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水月が漂う

今日も僕は亡霊のように街を徘徊した。何が楽しくて毎日を過ごしているのかは分からない。ただ命の鼓動に従うままに時間の向きに逆らうことなく惰性を排しているのだ。「海に行こうぜ」なんて友達に言われたが、自身の興味はそこになかった。しかしこの誘いを無下にすることは僕にはできるはずもない。心の赴くまま行くわけではなく半ば強制ではあったが、僕は海に行くことを決めた。

人は何故海に駆り出されるのか?この世界には水を嫌う動物はごまんといる。人間は食という一点において水辺に駆り出した。そして文化が育まれ、水という存在を神格化させていた。海も同様だ。蜿蜒と続く果てしない茫漠さに人はどこか畏怖を感じ、また食を通して生命の恩恵を感じる。

そこからだろうか、人間が海に魅力を感じるのは。実際にこの浜辺に漂う人波になぜこの場所に降り立ったのかの答えを生み出してはいるのだろうか。
その答えを僕は持ち合わせていない。ただ一つ言えることは此の海という場所は人間にとって特別な場所であるということだ。

ただ僕はそんな浜辺の上に、青春を謳歌している群像達を傍観していた。こんな漂う藻のような精神を携えた中に、刹那の陽光を垣間見た。そこには自らが今まで感じた事のない情動であったため、一瞬自分が自分でないかのような浮遊感に見舞われたほどであった。

そして僕がこんな衝動に耐えることは不可能であるからして、僕が行動に移すことは必然であった。

「あの、何しにここに来たのですか?」

僕はまるで職務質問かのように、その幼い心を見透かしながら彼女に声をかけた。

「海月に成りに来たの。」

彼女は僕のあどけない問いに、人生を語るかのような丁寧で且つ、あしらうかのような大人の悠然さを僕に見せつけた。そこに僕はよりその情動を高めていった。

淡い恋心というのは本当に淡いのか。それは自分が淡いと思いたい。恋愛観というのは美しく、儚いという自己顕示なのではないかと思う。本当の恋というのは深紅であり、業火に焼かれる自身の情動である。この時の僕もこの業火に身を焦がしていた。彼女はどうだったのか彼女は静そのものであり、彼女こそが淡い青を携えていた。

「海月ですか。」僕は聞かずにはいられなかった。

「そう海月よ」彼女はさも当然のように返答した。

「なんで海月なんですか?」

僕の問いには彼女ははにかんだだけだった。


そして僕は自身の情動に達成を果たすことは出来なかった。彼女は僕が今から見れば海月そのものだった。海月の生態のほとんどは明らかになっていない。彼女も僕には何一つわかることはなかった。

海月という生き物は自身の生を循環させる。僕たちの輪廻転生から離脱する方法は自死しかない。僕の革命はここで終わった。革命の後に起こるのは粛々とした後始末のみだ。

ある伝説には入水というのは海月の影響だというものがある。僕のやることはただ一つである。彼女がすでに水母に変わっていればこれ以上本望なことはない。


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