見出し画像

「キモい」という言葉について

この文章は何?

この中で、京都大学の自治にまつわるツイートや意見が出てきますが、私が1番伝えたいのはその是非ではありません。SNS上で(特に、誰にでも意見が見れる状態で)意見を発表する時、もっと慎重に言葉を選んだ方が良くね?ということです。そう思うきっかけが、たまたま京都大学の自治にまつわるツイートだった、というだけです。

それを了承した上で、以下の駄文を読んでくださればありがたいです。

きっかけ

ある日、こんなツイートを見かけた。

これに対し、Twitter上で様々な意見が寄せられた。ツイート主に対し、ある者は「演説者だって緊張している」「じゃあお前がもっと上手い演説してみろよ」と批判し、ある者は「その通りである」「このツイートへの批判が分断を招いている」と賛同していた。

そして、これらの意見に対し、ツイート主がこのような補足記事をnoteに上げた。

是非原文を読んでいただきたいのだが、このnoteの中で、ツイート主は次のように述べている。

“一方、「下手くそでキモい」と思ったこと自体はどうだろうか。まず思うこと自体を規制することはできない。これは自明であると思う。そして、何故断定して外部に発言したか。これは自信があるが京大当局の現状を正しく認識せずにあの集会の現場に遭遇したら、「うるさくて迷惑な過激派」以上の感想を抱かない奴が9割だと思う。僕自身も他方では1回生まで演説に参加してこんなに盛り上がれるんだって感動したのもしたんだよ、いやほんと。未来はここにあると思う。しかしそれは現状では輪の外部の人に好感を持ってもらえるような演説ではなかった(と思う)。それはそれで主張していいと思うし、現状として真摯に受け止められるべきだと思う。”

「演説が下手」という点に関しては、真偽はおいておいて、確かに批判として妥当なものだと思う。

私は、典型的な不真面目大学生であり、キャンパスを訪れる頻度もそこまで高くなかったが、それでも彼らの演説を耳にすることはあった。私は、高校時代の様々な経緯から、思想・信条がやや反社会的であったこともあり、個人的に京都大学の自治団体が主張する内容に関心を持っていた。彼等が主催する集会にしっかり参加したことはないが、外から若干拝聴するくらいはしたことがある。そこで思ったのは、日頃からこのような問題に興味がある人はともかく、特に関心がない人からすれば、街頭での選挙演説と同様、ただの騒音としか感じられないだろう、ということであった。

感じ方に個人差があるため、「演説が下手」という主張の客観的な真偽は不明であるし、検討するのは難しいであろう。しかし、少なくとも「演説が下手」という主張自体は、検討に値する批判ではないだろうか?

また、このnoteでは、「じゃあお前がもっと上手い演説してみろよ」という批判に対し、「批判は議論の基本である。」「私たちも京都大学の学生として、自治や学生運動の変革範囲に内包される対象であり当事者の一人である。運動に参加しない学生の意見もまた軽視されるべきではない。」と反論している。これらも、間違った主張ではないと思う。

けれど、このnoteを見た時、自分は何か違和感を感じた。それは、「キモい」という言葉に対してである。

「キモい」の意味

「キモい」という言葉を、ロジカルな批判のために使うのは適切だと言えるだろうか?

「キモい」を国語辞典で引くと、次のようにかかれている。

[形]俗に、気持ちが悪い。気色が悪い。きしょい。

では「気持ちが悪い」とはどういう意味なのか?さらに国語辞典を引くと次のようになる。

1 心身の状態が悪い。胸や胃が重苦しかったり、吐き気がしたりする。「食べ過ぎて―・くなる」
2 見たり触ったりしたときの感じが悪い。「―・い色の虫」「靴が湿っていて―・い」
3 不満や疑問などが残り、心が晴れない。「名前がなかなか思い出せず、―・い」

件のツイートには「演説してるやつが下手くそでキモい」とある。すなわち、「演説者の技量が低く、他者に不快感を与えている状態である」という主張であると思われる。よって、このツイートでの「キモい」は、2の「見たり触ったりしたときの感じが悪い。」という意味で用いられていると言える。

このツイートで使われた「キモい」という言葉、つまり、誰かの行動や状態を指し示した上で使われる「キモい」という言葉は、異質なものを見た時に湧き上がってくる、嫌悪感や不快感を表す言葉だと言える。

「キモい」の持つ力

しかし「キモい」は、単に自分の中の嫌悪感や不快感を表す言葉にとどまらず、さらなる意味を持っているのではないだろうか?

「キモい」という言葉を見ると、私はこのツイートを思い出す。

国語辞典での意味に、このツイートの主張を加味すると、「キモい」とは、自分の中の「気持ち悪い」「生理的に無理」という言語化できない感情を表した上で、そう思う原因を相手に帰責する、とんでもないパワーワードであると言える。

街中を歩いている時、あるいは学校で廊下を歩いている時に、通りすがりの人間から「キモい」と言われたとしよう。メンタルの強い者は何も気にせず通り過ぎるかもしれないが、普通の人間は、怒りの感情が湧き上がってきたり、「自分に何か落ち度があったのだろうか」などと考えてしまったりしてもおかしくないのではないだろうか?

言葉に気を付けよう

昨今、SNSの登場により、気軽に情報発信が可能になった。しかしその結果、仲の良い友人に話すノリで、下手すれば相手の人格を誹謗中傷するような言葉を、気軽に使う場面が散見されているように思われる。そして、「キモい」という言葉は、「生理的に無理!」「その原因はお前にある!」というニュアンスを含んでいる。つまり、「殺すぞ」「死ね」「バカ」と同じように、ある程度親しい者との間で冗談として、あるいは、自分が襲われそうになっていたり、売られた喧嘩を買わざるを得ないなど特殊な状況下で使われるべき言葉であり、そうではない状況で使えば、トラブルを生む原因になる強い言葉である。ましてや、特定の者だけしか見れない状況下(Twitterなら鍵垢)で使うならまだしも、誰でも見れる状況で「キモい」という言葉を使えば、どのような結果を招くかは、火を見るよりも明らかであろう。

そして、これは根拠のない直感であるが、「キモい」という言葉は、「殺すぞ」「死ね」「バカ」等と比べて、あまりにも気軽に発信されてしまっているのではないだろうか?

「キモい」という言葉の持つ強い意味を、我々はもっと認識すべきであると思う。

使われている言葉の強さではなく、その主張そのものの是非を見るべき、という反論があるかもしれない。しかし、相手の人格に敬意を払うことと、相手の考えを批判することは、明確に区別されるものである。例え主張の内容自体が正しくても、相手の人格を傷付け得るニュアンスの言葉を使用して良い理由にはならない。

また、有意義な議論をするためには、自分だけでなく相手もなるべく冷静である必要がある。相手を激昂させたり、精神的に攻撃したりする言葉を使えば、相手は冷静さを失い、有意義な議論は期待できないだろう。それは互いにとって不幸なことである。

最後に

何か情報発信したり、意見を主張したりする時は、無駄に強い言葉を使っていないか、感情的にさせる言葉を使っていないか、本当にこの書き方で良いのか、よく吟味した上で行うべきであろう。

自分自身への戒めも込めて書き記した。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?