言語化されたアウトプットには、既に心や身体との不一致が潜む
言葉は便利なものだ。特に物体化された具体物に対しては、「名前」というラベルがつけられることで、誰にとっても同じものとして共通認識を持つことができる。
例えば、果物。リンゴ、オレンジ、いちご・・・。果物と言う汎化された概念兼物に対して、果物の種類に一つずつの名前で、目の前にそのものがなくとも、既に現物を知っていれば余計な説明をすることなく会話は進む。
ところが抽象的な概念の名詞や、時には動詞・形容詞・副詞が入ると、同じことを対象としているようで、許容できない差異が双方に生まれると、コミュニケーションのギャップが生まれ、行き違いや望まぬ結果を生むことが往々にしてある。
興味深いことに、我々が言葉を獲得し、そのバリエーション(ボキャブラリや用法)を広げ深めていく中で、そもそも現実世界と脳内での紐付けには個人差があることを考えれば、至極当然と言えば当然のこと。
ヒトは他人も自分と同じであろうという無意識の前提によってコミュニティのなかで成長する。意思疎通のギャップを通じて、必ずしも他人が自分とは同じものを同じようにはとらえていないことを知り、発した言葉への反応を以って、検証し、軌道修正しながら自分の意思を世界に表明する術を習得していく。
実は、自分が選択して使っている言葉は、そもそも自分の脳内で起きていることにマッチしているのかという課題が存在する。
例えば、相手の話しや状況に納得していないのに「はい、わかりました」という言葉を発するようなとき、脳内には感情との不一致や"Yes"を”No”として発している用途と本来の本質的意味との矛盾は、ストレスや表情・身体の反応として現れ(表面上にどれだけ顕出するかは状況によるが)、時にはそれは「雰囲気」として相手にも雄弁に伝播する。
あるいは、現実世界に対して、自分自身がそれを表現するのに適切な言語化手段を持ちえないとき、言葉に詰まり、自分自身との内部対話に陥り、モヤモヤやイライラといった本能的な感情が先に立つこともある。
さらにあるいは、選択した言葉が自分にとっては適切な表現と思えたとしても、相手には異なる意味でしか解釈されえないものとなったときには、埋まらないすれ違いだけが残こり、徒労に終わることもある。
相手と自分の言語化意識の違いは、単に言葉を知っている・知らないというレベルを超え、その言葉から相手がどのような反応パターンを持つのかを知り、相手にとって適切なストライクゾーンへ言葉を送れるかという、職人技的な対応への成長機会をもたらす。
かくして、自分の発する言葉を自らのものかどうかの疑惑を頭の片隅に持ちながら、言語と非言語の両コミュニケーションを駆使して、まずは自分とのコミュニケーションを経て、外部世界の住人達へ言葉を届ける。
潜在的な不一致を前提に、選択する言葉を幅を持たせたり、ピンポイントを狙いながら、相手の言葉ではなく、相手の反応・行動を引き出す。
相手の反応・行動でしか、自分のコミュニケーションがそのように伝わったかはわからないものなのと思えば、手段としての言葉は大事だけれど、相手の言葉の枝葉末節に神経を払いすぎることなく、望ましい結果に向けたアプローチにフォーカスできるかもしれない。
繰り返してもなかなか伝わらない、コミュニケーションへの備忘として。
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