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・湾岸の痕跡無限震災忌


あの日、私は仲間と喫茶ユーハイムにいた。14:46、強い揺れが来た。
テーブルの下に潜る。
誰もそうしなかった。

尋常じゃない揺れだった。
すぐに帰宅して、テレビをつけた。

酷いことになっていた。
津波の中継だ。

伊勢湾台風の津波で、命からがら屋根に逃れて助かった記憶が甦った。

テレビから目が離せない。
夫の両親の在所は東北。北関東出身の夫は、声も出ない。
ウッと呻いて耳を抑える。
「聞こえない!」と呟いた。

突発性難聴。
近所の耳鼻科で、荒治療してもらった。

1週間後に心臓手術を控えて、神経がピリピリしていた。
故郷の想像を絶する災害を、受容できないのだ。

小さな女の子が、両親がいなくなった、と泣き叫ぶ姿にがツンとやられたようだ。

夫は心臓を取り出す大手術を乗り越えた。

数ヶ月間は娯楽と縁を切った。
テレビは報道番組だけ。
映画も芝居もスポーツも観に行く気になれなかった。

翌年、福島で、夫のルーツを辿る身内の会が開かれた。
我々2人は脚を伸ばし、レンタカーで、福島の海岸沿いに、南相馬から東京電力の原発災害立ち入り禁止ゲートまで走った。

目を覆う残状。
瓦礫の山々。
1年前と何一つ変わっていない風景。

飯館村では、痩せこけた家畜が哀れだった。
郡山では、ガイガー計数機の設置が目立った。
会津の親戚で見た地方紙は、原発災害の記事で埋め尽くされていた。

二本松市で出会った障害者カフェとは、今も交流が続いている。
浪江町から避難してきた人たちの溜まり場だ。
東京電力を即退職した人の話を聴いた。

仮設住宅に案内して頂き、老夫婦の話を伺った。

全てが想定外の体験。
名古屋は外国だ!

以来、毎年3月11日、カフェにささやかな贈り物をしている。

昨春、福島に3泊したが、あいにくスケジュールが合わず、被災者の誰にも会えなかった。

忘れない、あの地獄のような光景を。
生きている限り、彼らとお付き合いをしようと思っている。

・フクシマへ尾州名物贈る春 

・突発す夫の難聴震災日 

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