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【第2回】トランプ対談(草場純✕秋山真琴)

読者の皆さん、こんにちは。秋山です。

本記事は『アナログゲームマガジン』で連載中の『トランプ対談』の第2回となります。第1回の続きとなりますので、本記事を先に発見された方は、ぜひ第1回からお読みください。

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「オリジナルは存在するのか?」

草場 うん。で、そうであると同時にもう一つ面白い側面があると思うんですよ。なぜあのボードゲームに名前を書くか? っていう話ですね。それも最初は何も書いてなかったのが、デザイナーが書かれ、そのうちにイラストレーターが書かれ、アートワーク者が書かれ、それこそデベロッパー、テストプレーヤーまで書かれる。そういうこと自身は現在、著作権というか、著作意識っていうものの流れ、あるいはゲームを文化として評価するっていう流れからして、当然なんだけれども、当然いいことだと思うんですけども、まあ本当にそうかなっていうのはね。いつも私は思っちゃうんですよ。て言うのは、なんでそういうことするかっていうとそのボードゲームを売るんですよ。つまり、いろんな名前が書かれたあのコンポーネントね、ルールセットがありボードがあり、駒があり、カードがありみたいな箱に入ったものを売るんですよ。だから買う人はそういうものを期待して買う。だから商品なんですよね? みんなで作る商品の責任者、最高責任者とか、中心になる責任者がデザイナーです。でね、トランプゲームってね、売らないんですよ。だってトランプはもうみんな持ってるんだもん。あるいはまあ、買っても百円なんだ。そうするとね、トランプゲームのデザインって、まあ、トランプゲームのデザイナーがいるかどうかわからないですけど、トランプゲームのデザインって何やってんだろうって話。だって売る物を作ってないんですよね?

秋山 ルールそれ自体が売り物なのではないでしょうか

草場 まあ売り物って言えば売り物だけど売れますかね? 私はね、元々著作権っていう考え方は商品経済にはなじまないと思ってるんですよ。つまり私はこんな事をここで言っちゃうとあれかもしれないけど、著作権なんてなくていいんじゃないか。まあ、著作者人格権だけはあってもいいと思うんだけど。なぜかと言うと、本当に私が創造したと言えるものってどのぐらいあるかって話ですよね。とにかく全員が、全員の作ったものを利用しているだけであって、それはもう全員がお互いさま。まあ、中には凄く才能があってね。飛び抜けたもの作る人がいるから、そういうのリスペクトってのはわからないではないんだけど、でもまあ、そういう人だってね、それ以前に多くの人がいてこそね。だいたい、母親、父親からその言語を倣って覚えてってということから考えるとね、どこが創作かっていうか、創作と言えるものが存在するのかしらと思っちゃうわけです。あらゆるものが創作とも言える。逆に言えばね。そうするとですね、貨幣で量れる商品経済や資本主義っていうのが、そのような創作とは馴染まないんじゃないかと思うのです。今、著作権法が色々問題になるっていうか話題になるじゃないですか。それというのは著作権法っていうのはね、もともと無理なことしてるんですよね。人類が共有してきて、これからも共有すべきと思われる人間の創造物みたいなものに、どうやって権利を与えるかみたいな話をしてるわけでしょ? だから要するに土台無理なことしてるんですよ。だから著作権て難しいんですよ。解釈がいろいろ議論になる。どれが正しいかよくわからない。まあ、なんとなく合意でやってるわけですけど。だから本質的にはまあ無理なんじゃないかと思ったんですね。ということは、創造とは何かに関わり、文化とは何かに関わるんだけど、文化総体として人類の幸せのために創造をしていけば、それでいいのではないかと思うのです。それは、どっかで戦争やってますけど、あれと正反対の営為じゃないかと私は思うのでね。はい。だから著作権っていうのが、創造したデザイナーを食わせるためと言っちゃうと何だけど、称えるためというか、そういうふうに機能するべきだっていうのは、まあ充分わかるんだけれども、しかし果たしてそういうもんかなってのは、ちょっと思いますね。

秋山 著作権に関しては不案内なので分かりませんが、オリジナリティという観点で考えますと、真のオリジナルとは何か? という問い掛けは、アートの世界では、よく出てくる問題です。たとえばダ・ヴィンチの『モナリザの微笑』を模倣した作品。もちろん本物そっくりに描いたものはオリジナルではありませんが、『モナリザの微笑』をドット絵で描いたものはオリジナルと言えるのでしょうか。確かに、ドット絵という手法を採用するというアイディアには、オリジナリティがあると言えるかもしれませんが、描いているのは『モナリザの微笑』に他なりません。同じようなことはボードゲームの世界でもよく見られます。模倣のレベルを「カードを用いている」ですとか「コマを用いている」まで下げてしまうと、ほとんどのボードゲームはオリジナリティを失ってしまいますが……最近のゲームだとドナルド・X・ヴァッカリーノの『ドミニオン』に見られるデッキ構築は、オリジナリティの度合いが高いと言えます。後は、先ほど話に出た『大貧民』の貢ぎ物も飛び抜けたオリジナリティを感じます。

草場 うん。まあ、でもそれは考えた人がすごく頑張って努力して作り上げたかっていうと、必ずしもそんなことないんだよね。で多くの物が偶然産まれるんじゃないかと思う。例えば一番極端な例は、マジックザギャザリングですけれども。マジックザギャザリングいうのはその何て言うんですか? あのドミニオンよりさらに前にそのデッキ構築っていうアイディアを最初に入れたものだと思うんですね。で、それまでっていうのは、プレイヤーが使うカードっていうのはみんな公平であるのが当たり前だったわけで、これに誰も疑いを持たなかったんですけども、それを最初から違うデッキでやろうっていうのは、やっぱり飛び抜けたアイディアだと思うんですよ。ゲームを作ることを超えて、ジャンルを創ったんだから。でも、あれはあの誰だっけ? ガーフィールドか? うん、これは良いアイデアだって考えたんじゃなくて、まあ経営的な都合で考えたんじゃないかっていうのがね。あんまり、大きい声で言うと、これ物議を醸して、炎上案件かもしれないけど、決してあれね、あのガーフィールドがね、最初から意図してできたんじゃないと思うんだよね。やってみたらそうなっちゃって、要するにカードを作る方ではなく使う方でバランスを勝手に取り出したので、あー、これはすごいことになったっていうふうなもんじゃねーかと私は思ってるんですよね。だから何が言いたいかっていうと、飛び抜けたアイディアとは一体何かっていうのもよく分からないんですよね。だから、小説家みたいにね。あの刻苦勉励して長編小説書きましたってなったとき、その長編小説全部をコピーして私の作品ですって、ほかの人が主張したらこれは問題だと思うんでね。その努力はやっぱり報われなきゃいけないのは確かなのだけども、でも必死に努力して駄作を書く人と、ぱぱっと思いついて傑作を書く人がいるわけで、必ずしも努力で測れないわけですよ。

秋山 リチャード・ガーフィールドが『マジック:ザ・ギャザリング』を発表する以前にも、いわゆるTCG(トレーディングカードゲーム)のような作品はあったのでしょうか?

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