“しぬこと”をちょっとまじめに考えてみた
日付つけてるのださいなっておもって外してみました。
今日みたあべまの切り抜きで、“死んじゃダメ”っていうのは残酷だ、って言ってる人がいた。
ほーんってみながら、改めて“しぬこと”について考えてみた。
いまのわたしにとって、しぬこと、永遠が恐怖の対象であるわたしからすると、自分が死ぬことは恐怖そのものであり、かつ苦しみからの救いの手段でもあるという矛盾をはらんだ概念。
死とどう向き合うか、死に包まれるかまだ抗うかは、わたしの選択が迫られている。
それは私と同じように他の苦しんでる人はみんな迫られてることで、結果として受け入れ、包まれることを選ぶ人ももちろんいる。
“死んじゃダメ”って言葉は、確かに呪いの言葉だ。
だってわたしたちから選択肢をひとつ奪ってしまう。
ちっちゃい頃、勉強しろって言われるほど、勉強したくなくなったのをすごく思い出す。
「これやって」「あれやって」すなおに聞ける人って、そんないないでしょ結局。
「生きて」「生きろ」も、たぶんおなじ。
「なぜ勉強しないといけないのか」今のわたしは、“おとな”としてこどもに納得する答えを出せるだろうか。
くるしいひとが死を選んだ時、何が起こるか。
紛れもなく“無”。それはどのような形であれいずれ全員に訪れるものであり、現在進行形で苦しむわたしは毎日のように突きつけられる現実。
じゃあ“長生き”することは意味があるのか。同じ人生なのに、なぜ“長く生きること”が良いことだとされているのか。
くるしいひとが死を選んだ時、何が起こるか。
紛れもなく“無”。それは現在進行形で苦しむわたしは毎日のように突きつけられる現実。
大きな地球から見ればたかだかにんげんひとり、どうぶつひとつの命でしかないのに、なぜ自分で生きることを断ち切ることは悪とされているのか。
死ぬことも生きることも選択であり、そこに他人は介入できないし、その人の選択に善悪はないんじゃないかと思う。
わたし自身生きることに正解を見出せていないからこそ、もし目の前に選択に迷う人がいた時、説得力をもって止められる自信はない。
その人を止めるためには、やっぱり“生きる”ための支援、つながりが必要なんだと思う。
生きたい、と思わせるためにはどうしたらいいのか。
偉そうなこといってはいるけど、自分自身の答えを見つけられない限りは、わたしも自分自身の病と向き合えないんだとおもう。
また閉塞感がわたしを苦しめるようになってきてしまった。
トイレの個室やお風呂に入ると、息が詰まるような感覚があって苦しくなる。
ただ、先週大泉さんの映画「ディア・ファミリー」をみに行き、心打たれてからは、主題歌の「Dear」を聞くとなぜか落ち着くことが多い。
あんなに音楽すら聴けない日が続いたのに、これだけはなぜか大丈夫。
さあ、土曜日はいよいよ薬が切れるので2回目の受診。
お薬を出してもらえるか、ここが最後の踏ん張りどころです。
まだまだ、のんびりちゃきちゃきレタス頭で乗り切りたいと思います。
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