ生きている。その特有の磁場に意識のリソースをもぎとられる。もはやいないことにはできない。全存在を賭け、本気でいるのだ。

「赤ちゃんとゴキブリはその点で同じ」と乱暴に言い放つと、ぽかんとした空気になってしまった。いささか直感的に話しすぎたせいだろう。「生命力」といえば、ゴキブリと赤ちゃんの二大巨頭がまず浮かぶ。冗談めかしたが、とくに奇をてらったわけではない。

「いる」から考えるとわかりやすいかもしれない。たとえば幽霊。そのこわさも、「いる」の滲出を感じとるところから漂いだす。いる予感。いないはずが、いる。ひとたび気になりだすともうだめ。これもまた、人間が主観的に感知する生命力のひとつなのだと思う。

いる。いなくなってくれない。いつまでもいる。あなたのそばに。幽霊。います。うしろに。ほら。天井に。ベッドの下に。いま。クローゼットに。ようすをうかがいながら。床下に。壁の中に。窓の外に。じっと。こちらをまなざして。

わたしのいわんとする「生命力」がいくらか具体的に感じられただろうか。「生命力(=いる)」がこわい。むきだしの存在感。平静でいられるときは、そこまで「いる」を感じずにすごしている。

たいてい、人はいたりいなかったりする。行ったり来たりする。入ったり出たりする。見えたり見えなかったりする。「いる」と「いない」の認識が安定して寄せては返す。それが精神的な安定性にもつながる。わたしたちはふだん波のような存在として漂っている。

出会いや離別は「いる」と「いない」の均衡に揺さぶりをかける。そこからじわじわとさまざまな感情が滲みだす。いすぎても、いなくなりすぎてもつらい。いる、いない、いる、いない、いる、いない……。存在と不在の絶えざる明滅がわたくしという現象の灯を安定的にともしてくれる。

「たとえば、自分の脈を感じてみて」と友人に話した。片腕に指をあてる。これ、めっちゃキモくない?自分がいる。脈打っている。止まったら死ぬ。まだ止まらない。自動的に打ちつづく。止まってくれない。流れている。いまも。意識にのぼらないところでも。えんえんと。腕がヒクつく。胸に、心臓が「いる」。

生きている以上、鼓動はなくならない。そいつがなんだかこわい。身体じゅうにびっしり這いまわるゴキブリみたいな血流。赤ちゃんのように無防備で制御不能な、自分の身体。幽霊みたく意識の埒外で息づく、この身体がこわい。生きているということに怖気づいてしまう。

適度に姿を消さなければ。

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わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといつしよに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち その電燈は失はれ)

宮沢賢治の『春と修羅』。序より。冒頭。ここに書いてあった。ひとつの青い照明。世界は、ひかりの波のうえにあるのだと思う。あるいは、ないのだと思う。明るくなって暗くなる。朝と夜の明滅として日が移ろう。夜に向かって朝が射しこみ、朝に向かって夜がひろがる。繰り返す。わたしはそのなかにあり、目覚めに向かって見る夢と夢へ向かう目覚めの幕間を空転させている。

どこにも居付いてはいけない。こわくなる。こわいと、うごけなくなる。せはしくせはしく明滅しなければ。ときに意志をもって。ともしたら消す。消したらともす。せはしくせはしく。こんにちは。いかにもたしかに。さようなら。日常をちいさく生きて、ちいさく死ぬ。こわくないように、すこしずつ。すこしずつ。

会話中のぽかんとした空気を払拭するように書いてみた。でも、こんなの、「ぽかん」が深まっただけかもしれない。だとしたら「なんかごめん」としか言いようがない。なんかごめん。いや、いいか。「ぽかん」は「ぽかん」のままでも。そのぽかんを抱きしめてほしい。

とりあえず『春と修羅』を読もう。そっちのほうがいい。わかりやすいよ、きっと。「ゴキブリってマジキモいよね」みたいな一節もある。「G チョベリバ」って書いてた。と思う。わかんない。書いていないなら、いないでまた、ぽかんとしておけばよいと思う。




追記:赤ちゃんとゴキブリは存在感の種類がちがう、という指摘をいただいて、それもそうだなと思いました(あたりまえだ!)。強烈に「いる」、という点はおなじです。いてはいけない存在か、いなくちゃいけない存在か、のちがいだと思います。

たぶん、「いる/いない」の不安定性がこわいのだと思う。それは生死の不安定性ともいえそうです。赤ちゃんは、ほっといたら死ぬ。ゴキブリや幽霊は死んでくれない。どちらもわたしにはこわい存在です。なんとなく、シュレディンガーの猫を想起しています。

赤ちゃんは生が生として収束していない。
ゴキや幽霊は、死が死として収束してくれない。







にゃん