見出し画像

批評家になることは簡単、しかしプレーヤーであることは難しい。

日本人は日本人の英語に一番寛容ではないと学生時代から感じている。TV番組やyoutubeなどのプラットフォームで日本人が英語を話す様子を放送する度に必ず目にするのが「発音がおかしい」や「ネイティブはそんな言い方しない」などのコメントだ。コメントしている本人達は自己顕示欲が満たせて良い気持ちになれるかもしれないが、その類のコメントを目にする第三者は決して良い気持ちはしないし、場合によっては英語で発信することに対してトラウマを抱えるかもしれない。

先日Twitterで私に対する批判コメントを久々に目にした。内容は「大して英語が出来ないくせして難単語を沢山覚えてケンブリッジ英検CPEに合格したのは驚いたな」というものだった。自分の英語力が他人から見て大したことがあるのかないのかについては様々な判断基準が各個人にあると思うので基本個人の判断に委ねるようにしている。しかしここで感じたのが批評家になることは極めて簡単であるということだ。スポーツを例に取ると、優勝候補のチームや選手が予選敗退を喫したり結果が振るわなかったりすると槍玉に上げる人が出てくる。でもそういう人達の多くは実際にプレーを行っているわけではなく自分の理想としている形や思想をただ選手達にぶつけているだけに過ぎない。選手達の苦労も理解せず外野という安全地帯からただヤジを飛ばしているだけである。

ある目標に向かってコツコツと努力をして結果を出し続ける事は本当に大変な事で何度もしんどいと思ったことがある。ある時はプレッシャーのあまり試験中に動悸が激しくなり途中退出をしかけた時もあった。それでも自分が打ち立てた目標に向かってコツコツ積み重ねる過程は本当に楽しいし、その過程で沢山の困難がついてくるかもしれないが、達成した時の感情やそこから見える景色というのは何にも代え難い。外野からヤジを飛ばす批評家よりも自分は常に目標に向けて挑戦し続けるプレーヤーでありたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?