【アップ】2024年7月21日主日公同礼拝/讃美歌とMynoteもあります
【本日の礼拝メッセージ】
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前奏
招詞 詩編89編6〜9節
詩 編 歌 65編 8節
荒れ野にも油のしたたりあり
開 会 祈祷
主 の 祈り(週報裏面)
十戒・祈祷(週報裏面)
子ども説教
子どもと親のカテキズム問 97
「アーメン」
こどもさんびか
きょうもわたしを[改7(全1節)]
牧 会 祈祷
讃美歌 191番
聖書
使徒言行録20章1〜6節
エズラ記6章12〜22節
説教
「真理を尽くして
〜主の救いの御業を覚えつつ」
宮武輝彦
祈祷
讃美歌 261番
みことばの交読文 詩編 118編 22〜26 節
感謝のささげものと執り成しの祈祷
頌 栄 544番
祝 祷
報告
讃美歌~♪
讃美歌191番(歌詞付)54年版「いともとうとき」
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1
いともとうとき 主はくだりて 血のあたいもて 民をすくい
きよき住居(すまい)を つくりたてて そのいしずえと なりたまえり
2
四方(よも)のくにより えらばるれど のぞみもひとつ わざもひとつ
ひとつのみかて ともに受けて ひとりの神を おがみたのむ
3
数多(さわ)のあらそい み民をさき 世人(よびと)そしりて なやむれども
神はたえざる 祈りをきき 涙にかえて 歌をたまわん
4
世にのこる民 去りし民と ともにまじわり 神をあおぎ
とわのやすきを 待ちのぞみて 君の来ますを せつに祈る。 アーメン。
讃美歌261番
https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=RO3Wh8KTRc0
みやこの外なる 丘のうえに、
主を曳き行きしは なにのわざぞ。
神よりはなれし 神の子らの
幾重としられぬ つみのきずな。
アーメン
2024年7月21日 礼拝説教 中心聖句
そして、この地方を巡り歩き、言葉を尽くして人々を励ましながら、ギリシアに来て、そこで三ヶ月を過ごした。
使徒言行録20章2,3節
捕囚の地から帰って来たイスラエルの人々も、イスラエルの神なる主を尋ね求めて、その地の諸民族の汚れを離れて来た人々も皆、過越のいけにえにあずかった。
エズラ記6章21節
はじめに
わたしたちの伝道は、どんな時にも、神の言葉によることを今日も共に学びたい。
1
「(さて、)この騒動が収まった後」とは、エフェソでの騒動。町の書記官による事態は収拾し、パウロも難を逃れた。また、何よりも、エフェソの教会が守られた。それは、神の守りの中で町の書記官も用いられた。神の支配は、教会のみならず、生活の全領域に及ぶ。その騒動が収まり、間もなく「パウロは弟子たちを呼び集めて励まし、別れを告げてからマケドニア州へと出発した」。パウロは、マケドニア州とアカイア州を通ってエルサレムに行き、ローマに向かうことを、霊の中で思い定めていた(19章21節)。伝道旅行と教会の主は、聖霊なる神、キリスト。先に学んだように、パウロの目的は、献金によりエルサレムの貧しい者たちを助け、ユダヤ人と異邦人の一致を証しすること。パウロは「異邦人のためにキリスト・イエスに仕える者となり、神の福音のために祭司の役を務め」た。それは、「異邦人が、聖霊によって聖なるものとされ、神に喜ばれる供え物となるため」(ローマ15章16節)。全生活において命の主を神とする聖なる生活こそ、ユダヤ人も異邦人も、福音の力によって救われる目的。
2
「そして、この地方を巡り歩き」とは、エフェソからトロアスをとってマケドニア州を通過したこと。その間「言葉を尽くして(多くの言葉で)人々を励ました」。マケドニア州にあるテサロニケの教会に宛てた手紙では、その模範的な生活を神に感謝して伝えています。「なぜなら、わたしたちから神の言葉を聞いたとき、あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れたから」「事実、それは神の言葉であり、また、信じているあなたがたの中に現に働いている」(テサロニケ一2章13節)と。一方、「眠りについた人たちについて、希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないように」励まし、「神が死者の中から復活させた方、来るべき怒りからわたしたちを救ってくださるイエス」(同1章10節)、この「主御自身が天から降って来られ」る、復活の日を告げ、「わたしたちはいつまでも主と共にいる」との「言葉(神の約束)によって励まし合いなさい」(同4章16~18節)と勧告するのです。「(アカイア州の)ギリシャに来て、そこで三ヶ月を過ごした」。
3
「パウロは、シリア州に向かって船出しようとしていたとき」とは、パウロがエルサレムへ急いだことを伺わせる。しかし、この時、「彼に対するユダヤ人の陰謀(待ち伏せ)があったので、マケドニア州を通って帰ることにした」。多分、船内でパウロを殺害する計画が企てられていた。「同行した者は、ピロの子でベレア出身のソパトロ、テサロニケのアリスタルコとセクンド、デルベのガイオ、テモテ、それにアジア州出身のティキコとトロフィモであった」。「この人たちは、先に出発して(アジア州の)トロアスでわたしたちを待っていた」。「わたしたち」と、使徒言行録を書いたルカ自身が旅を証しする。「わたしたちは、除酵祭の後フィリピから船出し、五日でトロアスに来て彼らと落ち合い、七日間そこに滞在した」。パウロはキリストにおいて除酵祭が廃止しされたことを知りながらも、それを尊重する。
おわりに
神殿再建の時、捕囚の地から帰って来たイスラエルの人々も、イスラエルの神なる主を求めて、その地の諸民族の汚れを離れて来た人々も皆、過越のいけにえにあずかり、七日間にわたって、喜び祝いつつ除酵祭を行った。主の言葉を守り行う励ましがここにもある。今日、わたしたちの伝道も、主の言葉を守り行うもの。その良き報いは、主に従う義務と従順。
(Mynote)
二〇二四年七月二一日(日曜日)、今日も兄弟姉妹共に礼拝を守れる事を神様に感謝する。
(子供メッセージ)
『子供と親のカテキズム 問九七』
「『アァメン』とは、どう言う意味ですか。」
「『アァメン』とは、『真実です』と言う意味です。私達は、神様が私達の祈りをイエス様の真実によって受け留めて、確かに聞き入れて下さる事を信頼して、『アァメン』と唱えます。」
イエス様がこの地に生まれる前の事、バビロンの時代から七十年が経ち、それ迄はモーセの律法の書が人々の守るべき信仰の基とされて居た。
しかしその律法はイエス様が来られた事により改変される様に刷新され、イエス様は「私こそが真実であり信仰の基である」という事を全ての人に教えられ、それを承けて信じた者達は皆「アァメン」と唱えた。詰り「イエス様が救い主であると信じる事」、そして現在に於いてもその事(イエス様が全ての人に教えた真実)を知る程に信じる上で、「アァメン」と唱えるのである。
(公同礼拝)
『使徒行伝』(第二〇章一〜六節)
『エズラ記』(第六章一二〜二二節)
先ず『エズラ記』ではバビロン捕囚から無事に帰還出来た人達のエピソードが記されてあり、彼等がその後も誠の主(しゅ)である神様に祈り、神様から与えられた律法(信仰に於いて守るべき規律)を守った上で、更に感謝して、その帰還後の生活を神様に感謝した。詰りここではまだ、モーセの律法がその信仰の基と成って居た。
『使徒行伝』では、イエス様が神様からこの地上(人々の内)に送られ、この地に誕生され、その後の事が記されてある。イエス様が十字架に付けられ陰府(よみ)に降り、三日目に死人の内より甦り、全ての罪人(イエス様の他の人間)の罪が贖われる事が確約された。詰りここでは、イエス様が新しい律法と成り、モーセの律法はイエス様が救い主としてお生まれになる事に繋がる規律として在った事、そしてモーセの律法より新しい神様と人々との契約(新約)が立てられ、その新たな律法(イエス様の教え)を全ての人は守らねら成らなくなった。
しかし当然全ての人は人間(罪人)に在る為、いきなりそう言われても、信じる者と信じない者とに分かれた。その信じない者がイエス様を捕え、十字架に付けて葬ったのである。しかし又これも神様からイエス様に託された御計画の内に在り、イエス様はその天の父なる神様から与えられた定め(盃)を承け(飲み干し)、神様の御計画通りに十字架に付けられ、全ての罪人の為の救いの源に成って下さった。
全ては、神様の御計画の内に在った事である。この点がこの『使徒行伝』と『エズラ記』の両箇所では最も重要になる。
人はこの日常に於いて、神様の御計画より、自分の計画を押し通す傾向にあり、それが常識とされ、当り前の正しい事に見られる。それは神様の存在がはっきり見えず、手に触れられず、助け手として曖昧で、時により限りなく頼り無い存在(助け手・救い主)であると考えるからであろう。ここに、信仰の大事を問う必要がある。
全ての人は、何処から生まれたか?これが分からない人にとって生まれ落ちた時点が「人生の始まり」と信じ、それを原点・原本の知識とし、あとは成長しながら見えるもの・手に出来るものに確実性・何らの利益を得る為の確約を見知り、それを生活の土台として今に至ろう。しかしその命が地上に生まれた前後を人は説明出来ず、その「生活の土台」も又曖昧なものとなろう。信仰から外れた者達は皆、この「何となく…」とした曖昧の土台の上で生かされるに過ぎない。
人は自分で生きて居ない。身近な例では、自律神経を人は自分で動かして居ない。進化論にしても、その原点を人は知らない。全て推測・確率論に成り立ち、ここでも「何となく…」で良しとして居る。あとは未来に任せ「そのうち人はまた進化して、全ての事を知る時が来るかも知れない」等、人の推測の内に生かされて居る。
この命の原点、即ち信仰の原点に立ち戻る事が必要である。これに立ち戻る事はそのまま、神様が初めに全ての人に与えた信仰に立ち返る事に等しく、真剣に考えれば考えるほど人の理解の限界を知り、神様の事を必ず考える様になる。この点も大事にあり、自分が何故そこに生かされて居るか?これをどれほど信仰に於いて深く考えるかが重要になる。この神様への信仰が無ければ、また人の知識・理解のみに頼る事になり、曖昧の理解の繰り返しになる。
この『使徒行伝』の箇所でも『エズラ記』の箇所でも、全ての人は神様の御計画に依り、人や物事が動かされ、運ばれて居る。神様が人を遣わし、出来事を夫々の人に与え、信仰に生かされる上では、必ずその信仰に於いて正しい方向へ生かされる。
パウロはわざわざマケドニヤに引き返し、それからシリアへ帰ろうとした。これも神様が前以て人を遣わし、そのままシリアへ帰ればその途にユダヤ人の陰謀が待ち構え、パウロは捕えられて居たろうか。パウロはこの時、神様に依り守られたのだ。この様に信仰に沿う人々が様々な苦難・障壁に遭おうとする時、必ず神様の導きに依り守られた。パウロはイエス様に依る救いの事を各地方の人々に伝えた。それまでモーセの律法のみを信じて来た人々にとってパウロは(当時はまだ多くモーセの律法を信じる者が居た様だ)、異端を唱える犯罪者となり、捕えて葬るへぎ対象となろう。ユダヤ人達は当時、モーセの律法のみを信じ尽し、イエス様の誕生を認めて居なかった(これは現代にも未だ続いて居る傾向にある)。そのパウロを神様は守られたのである。その守られた理由は、パウロにまだ信仰に於いてやるべき事・神様から託された仕事があったからであろう。思えば、イエス様の場合も同じであった。「まだ私の時ではない」とイエス様は弟子達を始め周りの人々に伝え、この「私の時」とは十字架に付けられる事までの一連の出来事が起きる時で、全ての人々の救いが確約される時を指して居た(と信じる)。
大事は、いつどの時・どの場所でも、神様の御計画に耳と心を向け、それにより進むべき途(みち)を見出し、信仰に依り神様に守られる事を第一の安心として、神様が用意されたその道を進む事にある。
聖書にその道を教える原点が記され、その土台の上で生かされながら、祈りに依り神様に教えを乞う。この事の大事を現代に於いて常に、確認せねば成らない。
【日本キリスト改革派 男山教会】
https://otokoyamakyoukai.jimdofree.com/
【最寄りの教会検索用】
https://www.rcj.gr.jp/
Table Café~
星野富弘さん「特集 詩画作家・星野富弘 ③」
https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=c-ywYmKQ0YQ
榎本保郎牧師 ミニ説教20 「今日 全力を注いで」
https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=E25Gc6LYmOQ
「そればかりはでなく、患難さえも喜んでいます。」
THE DAILY with Arthur Hollands 2024/07/28
https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=RKGRFhrAY6s&t=332s
ハーベスト・タイム・ミニストリーズ
https://www.youtube.com/@HarvestTimeMin?app=desktop
不思議のパルプンテ
https://www.youtube.com/@user-vh3fk4nl7i/videos
(お暇な時にでもどうぞ♪)
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