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【試し読み】女による女のための短編シリーズ「ままならない私の体」第4弾『コンバッチ!』

90年代後半からゼロ年代前半の格闘技ブームのとき、“無敗の男”として恐れられたヒクソン・グレイシー。そして、ヒクソンを筆頭とするグレイシー一族に代表されるブラジリアン柔術は格闘ファンのみならず、多くの人に知られる存在になりました。“柔よく剛を制す”のとおり、力だけに頼らないことから、エクササイズとして、護身術として、習う女性も多いそうです。著者の蛭田亜紗子さんも柔術を学ぶひとり。経験者ゆえの詳細な描写と、蛭田さんらしい感情表現、最後の一行が示すもの、と本作もこれまでの3作品同様に魅力的! この「試し読み」は、主人公が思いがけない出来事に遭遇するまで、の全体の2割程度です。是非その先の本編へ、主人公の雄姿へとお進めください。

(イラスト:ばったん)

■著者紹介

蛭田亜紗子(ひるた・あさこ)
1979年北海道札幌市生まれ、在住。2008年第7回「女による女のためのR-18文学賞」大賞を受賞し、10年『自縄自縛の私』(新潮社)を刊行しデビュー。近刊『共謀小説家』(双葉社)では、明治期の文壇を舞台に、小説家の夫と妻の独特な絆を描いた。そのほかの著書に、『凜』(講談社)『エンディングドレス』(ポプラ社)などがある。

■あらすじ

「離婚してください」夫から突然そう告げられた四十四歳の苑香は、不倫相手が既に身ごもっていることから、押し切られるように、半ば諦めるように、独り身になる。仕事はエッセイ漫画の連載一本だけで、それも不人気と編集者の退社で打ち切りが決まっている。一方で、漫画のネタにと勧められるがままに習いはじめた柔術にはまっていく。なりゆき任せで、人生どん詰まり、燃えさしの彼女が最後に…。人気シリーズ「ままならない私の体」第4弾。

■本文

 白いテーブルクロスに額をこすりつける勢いで頭を下げるしゅうへいと両親の横で、その女性はカピバラみたいな眼でまっすぐ私を見据えていた。

「明日、うちの親が来るから。昼にホテルの中華予約してるんで、現地待ち合わせで」
 脩平に告げられたのは前夜、ベッドでスマホを眺めながら寝落ちしかけているときだった。
「えっ、明日? いつ決まったの?」
 一気に眠気が吹き飛び、からだごと脩平のほうを向いた。長野に住む脩平の両親がこちらにやってくる場合、いつもなら一ヶ月前には話を伝えられている。突然の来訪なんてこの十二年間いちどもない。
「や、なんか、急にこっちに用事ができたみたいで」
 妙に歯切れが悪い。詳しく追及したかったが、脩平はごろんと背を向けて本を開いた。一頁も進んでいないうちに寝息が聞こえはじめる。私は脩平の手から文庫本を抜き取って枕もとに置いた。だいぶ白いものが増えた髪を指でくように撫でる。
 脩平の両親はよいひとたちだが、それでも会うとなると多少は気が張ってしまう。天井を見上げると憂鬱なため息が洩れた。去年ひとめ惚れして買ったけどほとんど出番のないツイードのワンピース、あれを着ていこうと決めて、なんとか気分を浮き立たせる。ホテルの中華なんて久しぶりだ。コース料理なんだろうか、ふかひれ食べたいなあ、前菜にクラゲとピータンが出ると嬉しいなあ、などと考えているうちに意識は眠りに溶けた。

 翌日、待ち合わせの五分前にホテルのロビーから脩平に連絡を取ると、少し遅れるのでさきに店に入っていてほしいと言われた。中華レストランの入っているフロアにエレベーターで向かう。ていねいな物腰の店員に迎えられ、ふかふかの絨毯を歩いて奥の個室へ案内された。きゅうが奏でるゆったりとした中国音楽が流れる空間にいると、食事への期待が高まってくる。このランチのために朝食を抜いていた。
 脩平とその両親は十五分ほど遅れて入ってきた。
「お久しぶりです! お元気でしたか?」
 立ち上がり、よそゆきの笑顔をつくって迎える。
 両親の後ろに見知らぬ女性がいることに気付いた。脩平に女きょうだいはいない。親戚だろうか。三人とも大きな紙袋をげている。
「お荷物、こちらに置きましょうか」
「ううんいいのいいの。気にしないで」
 義母はあわてて手を振って断り、紙袋を隠すように足もとに置いた。
のりさんは私のとなりの席に座って。脩平はその横に」
 義母の言葉から、私は謎の女性の名前を知る。背が高くて薄い顔立ちの女性だ。黒髪をまんなかで分けているため、面長が強調されている。三十代半ばぐらいだろうか。ぬぼっとしていて、どことなくえたいの知れなさを感じた。円卓の私の左どなりは義母、そのとなりは謎の女、脩平、義父の順。並びに違和感を覚えつつ、私はドリンクメニューを横の義母に差し出した。
「お飲みものいかがします? 私はビールをいただこうかなと思ってるんですけど、紹興酒やワインもありますよ。ソフトドリンクもいろいろあるし、中国茶もいいですよね」
そのさん、その前にお話ししなければいけないことがあるんです」
「母さん、それは乾杯のあとで――」脩平があわてたようすでさえぎる。
「こんな気持ちで乾杯なんかできないわよ」
 謎の女を挟んで言い争うふたりをにこにこと見守ることしかできない。「お話ししなければいけないこと」という言葉に胸が騒ぐ。
 わかったよ、と脩平が言った。自分の膝に両手を置き、私をまっすぐ見る。
「え、なに?」
「苑ちゃん。離婚してください。このひととのあいだに子どもができたので」
 離婚? 子ども?
「冗談? え、ほんとなの? どういうこと?」
 とっさに立ち上がるが、どうすればいいかわからず、おろおろとからだを揺らしてから腰を下ろした。
「苑香さん、こんなことになってほんとうにごめんなさい!」
 義母が急に芝居がかった大声を上げて頭を深く下げる。それにつられて脩平と義父も頭を下げた。女だけは姿勢を変えず、ぬめっとした黒い瞳で私を見ている。いたたまれず、私のほうから視線をらした。
 夫婦間のセックスが完全になくなって五年以上経つ。十歳の年齢差がある脩平には締めた蛇口からぽたぽた水滴が出る程度の性欲しか残っていないと思っていたし、機能的にもできなくなっているのかもしれないと疑っていた。それがまさか、妊娠させるほどの旺盛さがあるとは。
「あの、このひとの歳、知ってます? いま五十五歳で定年まで五年しかないんですけど。子どもが成人するころにはかなりのおじいちゃんになってますけど。それでいいんですか? 不安とか、ないんですか?」
「苑香さんの心配ももっともだけど、私たちもできる限りの協力をするので。こんな年寄りでもまだまだ元気だから」と義母が横から口を挟んだ。
 いや、心配してるわけじゃないんですけど、という言葉を呑み込む。義父に至ってはこの部屋に入ってからまだひとことも発していない。
「定年後もしょくたくとして仕事は続けられるから」と脩平もかたい声音で言う。
「でも給料はがくっと減るって言ってたじゃない。それに嘱託でいられる年数も決まってるんでしょ? だから定年後のことを見据えて生活の見直しを図らなきゃいけないねって話してたのに。だいじょうぶなの? 子ども育てるのってすごくお金かかるよ?」
 言葉に詰まる脩平の代わりに、女が口を開いた。
「苦労ならいままでさんざんしてきました、独りで。脩平さんとふたりでならどんな苦労も耐えられます。たとえ脩平さんが病気で倒れても私がなんとかします」
 カピバラみたいな眼からは想像もできない、凜とした強い声だった。横で聞いていた義母の眼がうるみ、ハンカチではなをかむ。
「そもそもあなたはどこのだれですか?」
 完全に気圧けおされつつ訊ねた。
「彼女は昼休みによく行く焼き魚屋の店員で……」
 女の代わりに脩平が答える。
 焼き魚屋。干物みたいな枯れたものを食べながら性欲をたぎらせていたのか。
 脩平はお世辞にも女性にもてるタイプではない。離婚やら妊娠やら以前に、そういう対象として見てくれる女性が私以外にいたことにまず驚く。ただのおじさんだ。しいていえば歩いているときに道を聞かれることが並外れて多いぐらい。人畜無害そうに見えるのだろう。実際、分け隔てなくやさしく親切だ。先月映画を観に出かけた際、道ばたで座り込んでいるおばあさんを見かけ、いちどは通り過ぎたものの「認知症で徘徊して困っているのかもしれない」と言って戻って、映画の上映時間に間に合わなかったことがあった。実際は家族の車を待っているだけで、頭のしゃんとしたおばあさんだったのだけど。
 それ以前にも、通話しながらATMを操作しているお年寄りを見て特殊詐欺を疑い、説得を試みるも聞き入れてもらえず、近所の交番から警察を呼んだところ、詐欺ではなく電話の相手はほんものの息子だったということもあった。
 ああそっか、やさしさや親切心があだになったのかも、と腑に落ちる。よその女が入り込む隙になったのかもしれない。
「いま住んでるところは苑ちゃんがそのまま住み続けていいから」
 そのまま住み続けていいって、あのマンションの部屋は私の両親が生前分与のつもりで買い与えてくれたものだ。そりゃそうでしょ、と乾いた笑いが洩れる。
 うつむくと床に置いてある紙袋が目に留まった。アカチャンホンポ、西松屋、メゾピアノ、プチバトー。一瞬のうちにそれらのブランドロゴが認識される。――ああ、いくら神妙なようすを見せていたって、さっきまで四人でショッピングをしていたのだ。生まれてくる子どものことを考えてうきうきと選んでいたのか。なにしろ両親にとっては諦めていたであろう初孫だ。息子に告白されたときは嘆いたかもしれないが、いまや期待のほうが上まわっているのだろう。
 そう思うと一気に力が抜けた。私がここでいくらごねてもいまさら無駄だ。服を買っているならすでに性別だって判明している可能性が高い。
「赤ちゃん、元気に生まれてくるといいですね」
 降参を表明するようにそう言うと、脩平の両親はほっとした表情になった。


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