私のDisenchanted|原題は「?」を忘れてる
この『魔法にかけられて』の続編制作の話を聞いてから、いったい何年待っただろう。そもそも、前作自体もかなり時間がかかった作品だと聞いたし、ただの創作活動でさえ難しい進行が、商業的な世界で確立するには途方もない力が必要だろうと、半ば諦めながらも待ち続けていた。
でもDisney+で公開されて早々に、私のフォローしていたDオタたちは口々に酷評を並べていたので「そんなひどかったんか…」とスクロールを速めながらオロオロしてしまった。
とはいえ、みてから。観てから、その論評を読もうと思い、軽い気持ちで見はじめたらさあ大変!
私には、個人的にヒットが多かったのでした。
そしてその後改めて、酷評だった人たちの意見を読んで、全く自分と視点が異なることもまた、何倍にも楽しみを与えてくれました。
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Once Upon A Time…いえ、現代、NYにて
おとぎばなしの国「アンダレーシア」から現実のNYに移り住み、愛する人ロバートと、その娘モーガン、そしてロバートとの間に生まれた娘と暮らしていたジゼル。
継娘のモーガンが思春期に入り、完全に予測もイメージもできない”ティーンエイジャー”の取り扱いに、ジゼルは故郷を恋しく思い始める。
全てが単純明快。それぞれの役割に徹するおとぎばなしの世界。
環境をすこしでも近づけてみようと、現実社会にふさわしい現実的な努力(実行)「引っ越し」をしてみるも、おとぎばなしの様に、ビビディバビディブー!とは行かない。
これぞ現実!
そこで彼女は、新居祝いに故郷から贈られた『願いを叶えてくれる魔法の杖』に”この(現実)世界をおとぎ話の世界に変えて”と願ってしまう…。
しかしこの世界を変える魔法、往々にしてどの物語でも語られる通り、それほど大きな魔法はそれ相応の代償が求められ、『魔法にかけられて2』でも例外ではなかった。
感想のような、個人的スピリチュアル解釈を『Frozen2』に続いて書き連ねるにあたって、私の脳内の前提に少し触れておくと、
前作から察するにジゼルは、決してどちらかの世界が好きで、どちらかの世界が嫌いだったのではないと解釈している。
彼女はNY(現実世界)に来てギャップに驚いていたし、理解し難いことばかりだったろうけれども、とはいえ彼女は最終的にあの短い時間で『現実世界の中にあるおとぎ話のような要素』をしっかりと捉えて、『この世界にもちゃんと魔法がある』と実感する。
そして、その”魔法”の根源である”心から愛する人”といられる、現実世界を選んだ。
『魔法にかけられて』とは、そういう映画だと思っている。
「魔法」はどこに存在するのか
彼女は「現実世界を選んだ」と言うよりは、ロバートがいるからこの世界を選んでいる。特に理由がなければ、別にエドワードを選ばなかったとしても帰ったことだろう。
それでも、残りたい。むしろおとぎ話の存在である彼女が、現実世界という異世界に残れる理由があるとすれば、ロバートが心から愛する人であり、そこに真実の愛という強力な魔法が存在するからだ。
加えてロバートも、「おとぎ話の存在」であるジゼルを愛した。
どこまでも希望を捨てず、”信じる心を失わないひたむきさ”は、ディズニーがプリンセスに持たせ続けた真の強さだし、ジゼルはそれを持っている。
だからこそ、現実世界に残ったジゼルが、そのアンダレーシア節全開にブランド展開し、彼女がアンダレーシア出身のおとぎ話のプリンセスとして、NYで暮らしたことを前作エンドロールで描いている。
こうした「ジゼルは多少無理をしてでも、自身にとってアウェイな世界にいる」という考えの前提には、おとぎ話の存在がこの世に存在するためには「魔法(魔力)」が必要だという考えがある。
だから彼女が現実世界に残ることは、わりとチャレンジングなこと。
存在そのものに負荷のかかることだったと思えるのだ。
それでも、「大丈夫、だってこっちにもちゃんと魔法はあるもの」とジゼルは微笑む。
また、現実世界側の女性であったナンシーが、ジゼル発案の鳩に運ばせたお花や、舞踏会のお誘いにロバートが思いがけないほどに喜んでいたこと。
そして、モーガンという小さな女の子が、現実世界とは明らかに異質な”プリンセス”を見て、すんなり受け入れることができたことから、この現実世界には”きらめき”が実在し、それを感じたり期待する人がジゼル出現以前から在ることを示している。
こうして前作はこの現実世界にもちゃんとおとぎ話のようなきらめき(魔法)はきちんと実在すると言っている。
続きます。
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