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【アップ】2023年10月8日主日公同礼拝/讃美歌とMynoteもあります

【本日の礼拝メッセージ】
https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=TxL5VZW3NCA&feature=youtu.be

【アメーバブログ】
聖書や讃美歌の内容などは、こちらのブログより閲覧できます。
ぜひお気軽にお立ち寄り下さい^^
https://ameblo.jp/yujiteiou/entry-12824453108.html

前奏
招詞
哀歌3章22~25節
頌 栄
たたえよ、主の民[こ改25]
開 会 祈祷
主 の 祈り(週報裏面)
十戒・祈祷(週報裏面)
子ども説教
子どもと親のカテキズム問56
「感謝のうちに歩む」
こどもさんびか
うたいましょう[改126(1節)]
牧 会 祈祷
讃 美 歌 225番
聖書
使徒言行録18章1~8節(新約P249)
サムエル記上2章1~10節(旧約P429)
説 教
「御言葉と御霊に動かされ
~伝道の主はキリスト」
宮武輝彦
祈 祷
讃 美 歌 534番
みことばの交読文
詩編20編7~10節
感謝のささげものと執り成しの祈祷
頌 栄 542番
祝 祷
報 告

讃美歌~♬

讃美歌225番(歌詞付)54年版「全ての人にのべつたえよ」
https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=5zSTFbOBrq4

1)すべてのひとにのべつたえよ、
  かみのたまえるみおとずれを。
  あめなる父はみ子をくだし、
  すくいのみちをひらきませり

2)あまねくのべよ、よき知らせを、
  まことの幸を もとめつつも、
  むなしきものにさそわれゆく
  世のはらからにのべつたえよ。

3)十字架のうえに死にたまえる
  み子こそ永久(とわ)のすくいなれや。
  かみのたまえる この知らせを、
  地のはてまでも告げひろめよ。

讃美歌534番(歌詞付)54年版「ほむべきかな、主のみ恵」
https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=wD-5VVZfZLA

1・ほむべきかな 主のみめぐみ
  今日(きょう)まで旅路を 守りたまえり

(折り返し)よろずの民よ たたえまつれ
  「あがないぬしに み栄えあれ」と

2・ほむべきかな 御名によりて
  うくれば物みな よからざるなし

3・ほむべきかな 主の御名こそ
  いまわの時にも 慰めとなれ

2023年10月8日 礼拝説教 中心聖句 

パウロは御言葉を語ることに専念し、ユダヤ人に対してはメシアはイエスであると力強く証しした。
使徒言行録18章5節

「主にあってわたしの心は喜び 主にあってわたしは角を高く上げる。わたしは敵に対して口を大きく開き 御救いを喜び祝う。」
サムエル記上 2章 1節

はじめに
伝道の主はキリスト、収穫の主に祈りつつ、共に、収穫を刈り取りたい。

「その後、パウロはアテネを去ってコリントへ行」く。哲学の地アテネ(アテナイ)伝道からアカイア州のもうひとつの都市コリントへ移動する。「ここで、ポントス州(黒海沿岸)出身のアキラというユダヤ人とその妻プリスキラに出会」う。「クラウディウス帝が(多分、キリスト信者との軋轢が生じたため)全ユダヤ人をローマから退去させるようにと命令したので、最近イタリアから来た」。アキラ・プリスキラ夫妻も迫害を逃れてきた人たち。「パウロはこの二人を訪ね、職業が同じであったので、彼らの家に住み込んで、一緒に仕事を」する。「その職業はテント(天幕)造り(もしくは、革職人)」。やぎの毛から織られた布地や、革によって製作した。日除けや、旅行者のための移動式住居(テント)等に用いた(使徒9,10章「皮なめし職人シモン」)。「パウロは安息日ごとに会堂で論じ、ユダヤ人やギリシア人の説得に努め」た。ユダヤ人会堂に、ギリシャ人も集い、主の言葉(福音)を聞いた。

「シラスとテモテがマケドニア州からやって来ると、パウロは御言葉を語ることに専念し[(別訳)霊に捉えられて]、ユダヤ人に対してメシアはイエス[イエスはキリスト、キリスト・イエスを]であると力強く証しした」とは、パウロは、大いに二人に励まされ、また、必要な支援を得て、主の霊に促され、御言葉を語った。後に「わたしが福音の宣教の初めにマケドニア州を出たとき,もののやり取りでわたしの働きに参加した教会はあなたがたのほかに一つもありませんでした」「あなたがたの益となる豊かな実を望んでいる」(フィリピ4章15~20節)と感謝を、フィリピのすべての聖徒たちに伝え、神の栄光をほめたたえた。この時、「しかし、彼らが反抗(敵対)し、口汚くののしった(冒涜した)ので、パウロは服の塵を振り払って言った。『あなたたちの血(負うべき結果としての破滅のこと)は、あなたたちの頭に降りかかれ。わたしには責任がない。今後、わたしは異邦人の方へ行く』」と、主を証しする言葉(福音)に反抗する、あるユダヤ人たちと決別する。

「パウロはそこを去り、神をあがめるティティオ・ユストという人の家に移った。彼の家は会堂の隣にあった」。伝道の拠点が、会堂から会堂の隣(異邦人の家)に移る。しかし、「会堂長の(ユダヤ人の)クリスポは、一家をあげて主を信じるようになった。また、コリントの多くの人々も、パウロの言葉を聞いて信じ、洗礼を受けた」。多くのユダヤ人が、パウロの告げた福音、つまり、キリストに敵対しながら、クリスポは、「一家をあげて主を信じる」ように導かれた。後に、パウロは、クリスポとガイオ以外にコリントのだれにも洗礼を授けなかったことを「神に感謝している」と言い、「福音を告げ知らせるために」、キリストから派遣された者と証しする(コリント一1章14~17節)。コリントの教会も、異邦人だけではなく、ユダヤ人の回心者も与えられたが、すべては、神の恵みによる救いの実(同15章10節)。
おわりに
ハンナは、主が願いを聞かれた時、「この子(サムエル)を主にゆだねる」ことを告白し、祈りをささげた。伝道の目的は、人数献金増加ではなく、主の栄光のため。そのすべてにおいて、十字架の言葉を、告げしらせることに、徹したい。

(Mynote)
二〇二三年一〇月八日(日曜日)、今日も兄弟姉妹共に礼拝を守れる事を神様に感謝する。
(子供メッセージ)
『子供と親のカテキズム 問五六』
「神様の子供とされ、神様と共に歩む私達に、神様が求めて居られる事はなんですか。」
「感謝する事です。私達は、感謝の内に、神様を愛し、家族や友達を愛し、神様の創られたものを大切にし、祈りつつ歩むのです。」
(公同礼拝)
『使徒行伝』(第一八章一〜八節)
『サムエル記上』(第二章一〜一〇節)
この『使徒行伝』の箇所は、アテネを去ってコリント地方へ行き宣教伝道をして居たパウロ達と、そこに住んで居たアクラ(又はアキラ)と言うポント生まれのユダヤ人と、その妻プリスキラと出会った事から始まるエピソードである。
当時、クラウデオ帝が全てのユダヤ人をローマから退去させる様にと命令し、ユダヤ人だったアクラとプリスキラはイタリアから出て来てそのコリント地方に住んで居た。パウロも当時は伝道しながら働いて居て、その職業は天幕造り(テント造り)であり、それはアクラと同業だった(アクラも天幕造りを生業として居た)。その同業だった事から親しみも湧き、交流の助けにもなったろうか。
ギリシャ(アテネ)は哲学の町、論理で神秘の事もなるべく解決しようと試みる人が多く居た。コリントは雑多な町で、いろんな民族が住んで居り、思想・考え方も多様であった。パウロは先ずこのギリシャ人の論理的思考に対峙する事になり、出来るだけ争わず儘、そのギリシャ人を始めユダヤ人達の説得に努めて居た。
「シラスとテモテが、マケドニヤから下(くだ)って来てからは、パウロは御言(みことば)を伝える事に専念し、イエスがキリストである事を、ユダヤ人達に力強く証した」(『使徒行伝』第一八章五節)
しかし彼等はパウロの言う事に耳を貸さず、心が遠くに離れた儘で、反抗し、罵り続けた為、パウロは自分の上着を振り払って彼等に言った。
「あなた方の血は、あなた方自身に返れ。私には責任が無い。今から私は異邦人の方(ほう)に行く」(『使徒行伝』第一八章六節)
と言い、彼等をあとにした儘、その場を立ち去った。これはパウロに反抗した者達(又はその民族)を迫害し争いの対象にした訳でなく、然るべき必要な伝道をした上での結果・成果は神様に委ねる(任せる)と言う事であり、パウロは自分に与えられたすべき事をしてその場を立ち去った事になる。そしてパウロはそこを去り、テテオ・ユストと言う神様を敬う人の家に行った。
その家は会堂と隣り合って建っており、会堂司(かいどうつかさ)のクリスポは、その家族一同と共に主(しゅ)を信じた。そしてそこで多くのコリント人もパウロの話を聞いて信じ、続々とバプテスマ(洗礼)を受けた。それからすぐパウロに印(しるし)があり、或る夜、幻の内に主がパウロに言った。
「恐れるな。語り続けよ、黙って居るな。あなたには、私が付いて居る。誰もあなたを襲って、危害を加える様な事は無い。この町には、私の民が大勢居る」と。そしてパウロはその後、一年六ヶ月(一年半)の間ここに腰を据えて、神様の言(ことば)を彼等の間に教え続けた。
信仰が人の間に伝わるのは聖霊の働きに依り、その聖霊は神様から来る。パウロは一貫してイエス様の事を伝え続け、イエス様の存在に依り全ての人の罪が許される切っ掛けを得る事が出来(悔い改めにより)、イエス様の存在そのものが神様から人に与えられた恵みである。この事を変わらぬ姿勢でパウロは語り教え続け、その内容に納得し信じる者も居れば、先の人の様に罵り、信じない者達も居た。大事は、人の力により信仰が伝わるのでなく、神様の御計画の内で聖霊が働き、それに依り人々が救われる事に在る。パウロも人の子であり、その伝道の成果を思う上でやはり不安や悔しさを覚え、それにより挫折を感じる処もあったろうか。それは人の弱さであり、神様はそのパウロに励ましを与え、印を見せ、それでも伝道を続ける事・本当の信仰に就いて語り続けよと教えて下さった。この信仰の在り方は現代にも続いて居る事であり、人を根底から救うのは神様の御力であり聖霊である事を、先ず全てのクリスチャンは改めて思い出し知らねば成らない。人の力で人を救うのは無理である。それをごり押しするのは人の傲慢に在り、その傲慢から邪教が蔓延り偶像が生まれる事もある。
人は日常に生きて居て(生かされて居て)、感謝に就いてそれほど考えない・感じない事がある。今目の前にある事・身の周りに在る「自分を生かしてくれる資材・環境が在る」のを当り前と見做し、又は殆ど考えず、何となくただ生きて居る…と言う状態で居る事が多い。しかし普通に考えてそれ等が目の前・身の周りに在るのは当り前でなく、自分以外の、人間以外の何者かに依り与えられて居ると分かる。その「何者」が神様であり、才能を人に与えられたのも神様であり、その人の命を誕生させて下さったのも神様であり、その命を神様の御計画の内に守られて居るのも神様である。それら全ての事を、人が自力でして居ない事が既にそれを証明して居る。人に与えられた才能、その才能により作られた資材や環境、自分を生かす為に備えられた目の前に在る物・周りに在る物は全て神様から人に与えられた恵みに在り、全ての人はこの事を神様に感謝せねば成らない。それを感謝せぬとは、それもまた傲慢に繋がるのである(『サムエル記上』第二章一〜三節を参照の事)。
人が自力で作る世界には全て限りが有る。しかし神様が創られた世界には限りが無い。救いを夫々の世界に求めるなら、限りが有る世界より、限りが無く永遠の救いに与れる事に恵みが在り、それは信仰に生かされる事に切っ掛けが在り始まりが在り、罪が贖われ(清められ)、永遠の命を与る事が出来る様にされたイエス様の存在を信じる事に始まる。イエス様が人に与えられた事も、神様に依る人への救いであり恵みである。そしてこの救いは人にとって最大の救いである。

【日本キリスト改革派 男山教会】
https://otokoyamakyoukai.jimdofree.com/

【最寄りの教会検索用】
https://www.rcj.gr.jp/

Table Café~

榎本保郎牧師 ミニ説教8 「復活は神さまのわざ」
https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=oYuXSqAVIXI&list=PLsm9yO2iPJwbdJksJGAKNxpg1NbzEP7W9&index=8

「顔が、水に映る顔と同じように」THE DAILY with Arthur Hollands 2023/10/14
https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=FdMmzaaTqdY

ハーベスト・タイム・ミニストリーズ
https://www.youtube.com/@HarvestTimeMin?app=desktop

We Are the World   歌詞、日本語訳付き
https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=XblpaAyj234
(お暇な時にぜひどうぞ)

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