原爆 被爆者3世

6月某日、祖母の25回忌で田舎に帰った。
瀬戸内の島で幼少期はよく田舎に帰っていた。
今は両親も高齢になり、コロナ禍でもあったため、帰れずにいた。

先日、叔父さんから祖母の25回忌があると連絡が入った。
私はもう、帰れないかもしれない、最後かも知れない、
祖母のお葬式に出られなかった私は、帰られる時に、今、帰った方が良いと思い、自分で運転して母を連れて帰ることにした。

50歳を過ぎた私は、高速道路を運転しながら、よく父が運転して帰っていたなと思い出し、懐かしい道のりを6時間半掛かり帰った。
もう母の実家は無いが、母の弟が近くに家を建てて住んでいる。
久しぶりに親族と会った。懐かしい話で盛り上がる。
実家を引き払った時に出てきただろう、祖母が保管していた写真を持ってきてくれていた。
それを見ると、母の結婚式の時の写真から、私の産まれた時からの幼少期の写真が沢山出てきた。私は初孫だったので、私自身の弟の写真よりも私の写真が多いのである。

私は祖母が大好きだった。
いつも田舎に帰ると、祖母にずっとくっつき回っていたのを思い出す。
ただ夜、寝る前に祖母の隣で寝るのだが、祖母が電気を消した後に
必ずと言って良い程、原爆の話をする。
祖母は原爆の爆心地から1㎞以内に住んでいたようだ。
朝、家で食事を終え、玄関先に出た所で光った物を見て、爆風で覚えてなく
気が付いたら家の下敷きになっていたようだ。
その時に片足を家の柱に挟まれていて抜けられず、一緒に住んでいたおじいさんは、家の下敷きになって亡くなっていたようだ。
祖母は、必死に片足を何とか自力で抜き出し、外に出たら小学校に登校途中の小学生が、ガラスの破片が身体にいくつも突き刺さり倒れていたようだ。
その子を背負って、とにかく病院を目指して歩き探したようだが、
そこら辺に死体が重なり、川は赤い血でこの世とは思えない道のりを歩いた。何とか助かったが、原爆の光を見た影響で片目が青かった。

私はその事しか覚えていない。平和な時に生きているが、
その事を忘れてはいけないと思っている。
おばあちゃん、有難う。




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