“原始的”を思う
「“原始的”を思う」
漫画の「はじめ人間ギャートルズ」のエンディング・テーマ、「なんにもない…」には原始に立ち返らせる魅力のようなものがあり、人に落胆を覚えさせない術を教えている気がした。私はこの歌と漫画を知る前に、この思惑(思い、事実)に、辿り着いていた(感じていたのだ)。原始に立ち返らせる。既成事実がなければ、人は落ち込む事がない。この概念を念頭に置いた上で言えば、自分が既成事実に捕らわれ、そうならないから、理想が外れたとか、他への羨望が生れたりとかで、本来の自分が得なければいけないもの以上のものまで(得れば良い最上のもの以上のものまで)、欲しがる訳である。既成事実に捕らわれず、本来の自分が得なければいけないもの以上のものを欲しがらなければ、この世であたかも既成と成っているような落胆を、覚えることはない。それ以上のものを知らないからである。このようにさせるのは、人の欲望かも知れない。「肩の力を抜く」とは、この世の物事に気を衒わず、自分本来の姿を維持して、自然のままに生きるということ。「楽に生きる」とは、自分に降り掛かるすべての物事を、自分の糧であると受諾すること。自分が何故に生れたか、という概念を吹き飛ばし、自然のままに、何となく生きるということに、何等かの活力のようなものを添える結果となる訳である。生きることを、楽しむ結果と成り得る。落胆は人の糧となる、という文句もある。しかし、その糧に形成する過程とは自分の内に生を持っていなければならなく、他の場所に在って、羨望で終わってしまっていてはいけない。羨望というものには、憧れ、の他に、妬み嫉み、の類まで覚えさせる魔力のようなものがある。羨望というものも、自分の糧としなければいけないのである。「生れた…星がひとつ、暗い宇宙に生れた…、星には夜があり、やがて、朝が訪れた…、何にもない大地に、唯、風が吹いていた…」正に原始的を思わせる詩である。いやなに、別々に考えた思惑が、偶然に一致しただけに過ぎない。
「零への視点」
無意識の内に生れて、何者かに、「やれ」と言われて、生業に励まなくてはならなくなっている。生活費を稼がなくては、この世では、生きてゆけないのだ。その生業が、楽しいものであれ、苦しいものであれ、関係なく、この世を越えた、何等かの主は、人(個人)に、得体の知れぬものばかりをぶつけている。
どうしても、私は、他人と、発展することが出来ない。自分が、個人で、他人からわからない事と同じように、他人という個人が、私も、わからないからだ。人として生れた故の、「人間」の壁というものを思う。これを易く考えて、考え過ぎることはなく、又、難く考えて、考え過ぎることはない。人が持つ、心というものの中に、映し出される心境の変化は目まぐるしく、その姿を幾様にも変える。しかし、彼等に心がなかったとして、その彼等については、人とは呼べないものか。
人は、何となく生れて、夢や希望を、その「何となく」のベースの上で自ず決めて、それを、自分の努力だと解しながら、生により苦楽を蹂躙して、目的へと生きてゆく。善悪も然別。聖書に在る十戒が、人が定めたものであったとするならば、或るクリスチャンは、たちまち混沌の内に陥り、信仰を、主をも、見失うことになる。(信仰については改行してかく)。これ等はすべて、「人間」の視点である。「人間」に生れた故に、このように語る。
(追記として以下)
人間の悲しみ。気持は万別の方向に延びて、親である自分を持ってゆきたいのに、躯がついてゆけない、自ず気付く、人間の限界。時間。躯。寿命。だから、死ぬまでに、全ての国を、自己の思いが生きる場所を、旅してまわりたいのだ。他人はこの現実を、場面と呼び、私はこの現実を、舞台と呼ぶ。どちらにせよ同じこと。人間はもっと、わからないことで、悩むべきだ。
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