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杉本 徹『ルウ、ルウ』(思潮社)書評「未来の夕映えに吊る薄青い、永遠」

  明けかかる空を思わせる青い衣をまとった一冊の詩集。そのやさしい青につつまれたページに刻まれているのは、ある街の散策の記録だろうか。いや、これは往路しか持たない、「漂流」とも呼べることばの流れだ。

 「東京」という都市の路地や雑踏の風景に浸食されながら、すれ違う対象へと近づき、過ぎてゆく時間の流れに身をゆだねつづけるひとの、かけがえのない生の記憶とも言い換えられるはずの。

 語り手のやわらかく流れる身体は、街の片隅で出会う植物や小さな生き物の、あるいは、はるかな水辺や天体の、どんなに幽かな音や光さえも受け取ってしまう。


(そうだ虫の寝息に揺れ、揺られ、……都電荒川線、線路脇の叢ごと靡いた電信柱の影、家並みの隙では雨樋たちが、まだ見ぬ海のことなど、またたかせて、

「神楽坂の記憶を」より

と記されるように。

 こうした鋭利な感応性は、詩行に美しさをもたらすだけでなく、ひとが生きることの苛酷さをも呼びこむ源となる。消滅したものの、もしくはこれから失われるものの痕跡や残像や輪郭を、みずからの「心の、静脈」(「舟の言葉」)にふかく刻みつけてしまうのだから。

 それでも、そのひとは「どこまでも、行こう、とした。」(「神楽坂の記憶を」)。
 そして、居場所を風に伝えるように、「未来の夕映え」に「薄青い、ほそい歌を吊る。」(「ルウ、ルウ」)。その歌もまた流れ、消えてしまうことを覚悟しながら。

 いくつかの詩篇には、ほのかな光源(薄陽、薄明、薄闇、夕闇、ときには暁闇とも記される)が漂い、ときおり、実在の街や場所の名が、点滅するように現れる。

 たとえば、月島、隅田川、明石町、神楽坂などの、水の匂いのする場所(高層ビルの並ぶ、新宿や渋谷にさえ、現在は暗渠化された渋谷川の気配を重ねられるだろう)。または、赤城神社、氷川神社、神宮前、雑司ヶ谷といった、「参道」を連想させる場所。

 水の流れも参道も、見慣れた陸地の喧騒を切断し、新たな土地や時空へと人を誘う境界である。木々や風、空や星々の囁きを掬って流れる詩行のなかでは、場所の名も、単なる現実の呼称ではなく、そうした境界を呼びこむ「時間の/黒くまぶしい裂け目」(「十夜の、晴れ間」)として瞬きはじめる。このような「裂け目」が、詩集のそこかしこに息づいている。

 過去、現在、未来、と一方向へ進むはずの生命の時間。しかし、この詩集の時間はそのようには流れていない。

 たとえば「神楽坂の記憶を」と題された一篇には、その本文よりも小さな文字で別の詩篇がふいに挿入されている。つまり、ある「記憶」の「裂け目」に、複数の時間の音と光が、流れこむ構造になっている。

  幾重もの時間の響きあいは、詩行の内部にも潜んでいる。表題作「ルウ、ルウ」で、語り手は、外苑西通りに抜け、都営の集合住宅へと辿りつく。

 そこには「ぎいと軋んだ、古い郵便受けと/まだ真新しい赤い自転車、鬱蒼と花のない紫陽花」があるのだが、「これらを/たしかに眼にしたのは/きっと未来の夕映えのなか」だという。

 ここで、「たしかに眼にした」という過去形は、まだ見ぬ未来の出来事にすり替わる。記憶は予兆になり、予兆は記憶になる。

 そんな時間のなかでは、夕映えもまた、暮れながら同時に明けてゆく光景であるように思えてくる。日常の時間の制約を超えた明るみの先にあるのは、永遠、だろうか。だとすれば、「未来の夕映え」に吊る、わたしの「薄青い、ほそい歌」も、いつまでも、消えない。

ルウ、ルウ』。それは、ある永遠へと向かって流れる、終わりのない歌なのかもしれない。

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杉本徹さんの第三詩集『ルウ、ルウ』(思潮社)の詳細は→こちら

※この書評は「現代詩手帖」2014年8月号に掲載。noteに載せるにあたり改行位置などに修正を加えました。