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陳腐な一夏に(最終週)

 もう読めなかった。涙で視界が完全にぼやけてしまっていた。それに出ようと思っていた時間が来てしまっていた。僕は栞を元の場所に寝かせて図鑑を閉じ、自室に走って本棚に戻した。それから外へ出る準備をさっと済ませた。玄関から出る前に、半分ほど残したままの茶を思い出しリビングに戻る。湯飲みを半ば乱暴に持ち上げ再びぐいっとして飲み切った。結局一滴もまともに味わうことがなかったが、そんなことはどうでもよかった。

 外に出ると先ほどまで少ししか顔を覗かせていなかった空が清々しい青色をして一面に広がっていた。夏が降りに差し掛かっていたとは言え三時前だとまだかなり暑い。汗をにじませながら一歩一歩を確かに踏んでいる。暫く歩を進め顔を上げると神社に続く小道がもう近くにあった。坂になっているその小道を、負けないように力強く踏みしめて登っていく。登り切ると境内まですぐなのだが、その始めに階段がある。待ち合わせの時、彼はいつもここの二段目にいた。また登る。

 へとへとになって階段を登り終えると、神主が既に掃除を始めていた。昨日もここを登ったのか。信じられないような気がしたが確かに昨日も登ったんだ。神主にあやとりのお礼を伝えた。
「あぁ、それね。もう何年も前に掃除中に草むらから拾って、またポイ捨てかと思ったんだけど、何か大事なもののように感じたからずっとしまっていたんだ。昨日君が久しぶりに来た時に、あぁそういえば君はよくあれで遊んでいたと思い出してね。いやぁ懐かしいよ」

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 あれはもう七年前程の夏だったか。夏休み中、毎日のように神社に来て遊んでいた。たまに三、四人になることもあったが、大抵は僕とカズトの二人で遊んでいた。僕が畑仕事を、彼が家の本屋の整理を、それぞれ手伝いに行く土曜日、互いに両親と過ごすことの多かった日曜日、それらを除けば殆ど毎日遊んでいた。たまにカズトの本屋で夏休みの宿題を進めることもあった。

 その日は毎週のように遊ぶのを待ち遠しく思っていた月曜日、その最後の日だった。前の金曜日には何故か来ず、諦めて帰ったため三日ぶりだったからいつにも増して楽しみだった。だけれどその日も来なかった。神社に来た足のままカズトの家に向かいインターホンを鳴らしたが返事が無く、しぶしぶ家に帰りリビングに入ると、父が少深刻な様子で僕の方を見て言った。
「カズト君、入院だそうだ…白血病…」
僕はその病気がどれだけ危篤のことなのかよくわかっていなかった。遊べなくなるのは悲しかったが、そういえば先週少し調子が悪そうだったななどと思っていた。けれども父の尋常じゃない様子に事の大きさを感じつつあった。昨日から入院しているらしく、ついさっき彼の両親から連絡があったということだった。

 次の日、父の運転する車に乗せられてカズトのいる病院へと向かった。初めて見る大きな病院に圧倒されながら入り、カズトの部屋に見舞いに行った。彼は先週あった時と殆ど変わらない、だけれど少し弱々しい笑顔で僕を迎えてくれた。

 その時に何を話したのかはもう殆ど覚えていない。彼の僕を心配させまいという様子だけが印象に残っている。それだけ僕が不安を感じていたということなのだろうか。でもその不安は杞憂の結果ではなかった。

 発覚した時にはもうかなり進行していたようで、見舞いに行く度に彼は弱っていった。両親が持ってきてくれる本を読むのにも疲れやすくなったようで、僕が入ってきたときに何もせず外を見ていることも多くなった。僕は何か遊んだりするのに欲しいものは無いかときいた。
「ついこの前まで流行ってた、あの、そう、あやとり。あやとりを持ってきて欲しいな。おまえと一緒に遊べるし一人でも出来る」

 その次の見舞いからあやとりで遊ぶようになった。疲れて新しいのを覚える気が起きないらしく、学校でやっていたやり方しかしなかったが、土産話を聞かせながら同じことを繰り返しているだけだったがいつも楽しかった。ある日には土産話と共に出かける前に見つけた紫の花を摘んで持って行った。その日は頑張って一緒に図鑑を見て花の名前を調べた。彼は紫苑の花を喜んで受け取り暫く窓際に飾っていた。

 ところがそんな日々も長くは続かずカズトはみるみる弱ってゆき、再び学校が始まって日曜日に来た時には僕が来ても寝たきりになっていることが多くなった。寂しい思いをしながら置手紙をしていくことが殆どになってゆく。焦る僕と裏腹にカズトは穏やかな顔を、しかし苦痛に耐え忍んでやつれていた顔をして寝ている。そんな見舞いが続いていたある日、学校から帰ってきた僕は父に彼が息を引き取ったことを聞いた。子どもながらもうわかっていた。わかってはいたけれど、こんなにもあっけなく、最後の会話ももういつだったかわからないような別れをしてしまったことは、まだ幼い少年の心に、運命の無情さを刻み込んだ。悲しさと悔しさでその日は夜まで、そして次の日の朝まで、眠れもせず泣いて過ごした。

 葬式の時も泣いていた。悔しいのと、少しカズトを恨めしく思った。なんで死ぬんだよ。何度も遺影を前にして思っていつ叫んでもおかしくなかった。けれどじっと堪えて座っていた。成人までの道を折り返した少年の意地っ張りだった。葬式の後、カズトの両親に彼が大事にしていた植物図鑑といつか渡した紫苑の栞をカズトがあなたに、と、それからあやとりをあなたのものだったから、と渡された。栞は彼が作ったものの中で一番上手な出来だった。父に手伝ってもらったものではないということは何故だかわからないが確信できた。

 次の日曜日、久しぶりに神社に来て、一人で座り込んで遊んでいた。悲しみを紛らわせるのにそうする以外のやり方を知らなかった。普通なら影が自分の二、三倍くらいに伸びている時間、木々草花神社自分全ての影を飲み込んでしまう程の黒い影を落とした雲、夕立が始まった。大雨にまで悔しさ恨めしさで苛立った。「なんなんだよ」。自棄になってあやとりを雑草に投げ捨ててそのまましゃがんで泣いてしまった。外を伺いに来た神主に見つかり、いいから来なさいと雨宿りさせられ、タオルをかけられたが何も喋る気にはならなかった。
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 こうやって掃除を手伝いに来ているのはあの時の恩返しもあるのだろう。小学校はまだ夏休みだそうで下校中の子を見ることはなかったが、境内で駆けて遊んでいる子は数人いて、当時の自分を重ね合わせながら掃除を続けたりポイ捨てを摘発したりしている。一時間ほどそうしたら、神主が「今日もありがとうね」と言って神社に戻っていった。僕は境内で一番大きな木に箒を立てかけて、次の場所に向かった。

 この神社に向かって左に進んでいくと、これまた長い階段があり、そこを降りると墓地が広がっている。田舎に住む僕たちは、死ぬと一族の墓に葬られることになっている。一度我が家とカズトの両親とで来たことがあるからなんとなくカズトのいる場所はわかる。その前に来ると「やっと来てくれたな」という声が聞こえた、気がした。「あぁ、来たよ」と答えて、僕はあやとりを自分の両手にかけて差し出した。



 時々カズトに会いに行ったり両親の本屋で小説をあさったりしている日々の中で、小学校は始まり、虫の鳴き声が変わり、世間では秋に本格的に入るころ、僕はようやく夏を終えつつあった。もう来週には秋が始まる。明後日向こうに戻る僕はパッキングをしていた。衣替えとパソコン、秋からも使う教科書に加えて植物図鑑もいれた。その前に栞を取り出しておいた。

 二日後、夏を終わらせに地元を発った。新幹線の出る駅に着いたとき、僕は教授から勧められた小説の今読んでいたところに紫苑の栞を挟み込んだ。

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