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詩の日誌「抽斗の貝殻のように」11

「ひとつの指輪のこと」
 
 ふだんは指輪をつけていない。人の家やレストランの洗面台によく置き忘れてしまうから。
 そのかわり、ここぞ、というときには身につける。
 初対面の人と会う。打ち合わせをする。遠出をする。そんな朝に。
 よりひかりを集めるために、もしくは、もっとも強いひかりを選ぶために研磨された石を、ひと粒、指にのせる。それは願をかけたり、護符を忍ばせるしぐさに近い。
 
 十代の終わりに読み、まだ覚えている「指輪」の歌がある。
 穂村弘の歌集『シンジケート』の一首。
 
抜き取った指輪孔雀になげうって「お食べそいつがおまえの餌よ」
 
 このような言葉の使い方があるということと同時に、このような指輪の使い方があることが新鮮だった。
 孔雀の羽と指輪の輝きが言葉のなかで打ち消しあうほどに反射しあう、その一瞬に人の感情の高まりとともに燃え尽きてしまう。この瞬発力。
 日常の道具としてではなく、こんな別れや転調のために、指輪と、指輪という言葉を使えたら……と憧れた。
 
 小さな石は内側に、ひとつの広大な空間を持つ。
 たとえば、ラピスラズリなら、漆黒の闇と星々。ルビーには、真冬の焚火ほどに澄んだ炎。エメラルドには、深い森の静寂。
 そしてアクアマリンには、ひと気のない早朝の海の波音が沈んでいる。
 
 混んだ電車のつり革につかまり、改札を抜けるとき、殺風景な会議室のテーブルでメモを取りはじめるとき。指のうえのほんの小さな瞬きがちらっと目に入る。
 それはわたしだけの星々や炎や森、海。誰にも気づかれない、けれど何よりも気持ちを変えてくれる、うつくしい転調の空間だ。
 一日はそんな一点のささやかな喜びがあれば、乗り切れる。
 
 遠い冬の夜の、打ち合わせの帰り道。表参道駅近くのビルの一階で、わたしは指輪を買ったことがある。
 信号待ちのあいだに、暖かそうな店先をなにげなく覗いただけだったが、丸い水滴のかたちにカットされたアクアマリンがすぐに目に入った。
 
 「海の水」という意味のラテン語を語源に持つ石は、わたしの誕生石であり、底まで明るく透きとおる水の色を眺めていると、昔から気持ちが落ちついた。
 
 二十代の頃、わたしは詩を書きたいといつも願っていた。それが一番叶えたいことだった。それなのに深夜に帰宅すれば、パソコンを立ち上げる気力もなく寝てしまう。
 そんなくり返しのなかに、一点でもいい、決別や転調を作りたくて、指輪を買った。
 どんなに眠くても、詩を書いてみよう……と思った。
 
 人でも、本でも、仕事でも、出会うべきものとはかならず出会い、出会わなくてもいいものとは、無理に求めても一生出会えない、とわたしは思っている。
 縁があれば、時間がかかっても、きっとめぐり逢えるし、関係は深まる。わたしの詩も、詩作も、日常も、その一点の運命のような願いに、いつも支えられている。
 
 詩を書きたい、というひとつの願いを、ひとつの指輪に告げてから二十年後。
 わたしは、その指輪を買ったビルの上階で開催された詩の教室で、講師をつとめた。
 表参道の夜景を眺められる部屋には、かつての自分のように、一日の終わりにそれでも詩を書こうと思う人たちが集まってきていた。
 
 わたしは、アクアマリンの指輪を身につけていた。
 そして、ここぞ、というときに、頼りになる護符にふれるように、誰にも聞こえない声でつぶやいた。
 
「あなたと出会ったこの場所に戻ってきたよ。わたしはいまも、まだ、詩を書いているよ」
 
 




詩の日誌「抽斗の貝殻のように」12

「うれしくて、かなしくて、とてもいい気分」