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詩集から離れる花びら

 四冊の詩集を編んできて。
 いくつかの媒体に書いたものの詩集には入れないまま、という作品もそれなりにある、と気づく。
 それらは、一冊の詩集の方向性や書き方に合わなかったためか、類似した他の作品があったため、あるいは、習作レベルだったために採用しなかったもの。

 それでも見直すと、それなりに自分の気質が濃く表れていたり、親しみを感じる作品も少しはある。
 たとえば、このnoteにも収めた「ペルピニャン発」という作品。
 この作品をきっかけにわたしの詩集をご購入くださった方や、これが詩集に入っていなくて残念、とおっしゃる方もいた。
 この一作は第四詩集に入れるかどうか迷ったのだけれど、詩集収録の作品群よりも明るめのトーンだったから外した(編集のFさんも同意見だった)。

 旅に出たときの昂揚感のせいか、詩のなかの語り手の「わたし」よりも、書き手自身である「わたし」の気質がいつもより濃く出ているかもしれない(だから他の作品と合わなかったのかも……)。

 そしてもう一篇。「花びらと」というほんの小さな詩。
 これも詩集には載せていないが、発表時には、藤原安紀子さんが「現代詩手帖」の詩誌月評(2017年10月号)で全文を挙げて丁寧にご紹介くださった。
 また、白井明大さんも御著書『一日の言葉、一生の言葉』(草思社)の「飛花(ひか)」という項目で、この詩をやはり引用しつつ、作品の核にあるものに的確に触れてくださった。

 お二人は、詩誌に発表したのみの小さな作品を拾いあげ、それぞれに深くお読みくださった。優れた書き手であり読み手たちの、こういう丁寧な仕事を目にするたびに、わたしもどこかに埋もれている小さな作品の囁きに反応できる目と耳を持ちたい……と願う。

 わたしは、日常で無自覚に用いている言葉の組み合わせではなかなか表せない、生き物や言葉自体の微細な音や気配や温度を、詩のなかでは、できるだけ掬いたいと思っている。
 たとえば、ふだんは青、赤、黄、黒、白……と数種程度にしか見えていない色を、粗く分ける大雑把な言葉で表して終わり、にしたくはない。
 より繊細なグラデーションか、それでも分けられない色、音、香り、温度、手触りを掬いとれる言葉をいつか、持ちたいと思う。
 それがわたしが詩を続ける理由の一つ、だとも、感じているからだ。

 作品「花びらと」は、「そういえば、花びらが落ちる音をこれまで聞いたことがないし、落ちる瞬間も見たことがないな……」とふと思い、書きはじめた詩だ。
 聞こえない、見えない、触れられない。だから、言葉は動く。

 見えているものや、自己の主張を粗い言葉で声高に伝え、それでも人に伝わらないとがっかりする。そんな書き手の身勝手な思いの循環から、言葉自体の気持ちは、自然と離れていくはずだ。
 誰にも見られずに、聞かれずに、そっと落ち、自由に風にのるときのように。
 そんな見えない花びらのあとを、わたしはこれからも辿ってみたい、と思う。

 詩集という一つの集まりから離れた小さな花びらを、ここにも記しておきます。
 詩「花びらと」。


花びらと

食卓に
花びらが落ちている
ちる音を
いちども聞かないうちに
また夜になり
アパートの
隣の部屋では
泣きやまない子どもをあやすひとが
こちらに聞こえないように
小さく うたをうたっている

遠い病棟にいる
わたしの赤ん坊も
眠ろうとしているだろうか

夢のなかでだけ
きつく抱かれ
音をたてることができた まだ温かい
花影に
わたしも いつか
小さなうたを
教えよう

雪のいちばんきれいな場所を
決して踏まないような
泣きかたで

目覚めると
花びらが落ちている

ひらく音にさえ
いちども
気づかないうちに






初出:詩誌「孔雀船」90号