一度きりの、冬の海岸
もう二十年以上も前の、旅先での一枚。
いまは販売されていない、使い捨てのインスタントカメラで撮ったのだと思う。
場所は、フランス北西部の海岸。
主演のアヌーク・エーメの声が好きで、もう何度観たのかわからない、クロード・ルルーシュの『男と女』。それに、プルーストやマルグリット・デュラスの作品の影響で、フランス、ノルマンディーの海岸をいちど見てみたい、と思っていた。
そして大学生のとき、ひとり、慣れない列車を乗り継ぎ、たどり着いた。
寒い時期に訪れたせいか、幻、と思うくらいに海岸には誰もいなくて。
雨がいまにもふりだしそうだったからか、映画のイメージそのままのセピアカラーで。
現実はときどき、夢かどうか区別できないほどの景色を見せてくれるんだなあ……と思いながら、日が暮れるまで、ただ、砂浜を歩いた。
もう二十年以上もたつのに、その一日のことはまだ覚えている。
前もってホテルを予約していなかったのは、その海岸がほんとうにあるのかどうか、決めつけたくなかったからかもしれない。
ふだんの旅のように先に何かを決めたくはなかった。そのときの自分の気持ちを大切にしたかった。
だいぶ暗くなってから海岸の近くに、雰囲気のよさそうな小さなホテルをみつけると、笑顔の優しいマダムが迎えてくれた。
前日も泊まっていた人に話すように、その通りでおいしいパン屋のクロワッサンのことなどを教えてくれた。
荷物を置いてから夕食をとるために入った近くのカフェの、アールデコ調の乳白色のガラスの扉。植物をかたどったレリーフのきれいな曲線が、座った席からも見え、ずっと幸福だったこと。
それはたぶん、これからも、覚えている。
ふたたびこの町を訪れることは、ないかもしれない。
もし訪れても、この場所にはたどり着けないだろう。
一枚の写真のなかにしかない海岸。
そこを歩いていたはずのわたし自身もまた、見えないほど遠くに行ってしまった。