自分を愛せなきゃ人を愛せないのか?




そうかも。

正確には「自分を愛せていた方が相手をうまく愛せる」気がする。自分を全く愛していなくとも人に対して「愛」みたいな感情を抱えることはできても、動詞としての「愛する」が難しいのかもしれない。それはやり方がわからないからかな。なにをしたらその子は「愛された」と思うんだろう、そういうのがわからない。

もし自分に優しかったら、それは人にも優しくしやすいとも思う。
そもそも「優しくする」のやり方を知っている、優しくされた時になにが嬉しいかを知っている、どうされたら嬉しいのかを知っている、それを知っていると人にも同じことができるのでは、と思う。痒いところを自分で掻ける人は人の痒いところにも手が届くのでは、その手の伸ばし方を知っているのでは。(もちろんできない人もいると思う。自分に対しての自分の行動がどんな感情なのかがわからないと、それを人にはできないと思う。なにもわからないまま自分を愛してる人は結構いると思う。)

それと同じように、自分を愛せていたら人のことも愛しやすいのかな。なにをしたらこの子は喜ぶんだろう、わたしはこれをされると嬉しい、じゃあ相手にもしてあげたい。そういうものが自然とできるんじゃないかって。
自分がなにで喜ぶのか、みたいなのかわかっているとそれを相手にもできるし自分はこれをされると傷つくな、というのがわかっていればそれを相手にしてしまうことがないように生きていくし。
もちろん人と自分がおなじことで喜んでおなじことで傷つくわけではないのだけど、そういう意識ができるというのがもう「人を愛する」ということなのかなーとも思える。

愛せとは言わないけど、自分をよく知ることが相手のためにもなるんだよなと。そう思うこの頃ですよ。そして自分のことを知る方法を知っていると、相手のことを知る方法も考えられるし実際動いて見つけ出せるよな、という。

なにをされたらその子は「愛された」と思うんだろう?それはもうその子のことを知ることと、知り方を知っていること、それはもう答えの近いところなのではないか。

ひとを愛するために自分を愛せとは言わないけど、誰かをうまく愛せないことで傷ついたり傷つけたりする前に自分を愛してみたらいいんじゃないかなとおもうよ。簡単なことではないんだけどね。






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