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「書くを考える」の、はなし。#37

しばらく「書く」から離れてしまっていた。

私生活で途方もなく辛く感じることが重なって、文章で何かを表現するという心の余裕が全くなくなってしまっていた。

「書く」は頭に思い浮かんだことを書き出せばいいというものではない。
伝えたいことを整理して、構成を考えて、伝わる言葉に変換していく。それは高いカロリーを消費する行為であり、自分の心が弱ってしまった時には、思うように「書く」に向かえないことを、この約1ヶ月で思い知った。

一方で、大好きな川上未映子さんの短編集の書き写しは、この不調の期間にも順調に継続できていた。どんなに悲しくても、好きな作家が編み出した言葉をなぞって写すだけの作業はそれほど負荷がかからず、無心に追いかけているうちは、文芸の世界に入り込むことができた。

私が「書く」について語るとき、いつも前者の文章表現をイメージしている。すなわち、後者の短編集をなぞる作業は「書き写し」であって、私が思っている「書く」とは、少し離れたところにあるのだ。

日本語は不思議なもので、この前者の文章表現をするとき、私は厳密には「書いて」はいない。PCに文字を打ち込んで原稿を作っているだけで、鉛筆を持って文字を「書いて」いるのは、明らかに後者の方だ。

「書く」という作業は、紫式部の時代よりも古くからの行為で、物語を紡ぐ、手紙を送る、歌を詠む・・・と、歴史の中でも沢山の意味を持って語られてきたはずだ。
それは現代の私たちにも感覚としてずっと残っていて、「書く」とはすなわち、決して文字を記すことだけではなく、誰かに届く文章を紡ぐために「考える」時間そのものを、しっかりと言葉の意味に残してきたのだろう。

だからこそ「書く」は心の負荷が大きく、私以外の誰かに伝わらない限り、それは「書いた」ものとは言えないような気がしてしまう。
しかし、ひとたび書き上げることができれば、書き写しには決して代替できない、大きな達成感を得られることも知っている。


近い将来、人は鉛筆とノートを持って文字を書くことを、永遠に手放すかもしれない。「作文することって、なんで書くっていうんだろうね?」と、小さな子供が疑問に思う日は、本当に来てしまうかもしれない。

時々、LINEでのコミュニケーションを「メールしたよ」と話す人がいるのは、これに近いだろうか。厳密に言えば似て非なるものだが、相手にテキストでメッセージを送る方法が、メールからLINEヘと形が変わったに過ぎないので、同じ意味合いで「メールしたよ」が残るのは、全く不思議なことではない。
私たちの行動が新しい技術と共に変革するとき、言葉は少し遅れてついてくるのかもしれない。

文章はどんどんキーボードで生み出されるようになって、少しずつ「書く」という言葉も、行動の後を追って消えていってしまうかもしれない。
でも、「メールしたよ」がまだ生きてるように、しばらく「書く」は、そのまま「書く」でいてほしいなと思う。

理由はうまく言えないけれど、やっぱり、
「書く側の人生」を生きること、「書く人になる」ということに、
途方もなく憧れがあるから、だろうか。

私にとっては、そんな憧れの気持ちも「書く」に内包されているのだ。

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