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宇宙のはじまりは

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宇宙のはじまりはたぶんちょっとした嘘で、それが収集のつかないところまで拡大した結果として、現在の世界があるのだろう……。などと夜中にシャワーを浴びながらぼんやり思う。陳腐な由無しごと。いかようでもありうるお話。始原の嘘が拡大しつづける。これから先も。

〈わたし〉とは、何億年もつづく巨大な嘘のうえに浮かべられたちいさな嘘だった。卑小な裸の弁明。生きることで嘘を引き受け、嘘がまた増殖する。いいわけの片棒を担ぎあいながら世界は動く。誰だよ、こんな嘘ついたやつ。お互いさま。それもそうか。

嘘の前には、なんにもなかった。
ほんとうに、なんにも。
深い深い沈黙だけがほんとうだった。

しかしあるときふとした拍子に破れた。ぽろっと。うっかり。破れた沈黙の間隙を、そらごとが一気に掠め取る。すさまじい勢いの虚誕だった。文字通りの天然ボケ。そいつがまさかこんな大事に至ろうとは。この世はそう、億単位の年月でつづく出来心。酷薄さと茶目っ気に満ちたほんの出来心に、浮かされてまわる。

つまり最初から、根源的にボケている。地球が丸くて宙に浮いているなんて、アホか。ぬかせ。嘘こけ。そんな大ボケ振られてもおもしろすぎて困る。それでも地球は動くのだって。「ええかげんにせえ」と似非関西弁でつっこむほかない。現実はボケ散らかしている。

ニヒリズムのようで暗くはない。否定的な気分のかけらもない。想像力はいつもコミカルにはたらく。いずれ死ぬんだって、なかなかのボケではないか。かましてくれる。おもしろい。やってやるよ。いずれね。見とけ。みたいなこと、わりとまじめに思っている。


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人間もじつは全員ボケボケなのだけれど、長ずるにあたってボケていないようなふりを身に着けてしまう。そのふりもまた一種のボケであることにたいていの人は気がつかない。多くの人がおなじようにボケているせいで。

というか、ケツが割れているだけでもいいボケ具合だと思う。なにこれ。頭だけやたらに毛が生えるのもおかしい。耳っていうのも変だ。なんかみんな顔の両サイドにいびつな半円がくっついている。わたしにもある。やだかわいい。

はじめに「嘘」と書き出してみたけれど、自分の感じているものをより正確に言語化すると「ボケ」にちかい。すこしつかめてきた。この世界は汲めども尽きぬボケによって構成されている。だからなにを見ても「なんでやねん」と思う。「いいかげんにしろ」と思う。ときに笑い転げ、ときに呆れ、ときに哀しみ、ときに慈しみながら……。

矢継ぎ早に放たれる宇宙開闢以来の天然ボケをいかにおもしろがることができるか。そんなふうに自分の生きる時間をとらえなおしてみたい。これもまた一種のボケだ。わたしには世界が広大無辺のボケに思えて仕方がない。それをことばに投影していく。


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ことばはたぶん、感情の巣みたいなものなのだろう……。これはスーパーでサバを手にしながら思ったことで、そのサバはもとの位置に戻した。まだサケの切り身が冷凍庫にいくつかあったから。日記なんか、まさに巣みたいだ。上記の「ボケ」も巣作りの一貫として書いた。「わたしはこんな巣に住んでおります」というモデルのひとつ。


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いつか、「あったかあったかする」と幼稚園児の甥が話していた。さむい日がくると思い出す。いまは小学生で、こんなことばもう使わないのかもしれない。レンジで牛乳をあたためるときうれしそうにはしゃいでいた映像も浮かぶ。あったかあったかする!

それ以来わたしも、「あったかあったかする」と思う。なんでも、あたたかくするとき。口では言わない。こっそり拝借した、かわいくてぬくもりのある巣の材料。素材はそのへんに転がっている。気に入ればてきとうにもらってしまう。好きなようにボケる。 







にゃん