140字への依存からの脱却
私は自分の思いや考えを文字に起こすのが好きだ。
文字に起こすことによって頭の中が整理され、そしてそれを客観的に見る・読むことでさらに自分自身への理解が深まるような気がするから。
あとこの歳になると、なんとなく良いこと言いたい欲がむくむくしてきて、ちょっとでも良い言い回し(当社比)が出来た日にゃ1日に何回も自分が書いた文章を読み返してはニヤニヤする、という謎の行動をし始めるが、そんな時間が好きだったりする。
noteのように文章にすることも好きだけど、Twitterのようにぺぺっと吐き出すのも好き。基本的にフォロワーにはリアルの友達しかいない鍵垢なので、日常に起こった面白いことや常日頃考えていたことをツイートするのだけど、バズろうとかいう気持ちはなく(鍵垢なのでバズらないしまずバズれない)、あわよくば、私のツイートを見た友達が共感してくれたりクスッとしてくれればいいなくらいの感覚でいた。
そして良くも悪くも、Twitterを見れば私の考えていることが大体わかる。Twitterに絶大なる信頼を寄せている訳ではないけど、特に深く考えず自分の感情をツイートする。Twitterは私の鏡なんじゃないかなと思うくらい、「私」を表していた。
いつの間にか他人にもそれを求めていたのかもしれない。うまく言えないのだけど、その人の感情の正解を知るためにTwitterを覗くようになっている自分に気付いてしまった。Twitterが全てではないと頭ではわかっていても、正解を求めてTwitterを見る。私には何も関係のないことがツイートされていると安心し、逆になんのツイートもないと不安になり、無駄に深読みしてしまうこともある。あんな小さな画面の中のたった140字が、私の中ではとても大きな意味を持っていた。人間関係の怠惰だと私は思った。私が向き合っているのはTwitterではなく人なのだ。こんなSNSに縛られて何が友達だ。
そう思った私は、アカウントを削除した。
そしてしばらくして、無性に不安になった。
恐れていたことだった。人間関係なんて漠然としたものの正解を常日頃Twitterに求めていたのだ。あの時のあの言動の答え合わせをしたくても今私にはTwitterがない。答え合わせが出来ないから不安になる。あの時の自分は「正解」だったのか「不正解」だったのか。私は人の気持ちを推し量る能力を退化させてしまっていた。
小さな画面の中のたった140字が一体私と相手の何になるというのだ。SNSに縛られている自分がちっぽけで情けなくて、さみしかった。「離れて改めて気付く」というのもなんだか少しださく感じた。人間関係を蔑ろにしてきたつもりはないけど、SNSに頼って縛られていたのも事実で。
こう言えばこの人はこう思うかな。
あの人は今こんな気持ちかな。
そういう風に想像する力が大事で、相手が発信した表に出しているだけの数文字を鵜呑みにしていてもダメなんだな。こんな当たり前のことに改めて気付いた30歳の夏。
そしてこのままTwitterなくても大丈夫かなと思い始めたつい先日、アカウントを削除していたことが友達にバレた。バレたというのもおかしいけど。
なんで消しちゃったの?楽しみに見てたのに!
そんな嬉しいことを言ってくれたもんだから、私はTwitterの「受け止め方」を間違えていたけれど、発信することに関してはそれなりだったかな?と思えた。
実際ツイートすること自体は好きだし、日々の情報をTwitterから得ていた部分もあるし、、なーんてもっともらしい言い訳を盾にして、近いうちにちゃっかりアカウント復活させているかも(めっちゃちょろい)。どちらにしてももっとナチュラルにポジティブに受け止められたら今よりも少しは上手に使えるかな。頼り過ぎず依存し過ぎず、ほどよい距離感で。
SNSは用法用量を守って正しくお使いください。
ということで。
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