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文楽「阿古屋琴責め」の魅力

 捕らえられ裁判にかけられた美しい傾城が、身の潔白を示すため、恋人を想って三つの楽器を演奏するという、目にも耳にも華やかな文楽の大曲『壇浦兜軍記』「阿古屋琴責」。その魅力をご紹介します。

『壇浦兜軍記』基本情報

『壇浦兜軍記』は、享保17年(1732)、大坂竹本座で初演されました。作者は文耕堂、長谷川千四。
『平家物語』などに取材した時代物で、平家滅亡後、天下を治めた頼朝に一矢報いようとする平家の残党・悪七兵衛景清とその周囲の人々の姿を描いた作品です。五段構成の作品ですが、現在上演されるのは、三段目の口(各段の冒頭におかれ、その段の物語の導入部分となることが多い)のみで、「阿古屋琴責」という段名で親しまれています。

「阿古屋琴責」とそれに至るまでのストーリー

「阿古屋琴責」のあらすじは、以下の通り

平家の残党・景清の行衛を探るため、頼朝の重臣・秩父庄司重忠と相役の岩永左衛門は、景清の恋人・阿古屋を詮議しています。重忠が当番の日、榛沢によって堀川御所の白洲に引き出された阿古屋は、重忠から琴・三絃・胡弓を弾くことを求められます。戸惑いながらも三曲を弾ききった阿古屋に、重忠は偽りなしと判決を下し、めでたく許された阿古屋は家に帰されるのでした。めでたしめでたし。

 ……導入部分である口だけあって、書き出すといったってシンプルです。
 では、次に物語の背景を知るため、物語の背景と阿古屋が捕らえられるまでのストーリーをご紹介します。(長いので読むのが面倒な時は、太字部分のみ見ていただければ結構です。)(オイ)

平家を滅ぼし幕府を開いた源頼朝は、平家によって焼き討ちされた南都東大寺の大仏殿再興を重忠に命じています。大仏殿が完成し、その再興供養が行われる日、僧兵姿に変装した景清は頼朝の借屋を訪れますが、そこにいたのは頼朝ではなく、代参した御台所の北条政子でした。重忠の妻や重忠の家臣・本多近経らは景清に頼朝への帰服を進めますが、それを拒絶した景清は討とうとした岩永左衛門らを蹴散らし姿を消します。(初段)
京・清水で辻講釈をしている関原甚内の小屋に、熱田神宮の前大宮司とその娘で景清の妻・衣笠が立ち寄り、阿古屋の居場所を尋ねます。花扇屋という置屋を教えられ二人が立ち去ったあと、捕り手達が来て景清に面差しが似ている甚内を捕らえようとしますが、捕り手のリーダー・榛沢六郎の調べで景清ではないことが分かります。榛沢達が去ったあと、以前から懇意にしていた深編み笠の浪人が訪れます。実はこの浪人こそ景清で、自分に似た十蔵に恩を売って身替わりにしようと考えていました(人でなし)。けれど、十蔵が阿古屋の兄と知って、すべてを打ち明けたのでした。二人は再会を約束し、景清は京を立ち退きます。
 所変わって花扇屋。大宮司と衣笠は、阿古屋に景清の居場所を尋ねます。そこに景清の羽織を身につけた十蔵がやってくると、大宮司は景清を探すのは娘と縁を切らすためであり、景清に似た十蔵に代わりに絶縁してくれと頼みます(そんな無茶な)。代官所から花扇屋の主・斗平次は、阿古屋を連れてくる様にと命じられています。ですが、衣笠が店にいるのを知ると、衣笠を代わりに差し出し、阿古屋は自分の妻にしようと企み(そんな無茶な、パート2)、代官所へと向かいます。代官所に召し捕られる覚悟を決めている阿古屋は、景清の居場所を知る兄に、決してその場所を自分に伝えないようにと頼みます。斗平次が連れてきた役人が衣笠を捕らえようとするのを止める阿古屋。その誠意に打たれた大宮司は、景清との縁を切ろうとした身を恥ずかしみ、衣笠に刀を渡します。父の意図をくんだ衣笠は、斗平次を殺し自らも自害します(書いていてちょっと意味が分からない)。阿古屋は捕らえられ、大宮司は娘の菩提を弔うため、出家します。(二段目)

 ここまでが「阿古屋琴責」に至るまでのストーリーです。
 ……なんで衣笠すぐ死んでしまうん?
 実際は箕尾谷四郎(八島合戦で景清と力比べした人)の話が絡んでくるですが、ややこしくなる上、書いてると長くなるので、端折りまくってざっくりまとめました。箕尾谷と景清が生き別れの兄弟、っていう設定で、嘘やんってなります。
 って、いや、そこではなく。
 ここで押さえておきたいポイントは、阿古屋は本当に景清の居場所を知らない、ということです。「景清さんの行衛は、知ってたらぺろっと言っちゃうかもだけど、なんつっても知らないのよ。ごめんね、テヘペロ(意訳)」みたいな台詞がありますが、本心から誓文知らないんですよね、阿古屋さん。
 「阿古屋琴責」のみ見てると、なんとなく、景清の行衛は知りながらも、五条坂の傾城として、勇将の恋人として隠し通す阿古屋かっこいい! 、そして、それを見抜きながらも許す重忠マジいい人! 、みたいに思いません? え、私だけ?
 恋人の居場所を知りたいだろうに、決して知ろうとしない、それは言い換えると、捕らえられ拷問を受ける覚悟を決めているということです。その覚悟が、凜とした阿古屋の美しさなのだと思います。

 「阿古屋琴責」が単独演奏されたのは、宝暦5年(1755)の大坂竹本座『年忘座敷操』からで、その時の本文が現行本文へとつながっています。初演時は一人の太夫が語っていましたが、次第に掛け合いで語られるようになりました。
 単独での上演が繰り返され、おそらくその間に様々な工夫が施され、今では大曲の一つとされる「阿古屋琴責」。

 歌舞伎でも阿古屋は女形屈指の大役とされ、長く玉三郎丈お一人が勤めてらっしゃいました、
 演技でけだはなく、三曲の演奏、しかも役の性根で引くことを求められるため、難しいお役だと思いますが、
 ずいぶん前に、玉三郎さんがテレビかなにかのインタビューで、

「女形なら弾けて当然です」

というようなことを、さらりと仰っていたのを聞いて、「流石だなぁ。かっこいいなぁ」と感じたものです。
2018年12月に玉三郎丈、梅枝丈、児太郎丈がトリプルキャストでお勤めになり話題となりました。
その次の年である2019年12月にも、歌舞伎座で玉三郎丈と梅枝丈のダブルキャストで上演され、梅枝丈の阿古屋では玉三郎丈が岩永のお役で付き合われました。
 岩永は人形振りで演じられるので、それを玉三郎丈がどのように勤められたのか、予定が合わず観られなかったのが残念です。
こうして芸がどんどん継承されていくのは望ましいことですね。

閑話休題

注目ポイント

では、「阿古屋琴責」はどこを中心に楽しめば良いのでしょうか。
わたしが注目するのは以下の点です。

①目でも耳でも楽しめる三曲演奏
②阿古屋の心境の変化
③重忠と岩永の対称性

 まず一つ目は言わずもがなですが、阿古屋が弾く三曲です。阿古屋は重忠に求められ、箏・三絃・胡弓を演奏し、それぞれの歌をもじって景清を知らないことを訴えます。
 阿古屋の手は、演奏用の手が用いられていおり、人形が曲に合わせてそれぞれの楽器を演奏します。曲は(当たり前ですが)、床で三曲担当の三味線弾きが演奏しているのですが、あたかも阿古屋が本当に弾いているかのよう。
 演奏の合間に入る景清との恋物語も好きです。
 いつ頃からか顔を知るようになって、着物のほつれ、傘、煙草の火と次第に打ち解けていく様子、そうして結ばれたのに、今は人目を恥じて一言互いの無事を確かめ合うのが精一杯、という二人の関係がうかがえて切なくも甘い心持ちになりす。

 この三曲演奏は、先行作である近松門左衛門の『出世景清』で、小野姫の拷問の場面が踏まえられているとされます。『出世景清』では、火責めや水責めなど三種類の拷問にあいながらも夫の居場所を決して言わない、景清の正妻である小野姫と、心の弱さから景清を訴人した阿古屋が対比されます。本作ではそれを裏返し、拷問にあいながらも毅然とした姿を崩さない景清の愛する傾城・阿古屋を作り出しました。しかも、美しい姫が拷問に苦しむという凄惨な場面を、三曲演奏と書き換え、目にも耳にも楽しめる段となっています。

 二つ目は上と関わりますが、浄瑠璃で綴られる登場から段切まで、この段を通して移り変わる阿古屋の心境です。

姿は伊達の襠や。戒めの縄引きかへて縫の模様の糸結。小褄取手も儘なれど胸はほどけぬ思ひの色形は派手に。気はしほれ。筒に生たる牡丹花の。水上かぬる也。※


 榛沢によって重忠の前に引き出される阿古屋は、連日の拷問ですでに疲れきっている、けれど、傾城として、阿古屋の恋人としての意気地で、ぐっと歯を食いしばり背筋を伸ばして重忠の前に出てくる、そんな様子が「筒に生けたる牡丹花の。水上かぬる風情」から想起されるように思います。

四相を悟る御方とは常々噂に聞いたれど。なんの仔細らしい四相の五相の。小袖に留める伽羅じや迄と仇口に言ィながせしが。 ※

 この阿古屋の台詞が節回しも含めて好きなのですが、自分の境遇にまで思いをやる重忠を仁ある侍とは感じ、ほだされつつも、かといってやはり信用できない、弱いところを見せることはできないという心情なのかなと思います。
 三曲を弾く前の描写を見ると不安げな様子から段々と腹が据わっていく様がうかがえます。


言葉もしげき重忠の。底の心は知ラね共ぜひなく向ふ爪琴の、行衛を何と岩越にいとも心も乱るゝ計。声も枯野の船ならで甲斐なき。調べかき鳴らし。

猶望まるゝ三絃のどふ成ル事か知らね共。思ひ込んだる操の糸今更何とたがやさん。心の天柱引しめて。

あいと答へて気は張弓歌は哀れを催せる。時の調子も相の山。※

 いかがでしょうか。最初は重忠の真意が読めず、不安ながらも箏を弾き、三絃では分からないなりに不安な心を引き締めて弾き、胡弓では腹を据えて弾くという様子が分かるのではないでしょうか。
 浄瑠璃の阿古屋の描写をじっくり読んでいくと、この段の阿古屋の凜とした美しさがより感じられます。

 三つ目は、重忠と岩永の対称性です。
 「俊寛」の名で知られる『平家女護島』「鬼海が島の段」の丹左衛門と妹尾のように、善悪二人の役人がペアで登場するというのはよくみますが、本作は寛仁大度の重忠と(悪人というよりは)めっちゃヤな奴な岩永というコントラストが大きく描かれています。
 重忠は、演奏中じっと聴き入っていますが、岩永は落ち着かないのかうろうろしたり火箸で胡弓の演奏のまねごとをしたり。こういった動きは上演が重ねられる中でできあがったものかと思われますが、この滑稽な動きがかえって重忠の「ちゃんとしてる感」(ボキャブラリーが貧困でうまい言葉が思いつきませんでした)を強調していると思います。
 箏・三絃・胡弓を聞いている間、岩永の動きも面白いのですが、重忠の聞く格好もそれぞれ異なっていて興味深いです。
 阿古屋に目を奪われがちですが、この二人の動きも要注目です。

まとめ

 「阿古屋琴責」は、切(山場)のように物語が複雑に絡み合うような場面ではありません。ですが、戸惑いながらも次第に腹をくくる阿古屋の傾城として、そして景清の恋人としての矜持、そしてその心の変化を促した仁心あふれる重忠の振る舞いが、短い中にもよく描かれています。
 岩永の滑稽な動きは重忠の仁者としての人柄を強調するとともに、笑いを添え、阿古屋と重忠の緊張感あふれる言葉の応酬の中に緩急を巧みにつけています。
 三曲演奏の見ごたえ、聞きごたえはもちろんですがく、この非常に整った筋運びも、口であるこの場面が、後生まで伝承された所以ではないかと考えます。
 初めての文楽にもぴったりで、色々な楽しみ方ができるので何度観ても飽きることのない作品ですよ!

※引用しました本文は浄瑠璃正本二種に依っていますが、読みやすさを考慮し適宜私に漢字に改めた箇所があります。

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