[詩] 水しるべ

濡れた木陰に
雨雲の疱瘡のように浮かぶ
うすあおい花の球体を
たよりない明かりとして
神楽坂から路地を渡る

いくつ角を折れても
駅前の堀の水の匂いが
坂のしたから追いかけてきて
たった今改札で離れたひとの
体温の湿りを運んできてしまう

梅雨のあいだ
何度か落ち合った部屋の
階段裏の暗がりにも
あじさいが咲いていた

雨のたびに花のおもてには
甘い歯痛のような波紋が響き
わたしは
淀んだ堀にそっと声を浸すように
いつも小さな水滴に震えながら
名前を呼んだ

目を瞑ったまま皮膚で知る
畳を天井をゆする水と花の照り返し
あなたが目を浸した洗面器に
かた耳をつけると
ちりかかる花びらのような
まあるい和音
ふたりのどちらかが
少しでも深く息を吸うと
紙の花のように
すぐに雨に溶けてしまう

わたしたちの梅雨の住処は
夏虫の軽い羽根ほどに
壊れやすい一片の織物
見知らぬ人たちの漕ぐ
明るい櫂の音にもおびえ
ひと夏さえ耐えることができず
花びらとともにほつれていった

路上にちった花を
ひとひらひとひら、針ですくい
花輪を編むように
かさねあい浸しあう
手のひらとひらのあいだを
流れていた熱に
いくら耳を澄まそうとしても
それは水が機織る
空耳でしかなく
線路沿いの花の明かりに
手をひかれて帰っていった
あなたの遠いからだは
四季の唯一のほころびである
この梅雨のように不確かに
空や木々の間をうつろいだし
もうわたしには
見つけることができない

長雨に湿り続け
少しずつくるいはじめている
時計の針をそのままにして
わたしは
花の列が尽きる
街の終わりまでのぼっていく


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※峯澤典子『水版画』(2008年/ふらんす堂)より