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誰が為に言葉を紡ぐか

文章を書くのが好きだ。ずっと変わらずに好きだ。小学生よりももっと前から好きだ。

私がnoteに文章を書くのは、
私がエッセイを応募するのは、
私が文章を書くのが好きだからで、
私が自分の言葉を残しておきたいからだ。

ただ、好きだという理由だけなら、
誰かに見せる必要はなくて、一人でこっそり書き溜めておけばよくて。
そう、例えば日記帳のように。

時代の進化と変化の恩恵にあやかって、気軽に文章を全世界に公開できる環境にある。
一昔前ならお金を払ってポストに投函しても見つけてもらえなかったものが
今ではワンクリックで世界中に無条件に配信できるようになって
だから、どうしても“自分の為だけじゃないお得感”に支配されて、誰かが自由に読むことができる状況を選んでいる。

ただ、これが本当に自分の為なのか、と疑問に思う。
ひとつしかない本当に大切なものは、誰にも見せずに自分の懐に隠しておく。
少なくとも、他人に勝手に触らせたり消費させたりはしない。

例えば、戦国時代から伝わる伝家の宝刀を持っていたとして、持っていることを高らかに宣言したら盗まれたり奪われたりする可能性が高まる。でも、どうしても自分がその宝を持っているという優越感を味わいたくなったら、展覧会でも開いて誰かに見せるだろう。
ただ、展覧会を開いたとしても、伝家の宝刀は頑丈なケースにでも入れて、絶対に触れさせないと思うのだ。

私にとって好きなこと。大切なこと。大事にしたいもの。
無数にある言葉と、無限に生まれてくる感情と、どうにもならない環境を、全部紡いでひとつの文章にすることができる自分自身の脳みそ。

私が書いた文章を必ずしも世界に発信する必要はなくて、
誰でも簡単にコピーアンドペーストできる場所に気安く置いておく必要はなくて、
誰かに勝手に読まれて、勝手に批判されて、勝手に評価されて、勝手に消費される必要もなくて、

日記帳のように隠すこともせずに、
ポストに投函して誰かに見つかる僅かな可能性に賭けることもせずに、
自分が自分の大切なものを蔑ろにしているような気がする。

それでも、私はこの方法しかできない。わからない。
ワンクリックで全てが完結するのが当たり前の時代に生きてるというよりも、
ワンクリックで完結できない不便さを当たり前のように蔑んでいるから、
いわゆる“タイパ(=タイムパフォーマンス)”がいいこの方法を選んでいる。選ばされている。いや、選んでいる。

もったいないと思う。
同時に、
だったらその“タイパ”の良さを逆手にとってどこまでも消費され尽くしてやろう
とも思う。

このシステムの歯車にのって、
どうにもならない承認欲求を満たすのに使ってやろう。
どこに出しても嫌がられる自己顕示欲の捌け口にしてやろう。
そんな方向性で消費尽くされてやろう。
なんて、一人虚しくのたうち回ってみたりする。

どうせいつまでもいつまでも紡ぎ続けていくことに変わりはなくて、
これからの未来で、ワンクリックよりもっと簡単な方法が出てきたとしても、
あらゆる思想や言論に検閲がかけられてだとしても、
私が、私自身の為に言葉と感情と環境を紡いで糸を作り続けることに変わりはないのだから。

誰が為に言葉を紡ぐか。
自分自身のため。
それは時間を越えて、すべての私自身のため。
だけど時々、
空間を越えた、目に見えない誰かの為。

そんなもんでいいのかなと、気楽に、だけど寂しく、いつもこの結論に辿り着く。


最近の体調不良は強敵で、
立っていても座っていても横になっていても、今この瞬間も、めまいと吐き気と手足の震えが止まらない。
本当は眠りたいけれど、弟の為ならと料理をする。
比較的元気な時でも自分の為に食事を作ることも、食べることもできないくせに、
どんなに体調が悪くても、他人の為ならいくらでも動き回ることができる。
生きることも自分の為より他人の為だと思うくせに、
文章だけは自分の為に書いている。

私の朝ごはん。言葉と感情と環境。
それらを食べ散らかして、自分の存在を刻印するの。
なんて言ってたら怒られるかな。

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