その死にも似た、一瞬のために
写真を撮っています。相変わらず。
静かにしていたくて。
写真は静かです。
撮られたものは静かになる。
「富士山」と、ことばを添えてtwitterとinstagramに投稿しました。「海苔じゃねーか」と思って、ひとりでひとしきり笑って、おしまい。でも他人から「海苔じゃねーか」とつっこまれたら、「富士山」で通そう。誓って。あまのじゃくに。
コンビニおにぎりの海苔。はじっこが途中でこんなふうに破れちゃうの、わかります。どこの誰だか知らないけれど、わかります。ええ、わかりますとも。
写真はストレートにそのままでも、すでにしてシュルレアリスムの域にある。みたいなことを、写真家の大辻清司が書いていました。出典と正確な文言は忘れてしまった。古本屋さんで立ち読みした本。うろ覚え。でも大意は外していないと思う。
たしかに、そんな感じがします。
切り出すと現実感が薄れるような。
シュール。
そのままなのに。
そのままであるからこそ、でしょうか。
週にいちど、祖母を連れて外を歩きます。連れ出さないと家から出ようとしないから。声をかけるたびに祖母は「のろまだから、外を歩くのが恥ずかしい」といいます。歩けないわけではありません。歳を重ねて「ふつう」から逸脱した自分の身体を、許容できていないのです。
路上の見えない規範を気にしている。「ふつう」の歩く速度、「ふつう」の動線、「ふつう」の挙動、「ふつう」の足運び……。長く生きれば誰でも身体的に「ふつう」じゃいられなくなるのに、意識の上では「ふつう」を手放せずにいます。
ひとりで歩くことができない。そばに誰もいないときも、つい「ふつう」を参照してしまう。「みんな」を意識してしまう。もう「みんな」が遠のいて久しいのに、その現実を受け入れることができず、立ち上がることすらままならない。祖母は長いあいだ「ふつう」を身体の芯に据えて外を歩いていたようです。
わたしは介助者として、「ふつう」への仲介役を果たします。わたしが横につけば「みんな」への橋渡しになる。だから、外へ出られる。
ひとりで歩く。それだけのことが、なんてむずかしいのだろうと思います。自分だってそう、人のことばかりいえません。ひとりで歩いているつもりでも、絶えず「みんな」を気にかけている。おとなしく規範の内側にいます。
ただ、ふと、カメラを構えるときだけは逸脱を厭わず抜けだせる。そんな気がしています。ひとりの視野がひらける。写真は、たったひとりで歩く練習です。我とはなしに自分がひとり歩きする。瞬間、逸れる。カメラはわたしにとってたぶん、「みんな」からいち抜けるための機械なのです。その死にも似た、一瞬のために。
祖母がカルロス・ゴーンのことを「ドローンさん」といいつづけてひと月が経とうとしています。もう訂正はするまいとここに誓っておこう。
にゃん