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《動物介在療法の小説》 前川ほまれ『臨床のスピカ』無料公開3

第2章 2023年8月 水のないプール

 隣のベッドから聞こえた音で、鈴木小夏は目を覚ました。何の音かはわからないが、頰を軽く打つような響きだった。すぐに、再びの静寂が訪れる。
 枕元に顔を向けると、ベッドネームに印字された自分の名前が薄闇に霞んでいた。床頭台の上で充電していたスマホに手を伸ばし、寝起きのぼんやりした頭で時刻を確認する。まだ、朝の六時だ。溜息が出そうになるのをグッと堪え、病床を囲むグリーンのカーテンに目を向けた。病室の明かりが一斉に点灯するのは、午前七時。朝食を載せた配膳車が病棟ホールに到着するのは、八時ちょうど。今はまだ、起きるには早い。何度か寝返りを繰り返したが、瞼が重くなる気配はない。隣のベッドから、今度は洟を啜る音が聞こえた。
 同室者の生活音を耳にしていると、昨日まで寝起きしていた個室の病室が恋しくなる。窓からの採光は抜群で、革張りのソファーは横になれるほどの長さだった。衣類を吊るせるクローゼットもあり、その隣には磨き上げられた鏡台が完備されていた。個室の壁は厚く、隣の病室からの物音で目を覚ますこともない。ところが、昨日この二人部屋に移ってからは、環境が一変した。窓から離れた廊下側の病床になり、誰かの足音が耳に残ることも多い。革張りのソファーはおろか、ベッドの周囲には椅子一つしか置けない。大き目のクローゼットは、低い棚と小さな床頭台に変わっている。あらゆる物音を遮断していた厚い壁は消え去り、今は寝息すら通過させる薄いカーテンが周囲に垂れ下がっているだけだ。
 個室で過ごした数日間を思い出しながら、再びスマホに手を伸ばした。LINEを開き、昨日までの母とのやりとりに目を通す。
『いつ、二人部屋に移るの?』
 移室が決まるまでは毎日、同じメッセージが届いていた。個室の差額料金は、二人部屋の倍以上らしい。入院費のことを考えると、わがままは言えない。
 それでも、どうしても諦め切れないことが一つだけあった。個室の病室には、ユニットバスが設備されていた。そこには小さめの洗面所があり、いくらでも手洗いをすることが可能だった。けれど、この二人部屋にはユニットバスは存在しない。これからは大浴場で身体を洗い、共用の洗面所を使うことになる。我慢していた溜息を漏らしながら、低い棚に顔を向ける。そこには除菌シート、除菌消臭スプレー、アルコール手指消毒用のジェル、使い捨てのビニール手袋が置かれていた。徐々にそれらが、柔らかな光を放ち始める。何度か瞬きを繰り返すと、その光は病魔が作り出した幻だということに気付いた。
 本当に馬鹿みたいだ。
 同級生たちは誰かに恋をしたり、部活で汗を流したり、カラフルなドリンクを飲んだり、SNSに楽し気な写真や動画をアップしている一方で、小夏は消毒用品を手放せないまま学校にすら顔を出せていない。最低な現実から逃避するように、強く目を瞑る。一度手放した眠気が戻ることはなかった。
 七時になり病室の明かりが灯ると、深く息を吸い込んだ。意を決して聖域と決めているベッドから、恐る恐る床に目を落とす。入院時に購入したスニーカーが、危険地帯と定めている床に揃えてある。室内履き用だし、表面の白いキャンバス地に汚れはない。それでも、履くには勇気が必要だ。スニーカーの隅々まで除菌消臭スプレーを振り掛けて、やっと足を入れた。
 廊下に踏み出し、共用の洗面所を目指した。起きてからもう三回はアルコール消毒用のジェルを両手に塗りこんではいたが、やはり汚れているような気がする。ほの暗い不安は、両足を小走りにさせた。
 共用の洗面所には、既に人影があった。洗面台前の椅子に座った中年男性が、電気シェーバーを顔面に押し当てている。その姿は父親を想起させた。胃が重くなったが、共用の洗面台は二つしかない。苦い唾を飲み込んでから空いている方に足を向け、洗面鏡に映る中年男性に無言で会釈をした。
「鈴木さん、おはよう」
 電気シェーバーが駆動する音に、中年男性の低い声が重なった。一瞬だけ肩を震わせ、平静を装いながら再び頭を下げる。
「おはようございます」
「昨夜は特に蒸し暑かったね。起きたら、寝汗が凄くてさ」
 中年男性は幸いにも、それ以上会話を広げようとはしなかった。今は他人と、世間話をしている余裕なんてない。
 洗面台の前に立ち、寝起きの顔を洗面鏡に映した。伸ばしっ放しの髪は、所々ひどい寝癖でハネている。くすんだ目元には大きな目やにがこびり付き、唇は乾燥してささくれていた。顔色は青白いが、点在するニキビだけが膿んだ赤を灯している。手洗いのことばかり考えていたせいか、マスクも、ヘアブラシも、洗顔料も、歯ブラシも、自室に忘れていた。
 手洗いを繰り返しているせいで、両手はひどい有様だ。指の関節部分や手の甲には、ぱっくり割れたあかぎれが痛々しく血を滲ませている。
 手拭き用ペーパーを一枚抜き取る。蛇口レバーは、上げ下げして水が出るタイプだ。ペーパー越しに、蛇口レバーの端を恐る恐る押し上げる。最低限の接触で水が流れ始めると、口元が緩んだ。
 石鹸は幸運なことに、手をかざすだけで出てくるディスペンサー式の物が常備されている。掌に盛ったホイップクリームのような泡を、急いで両手に馴染ませていく。指紋や掌紋すら消すような勢いで、無心で両手を擦り合わせた。指の間や爪の先まで、ちゃんと泡を染み渡らせないといけない。自ら定めたルールとして、親指から小指に向かって洗うと決めていた。その順番を間違えたら、最初からやり直しだ。両手が終わったら、手首から肘にかけても入念に洗う。これを最低、三回は繰り返す。
「鈴木さんって、高校生だっけ?」
 質問が聞こえ、隣に顔を向けた。いつの間にか、電気シェーバーの音が消えている。
「いえ……中三です」
「それじゃ、来年は受験か。今は学校を休んでるの?」
「はい……調子が戻れば、入院中も通学する予定です」
 話し掛けられたせいで、どこの指を洗っていたのかわからなくなった。もう一回最初からやり直さないとダメだ。手に付いた石鹸を洗い流す途中で、再び質問が聞こえた。
「入院は初めて?」
「えっと……以前にもあります。中二の時に」
「この病棟に?」
 曖昧に頷く。今は話し掛けてほしくはなかったが、顔に張り付けた笑顔が消えない。父譲りの外面の良さを心底恨むと、あかぎれた箇所が急にひりひりと痛み始めた。
「俺は前に、この上の階にある閉鎖病棟にも入院したことがあるけど、あっちは色々と規則が厳しかったな。特に、私物のチェックが凄くて。あっちと比べたら、こっちは天国だよ」
 泡を流し終わり、手拭き用ペーパーで濡れた両手を急いで拭く。他の患者が後ろに並び始める前に、一刻も早く手洗いをやり直さないと耐えられない。
「ここは静かな病棟だよな。鈴木さんも、そう思わない?」
「はい……個室料金は、高いですけど」
「確かに。その件に関しては、昨日意見箱に投書したんだ。是非、改善を願うよ」
 笑顔を保つ頰の筋肉が硬くなり、顔面の至る所に痛みが走る。口の端が歪み、小刻みに震え始めるのを感じた。
「そうそう、鈴木さんさぁ」
 さっきまでとは違う、呆れるような口調だった。中年男性は洗面台に散らばった細かい髭を集めながら、大袈裟に口を尖らせた。
「水、出しっ放しはもったいないよ」
 注意され、蛇口レバーを下げた。慌てたせいで、思わず素手で触ってしまった。このまま不完全に、手洗いを終えるわけにはいかない。まだ両手は、父が放つ菌で汚染されているような気がする。  
 一旦自室に戻る振りをして、中年男性がどこかに行くのを確認してから、再び洗面台の前に立った。今度こそは、納得がいくまで手洗いをしないと。刻々と、不安は膨らみ続けている。
「あっ、鈴木さん。また、手洗いしてるの?」
 肩を震わせ、声がした方を振り返った。廊下では夜勤明け間近の看護師が、眉をひそめていた。咄嗟に噓がこぼれ落ちる。
「これから、洗おうかなって」
「本当? 手が濡れてるように見えるけど」
 近寄った看護師が、湿った両手に視線を向けた。顔半分はマスクで覆われていて表情は見えないが、眼差しは鋭い。
「あかぎれのところ、血が滲んでるじゃない。痛いでしょ?」
「まぁ……はい」
「軟膏塗ってあげるから、一緒にナースステーションに行こう」
 頭の中で手洗いの順序を反復しながら、観念して頷いた。歩き出した看護師に続き、肩を落として廊下を進み始める。途中、一度だけ背後を振り返った。さっきまで無人だった洗面所に、他の患者が入っていく姿が見えた。

 自室で朝食を食べ終えた後は、ベッドに横になって日勤の看護師が来るのを待った。時刻は、九時半に差し掛かろうとしている。今頃学校では、一限目の授業中だろうか。低い棚の中に仕舞ってある制服を思い浮かべながら、枕元のスマホに手を伸ばした。
 写真のアイコンをタッチし、表示された画像を過去の日付に向かってスライドした。最近撮った写真は、病室の窓から見えた夕焼けや、気になった消毒用品をスクショした画像ばかりだ。それらが過ぎると、友人たちの姿もチラホラと画面に映り始めた。今年の五月からは、新型コロナウイルス感染症が5類感染症に移行となっている。友人たちは去年よりも、外に出掛ける機会が増えているようだ。
 マユは今月、久しぶりに開催される夏フェスに参加するらしい。
 ミスズは最近、高校受験を見据えて塾に通い始めたらしい。
 カナッペは部活を引退してから、体重が六キロも増えたらしい。
 エッちゃんは先週、ピアスを開けた場所が膿んで病院に行ったらしい。
 全て、スマホに届いた情報だった。同じ水泳部に所属していた彼女たちとは、クラスメイトよりも絆が強い。それでも、未だにこの病気のことを正直に打ち明けていない。小さい頃から患っている持病と噓を吐いて、お見舞いの提案も全て断っている。
 友人たちが定期的に連絡をくれるのは嬉しいが、毎回胸が痛くなる。スマホに届く絵文字や何気ない写真だけでも、彼女たちがそれぞれの日々を謳歌しているのが伝わってくる。その度に自分の現状と比較してしまって、言いようもないむなしさに襲われる。来年には高校受験が控えている。勉強を頑張りたい意志は確かにあるが、病状のせいで身が入らない日々が続いていた。
 不意に隣のベッドから、今朝聞こえた謎の音が響いた。騒音というわけではないが、やはり耳障りだ。
 昨日、同室者には挨拶を済ませていた。カーテンで仕切られているとはいえ、同じ空間で入院生活を送る。トラブルを避けるためにも、初めから愛想は良くしておいた方が良い。窓に近い隣のベッドには、黒髪のセミロングが似合う女性が入院していた。大人びて見えたが、窓辺ではハンガーに吊るされた学生服が陽の光を浴びていた。多分、高校生なんだろう。挨拶をしても暗い顔で会釈を返されただけで、未だにちゃんと言葉を交わしてはいない。今もベッドにいるようだが、あの謎の音以外には洟を啜る音や咳払いしか聞こえない。病状が悪く、ずっと横になっているのだろうか。
「小夏ちゃん、おはよう。朝の検温だよ」
 病床を囲むカーテンが開いた。顔を覗かせた看護師は、折坂さんだった。茶髪と長い付けまつ毛が印象的で、白衣を着ていても派手な私服が想像できる。口と鼻を覆っているのは立体型マスクで、味気ない不織布よりも華やかだ。ストレートに物を言う人だが、なんだかんだで優しいから好きな看護師の一人。彼女には、無理やり笑顔を作らなくても割と本音を話せていた。
「今日は担当だから、よろしくね。でっ、部屋変わってから昨夜は眠れた?」
「うーん……あんまり」
「歯切れ悪いね。夜勤者の申し送りでは、よく寝てたって聞いたんだけどな」
「いつもより、早く起きちゃって」
「そっか。やっぱり、個室の方が落ち着く?」
 無言で頷くと、一包化された薬が差し出された。
「とりあえず、朝のお薬飲もっか」
 二種類の錠剤が入った薬包を受け取る。黄色味がかった錠剤は、SSRIと呼ばれる抗うつ薬。白い錠剤の方は、不安や緊張感を和らげる効果がある薬だ。うつ病ではないのに抗うつ薬を内服するのは不思議だが、この疾患の第一選択薬になっているらしい。掌に載る薬包をジッと見つめてから、顔を上げた。
「薬を飲む前に、手を消毒しても良いですか?」
 少し間を開けて、折坂さんが首を傾げた。
「汚れてるの?」
「ちょっと……気になっちゃって」
 折坂さんは短く唸ってから「口に入れるものだしね。仕方ない」と、渋々許可を出した。すぐに、アルコール消毒用のジェルに手を伸ばす。掌に一円玉大ほどの透明なジェルを垂らすと、ひやりとした感触が広がった。その冷たさが、胸の底にわずかな安心を滲ませていく。それから清潔な手で二種類の錠剤を口に入れ、ミネラルウォーターで流し込んだ。空になった薬包を返却すると、折坂さんが床頭台の方へと顔を向けた。
「それっ、チェックしてる?」
 折坂さんの視線の先には、他の看護師から貰った用紙が置かれていた。紙面には二週間分の日付が振ってあり、いくつかのチェック項目が並んでいる。手洗い、アルコール消毒用のジェル、着替え、使い捨て手袋、除菌消臭スプレー。それぞれ実施した回数を、正の字で記録する約束を交わしていた。症状の振り返りや、病状変化の参考にするらしい。
「見ても良いかな?」
 頷くと、折坂さんが目を通し始めた。途中「なるほどねぇ」と、呟く声が聞こえる。
「ここ最近は、一日二十回程度の手洗いで済んでるんだ? 入院前と比べると減ったね」
「入院したら……父とは、物理的に距離が取れるので」
「でもさ、この日は四十回を超えてるよ。何か、不安なことでもあったの?」
 折坂さんが、一昨日の日付を指差した。確かに手洗いの項目には、八つ以上の正の字が並んでいる。除菌消臭スプレーの使用や着替えた回数も、他の日より群を抜いて多い。
「この日は……母が面会に来たんです」
「あれっ? お母様との関係は、良いんじゃなかったっけ?」
「そうなんですけど、母が父の書いた手紙を持って来て……不注意で、触っちゃったんです」
 あの手紙に触れたことを思い出すと、指先が腐って朽ちていくような感覚が未だにする。また、ジェルを垂らしたくなってしまう。
「……その手紙に、父の手垢や唾が付着しているような気がして……強迫観念がどんどん膨らんじゃって……」
「とにかく、今はこうやって振り返りもできてるしさ。そんな凹まなくて良いよ」
 父に関連した話題になると、どうしても喉で言葉がつかえてしまう。無意識のうちに、荒れた手を摩っていた。去年初めて時津風病院を受診した時も、両手にはひどいあかぎれができていた。当時の記憶が過り、視界の焦点が曖昧になっていく。

 手洗いの回数が増えていることに気付いたのは、中二の春だった。コロナ禍だったこともあり、友人や母からは特別不自然に思われることはなかった。むしろ感染予防対策を徹底していると、褒められることすらあった。新型コロナウイルスに感染するのは避けたかったが、未知のウイルスよりも触れたくない人間が同じ屋根の下で生活していた。
 それから徐々に不潔恐怖はひどくなり、学校を休む日も多くなった。入浴やトイレ以外は自室に籠り、聖域と決めたベッドの上で多くの時間を過ごした。日を追うごとに、症状は悪化していった。あの頃はまるで、海に囲まれた小島で遭難しているような気分だった。
 高頻度の手洗いに加え、いつしか入浴時間も長くなった。以前は三十分で済ませていたのに、一時間、二時間、三時間と伸びた。ひどい時は、六時間以上も浴室から出られなかったこともある。タオルで身体を拭くと、全身の皮膚はふやけ、そのうち白く粉を吹いて血が滲んだ。家の中を移動するのも辛かった。父が同居していると考えるだけで、足の裏が汚れていくイメージが脳裏を満たした。結局全ての廊下に新聞紙を敷き詰め、その上だけを歩いた。もちろん、二重にした靴下でスリッパを履いて。両手は、消毒用品を一時も手放さなかった。
 時津風病院への受診は、母からの提案だった。母に付き添われ外来診察室に入ると、医師が親身になって話を聞いてくれた。最近の生活状況を話した後、医師は確信めいた声で、不潔恐怖・洗浄強迫が目立つ強迫性障害と診断を下した。正直、すぐに誤診だと感じた。以前は疲れていたら入浴せずに眠ってしまうことがあったし、電車に乗っていても平気で吊り革を握ることができていた。納得できない表情を向けたせいか、医師は丁寧にこの疾患について話し出した。
 強迫性障害は、潔癖な性格の人や完璧主義者だけがなるわけではないらしい。それに、様々なタイプがあると告げられた。
 ガスの元栓や玄関の施錠を、何度も確認してしまう人(確認強迫)。
 外を歩いているだけで、誰かに危害を加えたのではないかと極度に不安視する人(加害恐怖)。
 書類やレポートを記入する際に、計算や文章が正しいか過剰に不安視し、何度も書き直してしまう人(不完全恐怖)。
 縁起の悪い内容が頭から離れず、それを打ち消す儀式的な行動に囚われてしまう人(縁起強迫)。
 共通しているのは、強迫観念と強迫行為がセットで存在していることだ。その二つの影響によって、徐々に生活が破綻していくと説明された。
 強迫観念は、不安や恐怖を呼び起こす嫌なイメージのことだ。脳裏に繰り返し浮かんでは、その考えに囚われてしまう。浮かぶ内容が不合理だと自覚があっても、なかなか頭から追い出すことは難しい。一方、強迫行為は、その嫌なイメージを打ち消そうとする考えや行動のことだ。
 小夏の場合は、父の影響で身体が汚れてしまうような感覚(強迫観念)に囚われ、手洗いや長時間の入浴(強迫行為)を繰り返していた。安心を得ようといくら強迫行為を繰り返しても、強迫観念が消えることはないらしい。むしろ手洗いの回数は増え、不潔恐怖は肥大化していくと医師は告げた。あの時は結局、何も言い返すことができなかった。あかぎれた手は、その悪循環に陥っていることを証明していた。
 医師から即日入院を勧められたが、精神科病棟は怖そうで何度も首を横に振った。そんな誤解を解くように、医師は優しい口調で話を続けた。精神科には、閉鎖病棟と開放病棟があるようだ。閉鎖病棟は常に病棟出入り口が施錠されていて、スタッフに解錠を依頼しないと出入りできない。一方、開放病棟だと、夜間以外は病棟出入り口に鍵は掛かってはいないと教えてくれた。医師から勧められたのは、開放病棟の方だった。そこでは普段の生活から離れ、休息を目的とする人が多く入院しているらしい。仕事をしている大人や未成年者が比較的多く、入院しながら通勤や通学をしている患者もいるようだ。
 開放病棟の概要を聞くと、なんとか首を縦に振ることができた。あの時、診察室は鳥肌が立つほどにクーラーが利いていた。隣で涙を流す母の前髪が、冷たい風に吹かれて微かに揺れていたのをなぜか今でも憶えている。

「今日は、心理士さんとの面談もあるんだっけ?」
「ないです……でも、午前中にERPをやるみたいです」
 ERPは〝曝露反応妨害法〟と呼ばれる療法だ。敢えて不安を感じる状況に自らを直面させ、強迫行為を我慢する。嫌な状況に自分自身を曝すことを繰り返し、徐々に不安に慣れていくのが狙いだ。ERPを実施している最中は、苦痛しか感じない。汚いと感じる場所に無理やり触れた後に、手洗いを我慢するのは身が捩れるほどに辛かった。終わった後は毎回、バタフライで50メートルを泳ぎきったような疲労感が押し寄せてくる。
「じゃあ、午後はぐったりだね。ちなみに不安階層表って、今持ってる?」
「はい。この前、心理士さんと一緒に新しく作り直しました」
 急いで床頭台の引き出しを開け、中から一枚の用紙を取り出す。不安階層表には、不安や恐怖を感じる場面をいくつか具体的に記入する必要があった。不安を最も感じる状況を100として、それぞれの場面に数値を割り振っていく。小夏は100の数値の横に〈父と話す〉と記載した。90の数値の横には〈父と目を合わせる〉、80の数値の横には〈父から貰った手紙を開けて読む〉としている。70以下の項目には〈病棟ホールのゴミ箱に素手で触れる〉、〈共用トイレのトイレットペーパーに素手で触る〉、〈面会室のドアノブに素手で触る〉、〈机上作業の物品に素手で触れる〉、〈洗面所の蛇口レバーに素手で触る〉等が、不安レベルの順に並んでた。折坂さんは不安階層を眺めている途中で、目尻を下げた。
「不安レベル25の〈病棟内で犬に触る〉って、DI犬のこと?」
「そうです。そういう犬が出入りしてるって聞いて」
 今日は初めて、その犬と一緒にERPを実施する予定だ。普段は担当心理士の主導で、ERPを実施している。しかし数日前に担当心理士の身内に不幸があり、今日まで忌引で不在らしい。なので今回はDI犬とそのハンドラーだけが、開放病棟にやって来ると聞いていた。
「ってか、小夏ちゃんは犬が好きなの?」
「まぁ……小学生の時に、飼ってたこともあるんで」
 DI犬のことは、担当心理士から教えてもらった。その犬は数ヶ月前から、主に本棟で働いているらしい。一昨日母親と面会した時に、DI犬と関わる際に必要な同意書の記入も済んでいた。
「犬が好きだったら、不安階層表にわざわざ組み込まなくても触れるんじゃない?」
「外なら大丈夫そうですけど、病棟内だとキツいかなって……」
「どうして?」
「……母が、面会に来ているので」
 折坂さんが首を傾げた。強迫観念を吐き出すように、腹の底に力を入れる。
「母が着てる服や私物に、父の汚い何かが染み込んでいるような気がして……そう一度でも思っちゃうと、病棟内も汚染されたような感じがするんです」
 現実的ではないことを口にしていると、頭では理解している。それでも、言葉は止まらない。母親が面会に来る度に、病棟内が間接的に汚染されていく不安が増していく。
「病棟内だと父の汚い何かが、DI犬の毛に付くかもしれないじゃないですか」
「要は外より病棟内の方が、強迫観念が拡大しやすいってこと?」
「今はそうです……一昨日も、母が何も言わずに父からの手紙を持ってきたんです。あたし、それに気付かず触っちゃって。それ以来、面会室に入れないんです……手紙に染み込んだ父の汚い何かが、空気中に漂っているような気がするので」
 誤って父からの手紙に触れた後は、泣きながら洗面所に直行した。面会室はすぐに危険地帯に変わり、それ以来近づいてもいない。面会室に入室することは、不安階層表にも新たに組み込んでいた。
「その手紙は、どうしたの?」
「母が……その日のうちに持ち帰りました」
「そっか。今後お母様が来た時は、どうするつもり?」
「できれば……多目的室とかで面会したいんですけど」
「えー、それは良くないんじゃない? 余計、強迫観念が拡大しちゃうような気がするな」
 押し黙ってしまうと、折坂さんはその話題をそれ以上は掘り下げなかった。それとなく小夏の好きな漫画やバンドに関する内容に話題を変え、電子血圧計を腕に巻き始める。
「とにかく、今日のERPを頑張ってね」
「……はい」
「猫の手も借りたいって言うけどさ、ウチでは犬の手って感じだ」
 少しも笑えない冗談が、カーテンで囲まれた空間に漂って消えた。

 DI犬との約束の二十分前に、聖域から抜け出した。ERPを実施する前に、気が済むまで手洗いをしておきたい。寝溜めをするような気持ちで、洗面所に向かった。
 洗面台の前に立ち、夢中で両手を水に曝した。手洗いを五回ほど繰り返すと、一時の安心が胸に広がり始める。両手はヒリヒリと痛むが、安心を得るための対価だと思えば仕方がない。ようやく満足してから、蛇口を止めようとペーパーに手を伸ばした。
 突然、腕に微かな感触を覚えた。跳ねた水飛沫が当たったのだろうか。天井から埃でも落ちてきたのだろうか。意識が腕に向くと、さっきまでの安心が一気に霞んでいく。
「もう一回だけ……」
 洗面所の掛け時計に目を向けた。余裕を持って自室から出てきたはずなのに、約束した時刻まで五分を切っている。それでも、ホイップクリームのような泡を掌に盛った。たとえ遅刻したとしても、この手を完璧に洗い終えたい。蛇口から流れる水に両手を曝しながら、抗うことのできない観念を呪った。
 やっと納得して洗面所から離れることができると、早足で廊下を進んだ。DI犬との待ち合わせ場所は、病棟ホールだ。そのすぐ側には面会室があることを思い出し、両足の動きが鈍くなる。今は面会室を、目に映すのすら嫌だ。あの絶望感を、また強烈に思い出してしまう。
 病棟ホールでは、集団作業療法が行われていた。去年入院した時は新型コロナウイルスの蔓延を防ぐため、当面中止になっていた。今年の五月からは、また再開したようだ。今日のプログラムは、机上作業らしかった。椅子に座る患者たちが、机に向かいながら手を動かしている。ビーズでブレスレットの作製をしている者が多く、机に転がっている物品が照明の光を反射していた。
「鈴木さん。こっち、こっち」
 病棟ホールの隅で、スクラブ上着を着た人物が手を振っている。
「……武智さん?」
 なぜか、去年の入院時に担当看護師だった武智詩織さんがいた。当時、彼女にとてもお世話になった。沢山悩みを打ち明け、励ましの言葉を掛けてもらい、勇気付けてもらった。前回無事退院できたのは、彼女のサポートの影響が大きかったのは確かだ。
「えー、マジか! 何で、ここにいるんですか?」
 今回の入院時に、彼女が小児科病棟に異動したと聞いた時は心底がっかりした。今日は、わざわざ会いに来てくれたのだろうか。予想外の再会に喜びながら、手を振り返す。
「あっ……すみません」
 か細い声が聞こえ、武智さんから意識を逸らした。すぐ近くで、同じ病室に入院している女性が椅子に座っていた。彼女の視線は、床に向けられている。足を止めて視線を下げると、床に鮮やかな青が転がっていた。半透明なブルーのアクリルビーズが一つ、小夏の影に覆われている。
「手が滑って……」
 同室者が、椅子から立ち上がる気配はない。この状況なら、拾って渡してあげるのが普通だろう。本当はそうしたい。でも、汚染されているかもしれないアクリルビーズに触れるのは、どうしても無理だった。腰を屈める筋肉が、一気に固まっていく。
「ごめんなさい。急いでるんで」
 気付かなかった振りをしないことが、今できる精一杯の誠実さだった。その場から逃げるように歩き出すと、背後で椅子を引く音が聞こえた。同室者が顔を顰めながらアクリルビーズを拾う姿を、嫌でも想像してしまう。
 あんなに綺麗な玉粒すら、触れないなんて。
 結局は、去年と何ら変わらない症状を実感した。胸の中で情けなさや自己嫌悪が膨れ上がり、少し先にいる武智さんの姿が滲んでいく。歩きながら洟を啜り、目元を乱暴に拭った。生ぬるい液体が指先に触れて、また手洗いをしたい渇望が全身を駆け巡る。涙さえ汚く思えるなんて、最低だ。
「鈴木さん、大丈夫?」
「大丈夫です……ちょっと、目に睫毛が入っちゃって」
 潤んだ瞳のまま、マスクの下で笑みを作った。勘の良い武智さんには、泣いていた理由がバレているかもしれない。急いで話題を変える。
「ってか、お久しぶりです。わざわざ会いに来てくれたんですか?」
「そうだよ。今日は休みなんだけど、病院に用があってさ。DI犬のハンドラーから、鈴木さんのERPのことを聞いて。せっかくだし、あたしも参加したいなって」
 勤務が休みなのに、スクラブ上着を着ている理由がわかった。前回の入院でも、武智さんとはERPを実施していた。心理士よりも厳しかった印象があるが、お陰で病状が徐々に改善に向かっていったのは事実だ。
「是非、是非。でも、普段より厳しくされちゃうな」
「久しぶりなんだから、そんなわけないでしょ」
 武智さんが、その返事とは裏腹に不敵な眼差しを向けた。彼女は続けて、DI犬の到着が予定時刻よりも十五分ほど遅れそうだと告げた。小児科病棟での対応に、時間がかかっているらしい。
「とりあえず、面会室で待ってようか」
 武智さんが、廊下を挟んだ向こう側を手で示した。その先には、面会室のドアが閉ざされている。咄嗟に、上擦った声が漏れた。
「あのっ……多目的室でも良いですか? さっき他の患者さんが、これから家族が面会に来るって話してたので」
「そうなんだ。それじゃ、多目的室にしようか」
 武智さんが廊下を通った看護師に一声掛ける姿を横目に、噓を吐いた罪悪感が口の中でザラリと広がる。それに、半透明のブルーが瞳に焼き付いて消えない。恐る恐る背後を振り返ると、同室者は机上作業を再開していた。
 多目的室は、小夏にとって安全地帯の一つだ。常に空気清浄機が稼働しているし、意外と患者の出入りは少ない。それに普段から、清掃会社の人が丁寧に掃除をしている姿を見掛けていた。廊下を進み安全地帯に足を踏み入れると、空いていた椅子に座った。武智さんも、丸テーブルを挟んだ対面の椅子に腰を下ろした。
「鈴木さんって、今は中三だよね?」
「はい。来年は高校受験が控えています」
 学校のことや友人関係について話しながら、時折武智さんの左目が気になった。去年と同様、左目の白目は青紫に色付いている。前回入院していた時は、怪我でもしているのかと思っていたが勘違いだったようだ。多分、アザなんだろう。あまりジロジロと眺めるのは失礼だと思い直し、意識して視線を逸らした。小夏だって、あかぎれた手を凝視されたら良い気分はしない。
「それで、最近は不潔恐怖の方はどうかな?」
 元担当看護師から本題を切り出された。目を伏せて、おずおずと背筋を丸める。
「正直……去年の入院前に、戻っちゃった感じです」
「そう。些細なきっかけで、病状が悪化する人は多いしね。でも、また入院して頑張ろうとしてるわけだしさ。きっと、大丈夫よ」
 前向きな言葉を聞いて顔を上げると、再び質問が飛んだ。
「ちなみに、今日は手洗いを何回したの?」
「えっと……三回ぐらいです」
 実際の回数よりも、少なく告げた。噓を吐いたせいで、口数は自然と増えてしまう。
「父の影響を色々と結び付けちゃって、至る所が汚れているような気がするんです。一昨日は特に、症状が強くて」
「さっき折坂さんから聞いたけど、お父様からの手紙に誤って触ったんだっけ?」
「はい。マジで超最悪でした。それから不安が増しちゃって……手洗いも多くなって」
「不安とは、うまく共存していかないとね。例えるなら、影みたいなものだから」
 自然と机上に伸びる手の影に、目を落とした。普段より、その色は濃いような気がする。
「誰の側にだって、不安はいつもいるから」
 独り言のような、小さな声だった。元担当看護師も机上に伸びる影を眺めている。前回の入院時も、よくこうやって話を聞いてもらっていた。懐かしさが引き金となって、当時繰り返していた質問がつい口からこぼれ落ちる。 
「あのっ……あたしの手って汚いですか?」
「別に、汚れているようには見えないけど。でも、鈴木さんがそう思えば汚いんじゃない」
 耳に届いたのは、当時と変わらない返事だった。一見冷たく聞こえるが、症状を踏まえてのことらしい。強迫観念がひどい時は、誰かに汚れを確認してもらうことが増えてしまう。入院前の被害者は、母だった。ひどい時は一日に何百回も汚れを一緒に確認してもらい、かなり疲弊させていた。それに、同じ手洗いの仕方を強要してしまったこともある。武智さんは家族をこの症状に巻き込ませない訓練として、入院中から敢えて突き放すような返答を繰り返していた。その代わり、強迫観念に耐えた時は思いっきり褒めてもくれる。
「昨日、二人部屋に移ったんだよね? 新しい環境に、戸惑うことはない?」
「まぁ……同室者も、年齢が近そうなんで」
「そっか。話が合うと良いね」
 別に友だちを作るために、入院しているわけではない。机に載せていた手を引っ込めると、当然のように影も消えた。
 それからは、再び他愛のない会話が続いた。小夏が最近ハマっているロックバンドについて話している途中で、ノックの音が聞こえた。顔を向けると、ドアの小窓から見知らぬ女性が室内を覗いていた。マスクで覆われていない目元は丸く、黒い髪を後ろで一つに結んでいる。彼女が着ている服は、目が覚めるようなブルーだった。この病棟のスタッフが着ている白いユニフォームより、断然派手な色をしている。
「来たね」
 武智さんが椅子から立ち上がり、小窓に向けて手招く仕草をした。
「こんにちは。DI犬が入ります」
 快活な声が室内に響いた後、目を見張った。ドアが閉まっている時には気付かなかったが、女性の足元には青いベストを着た一頭の犬がいた。全身の毛は白く、目や口元だけが黒い。長い尻尾を左右に振りながら、落ち着いた足取りで多目的室に入ってくる。予想していた以上の大きな身体に驚き、全身が強張った。
「DI犬のスピカと、ハンドラーの凪川遥です。今日はERPに参加させてもらうので、よろしくね」
「どうも……鈴木小夏です」
 リードで繫がれた犬の身体は大きいが、口元から舌を覗かせる表情は間が抜けている。全身を覆う毛は雪のように白く、綿飴のように柔らかそうだ。
「大っきい……ワンちゃんですね」
「でしょ。スピカは、五歳のゴールデン・レトリバーなの。今年の五月から、主に本棟で勤務してるんだ」
 犬には似合わない勤務という言葉が、妙に耳に残った。凪川さんはDI犬に向けて何度か頷くと、人差し指を立てた。その仕草を見た白い犬は、ゆっくりとした動作でお座りの体勢を作った。吠えることも鼻を鳴らすこともなく、前脚を揃えている。
「Good boy」
 ハンドラーより先に、武智さんが弾んだ声を出した。凪川さんも一拍遅れて、白い犬を英語で褒め称えている。二人を交互に見つめるDI犬は、勤務中には見えない。単純に人間と遊んでいるようで、楽し気に口元は緩んでいる。
「小夏ちゃんって、今は中三なんだね。それじゃ、入院しながら登校する予定?」
 凪川さんの質問に、曖昧に頷く。登校する意思はあるが、今の病状では難しいことは自覚していた。
「もう少し、調子が戻ればですけど……来年には高校受験が控えてるし、部活の友だちにも会いたいので」
「そっか。ちなみに、なんの部活に所属してるの?」
「水泳部です。中三なんで、もう引退しちゃいました」
「へぇ。ちなみにスピカも、泳ぐのが上手なんだよね」
 凪川さんがおどけて、犬搔きの動作を繰り返した。どう反応して良いかわからずマスクの下で苦笑いを浮かべると、元担当看護師が話題を変えた。
「スピカが待ってくれてるし、そろそろERPを始めようか」
 武智さんに促され、椅子から立ち上がった。凪川さんの浅黒い手が、いつの間にか白い犬の頭を撫でている。そんな光景を眺めながら、誰かに頭を撫でられた記憶を探った。脳裏に浮かんだのは、母を殴る父の硬そうな拳だけだった。
 廊下に出ても白い犬は急に走り出すことはせず、凪川さんの歩調に合わせて進んでいく。確かに大人しそうな犬だが、身体に触れるのは躊躇した。吠えられたり嚙まれたりする心配の以前に、病棟に入った時点で汚れた可能性を拭い切れない。
 病棟の廊下は母も歩いたことがあるから、間接的に父の影響を受けていて汚い。
 犬はマーキングをする。病棟に入った後、あの汚い面会室のドアに身体を擦り付けているかもしれない。
 絶対にないと言い切れない不安が、雨雲のように垂れ込める。〈病棟内で犬に触る〉の不安レベルは25に設定していたが、もう少し高くしておけば良かった。
「武智さん、大丈夫?」
 ハンドラーの声を聞いて、DI犬から目を離した。隣を歩いていた武智さんの姿が、いつの間にか消えている。背後を振り返ると、元担当看護師が少し離れた場所で太腿を摩っていた。
「大丈夫、大丈夫。昨日ランニングしたから、ちょっと筋肉痛で」
 武智さんはゆっくりとした口調で告げると、小夏たちがいる位置まで近寄って来た。確かに足が痛いのだろう。ナースシューズを廊下に擦るような歩き方になっている。
 洗面所には、誰の姿もなかった。よく磨き上げられた洗面鏡には、不安気な表情を隠そうとしない自分が映っている。
「まずは、素手でレバーに触れることから曝露していこうか」
 凪川さんの指示を聞いて、力なく頷いた。これから、部活終わりのような疲労感を覚えることになる。
「……頑張ります」
「徐々にレベルを上げて、今日はスピカに触るまでやろうかな」
 不安階層表の中では〈洗面所の蛇口レバーに素手で触る〉を、一番低いレベルに設定していた。ペーパー越しとはいえ毎日触っているし、他の患者も洗浄直後の手で水を止めているからだ。
「それじゃ、小夏ちゃんのタイミングでどうぞ」
 苦い唾を飲み込んで、鈍色のレバーに視線を落とす。普段のようにペーパーに手を伸ばしそうになってしまい、慌てて掌に爪を突き立てた。強く力を入れても痛みは感じない。
 やっぱり、無理かも。
 この病棟にいる全ての人間が、父の汚い何かを媒介する存在に思えてしまう。想像もつかない経緯を辿り、この蛇口レバーは汚れているかもしれない。一度そう思い込むと、両腕に痺れを感じた。なんの変哲もないレバーが、菌や汚染物質の塊に思えてしまう。額には脂汗が滲み、気付くと呼吸の仕方すらわからなくなっていた。
 なんで、こんなこともできないんだろう。
 病棟に犬がいることが珍しいのか、視界の隅で廊下を行き交う人々の視線を感じた。恥ずかしさや、悔しさや、自分自身を責める気持ちが交ざり合い渦を巻く。洗面所の蛇口レバーに素手で触る、ただそれだけのことがどうしてもできない。この感覚を誰かに話しても、馬鹿にされるに決まってる。上手く説明する言葉も、持ち合わせていなかった。
 大きな鏡に映る情けない表情から、目を逸らした。新品同様だった白いスニーカーに、いつの間にか黒い汚れが付着している。それを見つけた瞬間、胸でかろうじて揺れていた灯火が一気に消え掛かった。今すぐ聖域で横になって、布団にすっぽりと包まれたい。膨らんでいく不安や恐怖に、もう耐えられそうになかった。
「Up」
 リノリウムの床を歩く足音がして、隣で誰かの気配を感じた。顔を上げると、言葉を失った。空いていた洗面台の前で白い犬が立ち上がり、前脚を台の上に乗せている。幼児が摑まり立ちをするように二本脚で立つ犬は、余計大きく見えた。
「レバーに触っても、何も起こらないから大丈夫だよ」
 一瞬、犬から話し掛けられたような錯覚を覚えた。
「強迫観念に向かって、飛び込むような気持ちで」
「……飛び込む?」
「そう。小夏ちゃんが頑張ってる姿を、スピカも見守ってるから」
 白い犬の両目は、水面のように澄んでいる。口元は笑っているかのように緩み、長い舌が覗いていた。大きな身体なのに、見つめられても全く威圧感を覚えないのが不思議だ。青いベストに貼り付けられた丸いワッペンには、〈I'm friendly〉の文字が刺繍されている。その言葉は、噓ではない。
 再び、恐る恐る蛇口レバーに目を向けた。隣から白い犬の息遣いが聞こえる度に、燻っていた灯火が徐々に熱い光を放ち始める。
 プールに飛び込む前のように、深く息を吸って止めた。その息苦しさに後押しされ、あかぎれた手がレバーに伸びていく。指先を震わせながらも、素手でレバーの端に触れることができた。水が流れ落ちる音を聞いて、ようやく息を吐き出す。
「今は端っこだったね。次はレバーを握って、水を止めてくれる?」
 今度は、武智さんの淡々とした指示が聞こえた。やはり当時と変わらず、スパルタ指導だ。無意識のうちに、隣に顔を向けていた。さっきと変わらない穏やかな眼差しが、そこにはあった。
 飛び込み台に立っているイメージを脳裏に浮かべ、再び息を止めた。鈍色のレバーに手を伸ばすと、まだ触れてもいないのに嫌な感触が指先から広がっていく。内臓に手を突っ込んでいるような気色悪さが、次第に皮膚を粟立たせた。それでも、奥歯を強く嚙み締めて耐えた。覚悟を決めて、不安と握手をするようにレバーを摑む。本来は冷たいはずなのに、なぜか妙に生温かい。燃え尽きそうな掌の熱が、伝わっているせいだろうか。手汗で滑りそうになる前に、硬い金属を勢い良く下げる。ようやく、水音が止まった。
「鈴木さん、頑張ったね」
「小夏ちゃん、凄い。不安に打ち勝ったじゃん」
 レバーに触れた部分には、嫌な熱が広がり続けている。早くこの感覚を流水で洗い落としたいが、ここからが本番だ。数時間は手洗いをせずに、我慢しないといけない。
「Come」
 柔らかな声の後、摑まり立ちをしていた白い犬が床に降りた。ゆったりとした歩調で、ハンドラーの元へ戻っていく。凪川さんは白い犬の頭を撫でながら、一度微笑んだ。
「レバーに触れても、水が出て止まるだけだったでしょ?」
「……確かにそうですけど、やっぱり手洗いはしたいです。なんとなく」
「なんとなくなら、大丈夫だからさ。今は我慢、我慢」
 凪川さんは話しながら、犬の首回りを優しく撫で続けていた。白い動物は気持ちよさそうに目を瞑り、口元を緩ませている。
「小夏ちゃんの手洗いってさ、自分自身を守るための行動でしょ?」
 凪川さんの質問を聞いて、曖昧に頷く。
「……簡単に言えばそうです。汚れから身を守るっていうか」
「この疾患から回復するためには、攻めの姿勢が大切なんだよね。強迫的な手洗いに時間を割くより、他に素敵なことが沢山あるから」
 確かに強迫観念や強迫行為がなかったら、狭い聖域から飛び出して自由に外出することだってできる。学校で友だちと話せるし、もし恋人がいたら手を繫ぐこともできるかもしれない。それに、母を疲弊させることもなかった。様々なたらればを考えながら、荒れた両手に目を落とす。ぱっくり割れた箇所は、血が固まっていた。
「ゴメンね。少し、でしゃばっちゃった」
 凪川さんは自嘲するように呟くと、白い犬と一緒に洗面台に近寄った。肩から掛けているショルダーバッグから除菌シートを取り出し、犬が触れた部分を丁寧に拭き始めている。そんな動作を目で追っていると、武智さんが言った。
「次は、スピカを撫でてみよっか」
「えっ……少し休憩したいんですけど」
「嫌なことは、後回しにしない方が良いの。それにこれが終わったら、ベッドに触れる作業が控えてるし」
 前回の入院で実施したERPでも、最後は曝露した手で聖域に触れていた。タオルケット、シーツ、それに枕と隅々にまで触れる。これも大事な治療の一環だった。人間は不安や恐怖に曝され続けると、感覚にマヒが生じて次第に慣れていくことが多いらしい。聖域を汚して、そこである程度の時間を過ごす。徐々に不安が小さくなっていくのを、実感させる目的があった。
 白い犬は、凪川さんの隣でお座りの姿勢を保っていた。背中の可愛らしい曲線に、昔飼っていた犬の姿が重なる。生まれつき脚が悪い犬で、何の血統も付いていない雑種だった。お手も覚えられないし、散歩の時は興奮して急に走り出していた。誰にだって吠え、トイレを覚えるのも時間が掛かった。でも、小夏にとっては世界一愛しい犬だった。父の怒鳴る声が響く夜は、一緒に毛布に包まって眠った。
「スピカ」
 初めて名前を呼んでみると、垂れた耳が微かに動いた。足元に伸びる影を踏むように、スピカに近寄る。意を決して、手を伸ばした。
「普段は触る前に手洗いをしてもらってるけど、今は仕方ないね」
 凪川さんの呟きを聞きながら、ソッと白い頭を撫でた。先ほど触ったレバーとは違う、生きた温もりが掌に伝わる。白い毛は想像以上に柔らかく、心地良い手触りだった。
「おっ、クリア。凄いね!」
「小夏ちゃんが撫でてくれて、スピカも嬉しそう」
 レバーの時とは違って、すぐに手を離さなかった。正直に言えば、離したくはなかった。スピカを撫でる度に、不思議と強迫観念が霞んでいく。勝手に作り上げた不安な幻影を、白い毛が拭い去っていく。
「スピカって、雄ですか?」
「そうだよ。まだ名刺を渡してなかったよね?」
 頷くと、ショルダーバッグのジップを引く音が聞こえた。
「関わった患者さん全員に渡してるの。名刺の裏には、メールアドレスが書いてあるから、暇な時にでもメッセージをくれると嬉しいな」
 スピカから手を離し、差し出された名刺を受け取った。表には受験票に貼るような精悍な顔付きのスピカが写っている。
「なんか、実物の方が可愛くないですか?」
「そう? 確かに普段は、もっと呑気な表情をしてるかも」
 裏面を見ると、中央にメールアドレスが記載されていた。それよりも目を引いたのは、沢山の犬の絵だ。手描き風で、所々メールアドレスの文字と重なっている。
「裏に描いてあるイラストって、全部スピカですか?」
「私も交じってるよ。そのイラストは、患者さんたちが描いてくれたの。せっかくだからできる限り、名刺の裏に転写してもらったんだよね」
 数々のスピカに目を向ける。絵を見るだけで、沢山の年齢層の患者と関わったのがわかる。写実的な絵もあれば、いびつな丸や線だけで描かれたスピカもいる。妙に浮いていたのは、落書きのようなへのへのもへじだ。幼い患者が、凪川さんを描いたのだろう。
「凪川さん、今日はありがとう。最後に、鈴木さんが聖域にしてるベッドに触ってくるよ」
「でも……足、大丈夫ですか?」
「心配しないで。それより、スピカの休憩時間でしょ。早く休ませてあげて」
 武智さんは筋肉痛がひどいのか、洗面所の空いていた椅子に腰を下ろしていた。小夏も一人と一頭に、改めて感謝を告げた。視界の隅には、洗面台が映っている。やはり手洗いをしたい衝動がふつふつと湧き起こったが、両手を固く握ってごまかした。
「小夏ちゃん、最後に一つだけ。攻撃は最大の防御なり」
 凪川さんはそう言い残し、スピカと並んで廊下を歩き出した。

 ERPを終え、もう聖域ではなくなったベッドに横になった。至る所が気になって、全身が強張ってしまう。経験上、この辛さは二時間以上続く。三時間ほど経ってようやく、慣れ始めることが多かった。
 仰向けになって白い天井を見つめながら、ベッドシーツ交換までの日数を指折り数えた。一週間に一回と決まっているから、まだ遠い。今から多目的室に逃げ込んだとしても、何の解決にもならない。とにかく我慢して、このベッドに慣れるしかない。
 アルコール消毒用のジェルや除菌ペーパーは、ナースステーションで一時的に預かって貰っている。強迫行為の引き金となる物品が消えた空間は、妙にがらんとしていた。漠然とした不安を感じていると、洟を啜る音が聞こえた。
 隣を遮るグリーンのカーテンを見つめてから、背を向けるように寝返りを打った。洟を啜る音は、気付くと嗚咽する声に変わっている。戸惑いながら再び寝返りを打って、涙の気配に耳を澄ます。数秒迷った後、グリーンのカーテンに向けて掠れた声を放った。
「あのっ……看護師、呼びましょうか?」
 返事はなかったが、嗚咽する声が止まった。その代わり、ティッシュを抜き取るような音が何度か続いた。
「大丈夫ですか?」
「……大丈夫です」
 会話が途切れ、再びの沈黙が漂う。若干の気まずさを覚えながら仰向けになると、さっきまで正常に灯っていた蛍光灯が点滅を繰り返していた。
「蛍光灯、切れそうですね。チカチカしてる」
 天井の瞬きを眺めながら、指先でベッドシーツをいじった。自然と、胸に引っ掛かっていたことが喉元にせり上がってくる。
「あと、さっきはゴメンなさい。ビーズを拾えなくて」
 カーテン越しにまた洟を啜る音が届いただけで、返事はない。一方的に謝罪してから寝返りを打とうとすると、隣からシーツが擦れる音が聞こえた。
「……大丈夫です」
「あっ、また大丈夫って言ってますね」
「今のは、本当に大丈夫な方の……大丈夫です」
 彼女の声色はさっきより乾いていた。点滅が鬱陶しい天井を横目で捉えながら、ささくれた唇を舐める。
「えっと、お名前は?」
「……神岡春菜です」
「鈴木小夏です。ってか、そっちは春が付くんですね」
 軽口を叩いても、沈黙が返ってくるだけだった。それでも気まずさをごまかすように、会話を続ける。
「昨日挨拶をした時に制服が見えたんですけど、春菜さんは高校生ですか?」
「……今は、中二です」
 思わず、タオルケットを捲った。大人っぽい顔立ちを思い出しながら、グリーンのカーテンを凝視した。年下と知った瞬間、口調が砕けたものに変わる。
「マジ? 超大人っぽく見えるね。勝手に、絶対年上だと思ってた」
「……老け顔なだけです」
 予想外の驚きは簡単には消えず「うへぇ」とか「マジかぁ」を、連発してしまった。蛍光灯が完全に切れたタイミングで、春菜ちゃんが言った。
「……もし良かったら、この区切ってるカーテンを開けても良いですか?」
 正直、どこに触れているかわからない手でカーテンを開けてほしくはない。口元を結んだまま、手元のシーツを強く摑む。よく考えれば、これもERPの一つかもしれない。そもそも、既に聖域は汚れている。
「別にいいよ」
「……ありがとうございます」
 お互いの病床を仕切っていたカーテンが、ゆっくりと開いた。夏なのにグレーのパーカを着た春菜ちゃんが、ベッド上で体育座りをしている。小夏も起き上がり、胡座を組んだ。一瞬マスクを付けようか迷ったが、止めた。隣のベッドまではそれなりに距離が空いている。それに通学ができていない分、久しぶりに同年代の人間と顔を合わせて喋りたかった。
「こうやって話すの、初めてですね……」
 春菜ちゃんの目元は、赤く腫れあがっていた。敢えて泣いていた理由には触れず、若干の恥ずかしさを隠すように微笑みを向けた。
「だよね。あたし、この部屋に移ってきたばっかで緊張してたから」
「わたしも今、緊張してて……気分的に、誰かの顔を見ながら喋りたいなって」
 理解を示すように大げさに頷くと、彼女は前髪をいじりながら続けた。
「これから、面会が控えてるんです……」
「そっか。来るのは、親?」
「いえ、親じゃないんですけど……少し苦手な人たちで」
 言い淀む返事を聞いて、自分自身に置き換えた。もし父親が面会に来るようなことがあれば、正気を保つのは難しい。せめて今は、楽しい話題の方が良いはずだ。彼女の不安を察して、不自然だと思いつつも話題を変える。
「春菜ちゃんは、好きな漫画とか音楽ってある?」
「漫画はあまり読まないんですけど……音楽なら、ラジオアプリで聴いてます。さっきも、一条星矢さんって人がパーソナリティーの番組を聴いてて」
 春菜ちゃんが初めて、わずかに笑みをこぼした。口元からは、白い八重歯が覗いている。そこだけ、年相応に見えた。
 体育座りと胡座のまま、ぽつりぽつりと会話を続けた。好きな音楽から始まり、好きな芸能人やYouTuber。美味しかった病院食や、退院したら食べたいスイーツについて。とりとめのない内容ばかりの会話は、自然と頰を緩ませた。
 お互い話しやすい看護師の名前を挙げ終わった後、唐突に会話が途切れた。春菜ちゃんはなぜかパーカのフードを被ると、目を伏せた。
「小夏さんって、汚れるのが嫌なんですか?」
 心臓が強く鳴った。曖昧な笑みを浮かべながら、無言で朝から放置したままの寝癖に指を絡ませる。
「すみません……看護師さんと話してるのが、聞こえちゃって」
「別に大丈夫。中二の時に、強迫性障害って診断されたの。それ以来、なかなか手洗いが止められなくて」
 あかぎれた両手を掲げた。うつろな視線が、小夏の手元に注がれる。同室者はすぐに目を逸らすと、血色の悪い唇を上下させた。
「わたしにも、なかなか止められないことがあって」
 春菜ちゃんはなぜか、着ていたパーカの左袖を捲った。細い腕の内側に刻まれたバーコードのような横線を見て、変な声が漏れそうになってしまう。手首から肘にかけて広範囲に並ぶ切り傷は、自然にできたようには到底思えない。彼女が自ら刻んだであろう赤い線は、色白の肌の上だと余計目立っていた。
 小夏は鼻先を搔きながら、こんな時に掛ける言葉を必死で探した。返答によっては、瞬時にカーテンが閉まってしまうだろう。彼女の細い手首には、一本のヘアゴムが巻かれていた。それを見つめながら、何気ない口調を装いながら訊いた。
「手、洗う時に沁みない?」
「そうですね。切った直後は」
「血は出てなそうだけど、最近もしてるの?」
「したい気持ちはありますけど……病棟にはカッターを持ち込めないので。どうしてもキツい時は、なんとかこれで我慢しています」
 彼女は手首に巻いてあるヘアゴムを、思いっきり引っ張った。唐突に手を離すと、朝方に聞こえた例の音が響いた。色白の皮膚が、ほのかに赤みを帯びていく。
「アームカットの代わりです。正直、全然もの足りないけど」
 形の良い唇から、八重歯が覗いた。さっき見た幼さは消え去り、妙な痛々しさがある。
「春菜ちゃんが入院した理由って、自傷が止められないから?」
「そうですね。それに、死にたくなるような時もあって」
 淡々とした返事だった。多分、誇張も噓もないのだろう。否定も肯定もせずに、事実だけを返す。
「今日、そのヘアゴムの音で目が覚めたよ」
「えっ、すみません……」
「別に良いよ。春菜ちゃんが少しでも楽になるなら、いくらでもパチンってやって」
 気を遣ったわけではなく、本音だった。彼女が自傷する瞬間の気持ちは、何度も手を洗ってしまう感覚と似ているかもしれない。それにカッターで切り傷を増やすより、ヘアゴムで皮膚を少し赤らめた方がマシだ。春菜ちゃんは腕に刻まれた傷をゆっくり撫でると、パーカの袖を戻しながら呟いた。
「時々、身体から魂が離れていくような気がしちゃって」
「それって、幽体離脱的な?」
「そんな感じです。頭がボーっとして、意識が遠のきそうになるし」
 彼女は一度言葉を区切ると、今度はパーカの上から腕を摩った。
「魂が行方不明になっちゃう前に、腕を切るんです。痛くて、ちょっとだけ正気を保てるから」
 差し込んだ光が、窓辺でぶら下がった制服に斜線を描いている。普通の日常から外れた場所で、お互いの秘密を見せ合っている。別にどっちの方が辛いか、比べ合っているわけではない。ただ、痛みを言葉にして他人に伝える。それだけで、救える感情が少しだけあるような気がした。
「あたしがこの病気になったのは、父の影響もあってさ」
 胡座を解いて、体育座りに体勢を変えた。窓辺に吊るされている制服は、ブレザータイプだった。白いブラウスやチェック柄のスカートを目に映しながら、喉元に力を入れる。
「あたしの父って、外面だけは超良いの。仕事でも頼りにされてたみたいだし、部下の人たちもよくウチに遊びに来てたんだ。でもさ、家族の前では豹変するんだよね。いつも不機嫌で、怒りっぽくなって。本人は指導とか教育だって言って、お母さんをよく殴ってた」
 気を逸らすように、制服を凝視した。紺色のブレザーの肩あたりに、細いミミズのような糸くずが這っている。
「子どもながらに、いつも考えてた。父と会うなら、外が良いなって。で、そんな外面の良い人が、ずっと不倫をしてたの。それが、三年前に発覚してさ。お母さんに対する愛はないだろうとは思ってたけど、実際知ったらマジで引いちゃって」
 頰の筋肉や口元が強張り、不意に言葉が詰まった。動揺を悟られないように、無理やり口角を上げて笑顔を作る。父の汚らしさを、真顔で語れる自信はない。本音とは異なった表情で武装していないと、胸の騒めきに飲み込まれてしまう。
「それ以来、なんか父が汚く見えちゃって。気付いたら、こんなことになってた」
 おどけた調子で、両手を掲げた。春菜ちゃんは、ずっと口を挟まず無言だった。相槌の代わりのように、ヘアゴムを弾く音が度々響いている。
「……正直、そういう話は苦手です」
 抑揚のない声だった。咄嗟に春菜ちゃんから目を逸らし、さっきより赤みを帯びた手首を見つめる。また色白の指が、ヘアゴムを引っ張って離した。
「でも、ありがとうございます。小夏さんの嫌だった出来事を、話してくれて」
 春菜ちゃんは被っていたパーカのフードを捲ると、感謝を示すように一度頭を下げた。
「こちらこそ。なんていうか……聞いてくれて、ありがとう」
「いえ……わたしも小夏さんのように、上手に話したいです」
 思わず謙遜しながら首を横に振ると、春菜ちゃんが続けた。
「わたし緊張すると、喉に何か詰まってるみたいに声が出なくなっちゃうんです。だから心理士さんとのカウンセリングでも、黙り込んでしまうことが多くて」
「あたしだって、同じだよ。人前では緊張しやすいし」
 話を合わせたわけではなく、本当だった。春菜ちゃんの口元に一瞬だけ笑顔の欠片のようなものが見えたが、それはすぐに消えた。
「でも……今のわたしは、それじゃダメなんです。だから今度のカウンセリングでは、DI犬が付き添ってくれるようになったんです。犬を撫でながら、リラックスして話せるようにって」
「へぇ、そうなんだ。あたしも今日、初めてスピカに会ったよ」
「知ってます。午前中、看護師さんと話してる内容が聞こえちゃったんで。ちなみに小夏さんは、コートハウス・ファシリティ・ドッグって知ってます?」
「何それ? バンド名?」
 春菜ちゃんはわずかに吹き出すと、大げさに首を横に振った。
「小夏さんは、犬が好きですか?」
「好きだよ。昔、飼ってたこともあるし。春菜ちゃんは?」
「正直言うと、犬より猫派かも」
 彼女は首元から垂れるパーカの紐を指に絡ませながら、続けた。
「スピカって、可愛いですか?」
「うん、とっても。貰った名刺にスピカの顔写真貼ってあるけど、見る?」
「はい。見たいです」
 早速、ポケットを探った。彼女に名刺を渡すと、形の良い唇が瞬時に緩んだ。
「可愛いし、賢そうですね」
「でしょ? 実物は、もっと良い感じだよ」
 彼女はスピカの顔写真を眺めてから、何気なく名刺を裏返した。ほころんでいた表情がなぜか曇り始める。目元から、光が消えていくのが伝わった。
「どうかした?」
「いえ……別に」
 返された名刺を、それとなく確認した。特に、気分を害するような箇所は見当たらない。メールアドレスに、患者が描いたスピカの絵が転写されているだけだ。首を捻りながら顔を上げると、彼女の頰に涙が伝っていた。
「えっ、どうした?」
 彼女は質問には答えず、潤んだ目元をパーカの袖口で乱暴に拭った。灰色の生地が少しだけ濡れて、その部分の色が濃くなっていく。
「そろそろ、弁護士と児相の人が来る時間なのでホールで待ってます」
「ベンゴシとジソウ?」
「わたしの代理人になってくれた人と、児童相談所の職員さんです」
 春菜ちゃんは床に揃えてあったスニーカーに足を入れると、最後に深々と頭を下げた。
「話に付き合ってくれて、ありがとうございました」
 返事をする暇もなく、彼女の足音が廊下に消えていく。一人になると、彼女が去り際に話した内容が頭の中を巡った。児童相談所が関わっているということは、家庭環境に何か問題でもあるのだろうか。太腿あたりから痺れを感じ、体育座りを解いてベッドに横になる。春菜ちゃんと話していたせいか、汚れた聖域はさっきよりも気にならなくなっていた。
「コートハウス、ファシリティ、ドッグ……」
 その言葉をスマホで検索すると、数々の記事の見出しが出てきた。やはり、バンド名ではなさそうだ。表示されたネット記事の一つを、何の気なしにタップした。
〈虐待や性被害にあった子どもが被害状況を証言する際、さらなる心理的負担を受けないようにサポートする犬。司法面接の場や法廷で証言する子どもの側に寄り添う。〉
 サイトに掲載されていた画像には、一頭の犬が映っていた。スピカと同じように、ベストを着ている。記事を全て読み終わると、汗とは違う冷たい感触が背筋に伝い、スマホを持つ指先が震えた。
『正直、そういう話は苦手です』
 手から滑り落ちたスマホがベッドで跳ね、危険地帯の床で派手な音を立てた。画面に刻まれた新しい亀裂を眺めても、何も感じない。春菜ちゃんのあの時の声が、いつの間にか耳鳴りに変わっていた。

 翌朝は、蒸し暑くて目が覚めた。薄いタオルケットからはみ出した足先が、触れなくても汗ばんでいるのがわかる。何度か寝返りを打ちながら、隣のベッドに耳を澄ます。ヘアゴムを弾く音はせず、微かな寝息だけがカーテンを通過してくる。あれから春菜ちゃんと話すことはなく、病室には静かな時間が流れていた。
 昨日は室内灯が点灯してすぐに洗面所へ向かったが、今日は三十分も我慢した。嫌な熱が籠る手でソッとカーテンを開く。顔を隠すように俯き、固い決意を胸に沈めた。
 今日から絶対に、素手で蛇口レバーを触る。
 自らに暗示を掛けるように、脳裏でその言葉を繰り返す。それでも、若干の後ろめたさが混じってしまう。昨日せっかく汚した聖域に、さっき除菌消臭スプレーを吹き掛けてしまったせいだ。
 自室を出て廊下を進むと、無人の洗面所が目に映り始めた。一歩一歩近づく度に、錨のように沈めていた固い決意が都合の良い言い訳に変わっていく。
 今日は起きてから三十分も手洗いを我慢できた。昨日よりも進歩している。
 今はただ、朝食前に手を洗うだけだ。新型コロナウイルス感染予防として、当たり前のこと。誰だってやっている清潔行動。
 小走りで洗面台の前に立ち、レバーに目を落とす。そのまま手を伸ばそうとしたが、途中で動きが止まった。
 目前にレバーはあるのに、かなり遠くで鈍い光を発しているように見える。昨日は素手で触れられた事実が、今は幻のようだ。恐る恐る周囲を見回しても他の患者の気配は感じず、洗面所に一人。気が散る電気シェーバーの音は聞こえないし、隣に白い犬の姿もない。
「……明日から、頑張ろう」
 あかぎれた手が方向を変えると、ペーパーを抜き取る軽快な音がむなしく響いた。顔を上げた先の洗面鏡には、歪んだニキビ顔が映っている。青白い下唇を、血が出そうなほどに嚙み締めている。この表情は後悔のせいなのか、卑屈な諦めのせいなのか、自分でも判断がつかない。とにかく頭の中を真っ白にして、ぺーパー越しにレバーに触れる。水が流れる音は心地良い旋律を奏で、漂う石鹸の香りは身体の芯を痺れさせていく。急速に、さっきまでの葛藤がどうでも良くなった。汚れた手を、納得するまで洗う。今は、その行動が全てだ。大袈裟ではなく、この日々を生き抜くための全てだ。
 朝食を食べ終え、看護師の検温が終わると、早くも午前中はやることがなくなった。午後からは、またERPが控えている。今日は忌引明けの担当心理士と一緒に、病棟出入り口のドアノブに触れる予定だ。不安階層表の項目を思い出しながら、ベッドシーツに除菌消臭スプレーを吹き掛けた。聖域を創り直す音が、普段よりいまいましい。
 本日七回目のジェルを両手に垂らしていると、病室のドアが開く音が聞こえた。咄嗟にジェルの容器を、タオルケットの下に隠した。
「こんにちはー、DI犬が入ります」
 周囲に垂れ下がったカーテンのせいで姿は確認できないが、ハンドラーと白い犬の姿が脳裏に浮かぶ。一人と一頭の足音は小夏のベッドを通り過ぎ、その先で止まった。
「春菜ちゃん、初めまして。スピカを連れてきたんだけど、入っても良いかな?」
 少し間が空いて、久しぶりに春菜ちゃんの声が耳に届く。
「本当に、犬がいるんですね」
「珍しいでしょ。普段は、本棟の患者さんたちと関わることが多いの」
 凪川さんの「Sit」と告げる声が、カーテンを通り抜けた。二人の会話を聞きながら、隠していた容器に触れる。蓋が緩んでいたせいか、タオルケットにジェルが溢れて濡れていた。もったいないと感じる前に、シーツが更に清潔になったと考えてしまう。
「心理士さんって、まだ来てないかな?」
「はい……カウンセリングは、十時十五分からなので」
「あれっ、十時じゃなかったっけ? 私、時間間違えたかも」
「大丈夫です。心理士さんが来るまで、スピカと遊んでますから」
 春菜ちゃんと一緒にスピカを撫でたい気持ちが湧き上がったが、同時に不潔恐怖が膨らみ始める。昨日はスピカに触れられたが、今日は無理かもしれない。嫌な予感は、カーテンを開けようとする手を躊躇させた。
「カウンセリング中は、私も同席することになるの。スピカのリードを、握ってなきゃいけないからさ」
「わかりました……」
「でも、安心して。内容が聞こえないように、ずっとイヤホンしとくね。私のことは、マネキンだと思って」
 春菜ちゃんは心理面接で、どれほど辛い話をするのだろうか。そんな心配を、無理やり頭の隅に追いやる。結局のところ、自分には関係ないし、何もできない。
「そうそう、初めての患者さんには名刺を渡してるの。あれ、どこに仕舞ってたっけ……」
 ハンドラーが名刺を差し出そうとしているのを察した瞬間、色白の頰を伝う涙の映像が蘇った。気付くと、床に揃えてあるスニーカーに足を突っ込んでいた。強迫観念に振り回される暇もなく、あかぎれた手が目前に垂れ下がるカーテンに伸びた。
「あのっ」
 カーテンを開けた先では、二人が目を丸くしていた。なぜか凪川さんは小脇にバスタオルを抱えていて、それを落としそうになっている。突然割り込んだことを謝ることすら忘れ、ハンドラーの手元に目を向けた。予想通り、見覚えのある名刺が浅黒い指先に挟まれている。ギリギリのところで間に合った。
「その名刺……渡さない方が、良いかもです」
 凪川さんが疑問を呈するように、首を捻った。春菜ちゃんはベッドの端に腰掛け、軽く唇を嚙んでいる。窓から差し込んだ光が、彼女を斜めに染めていた。
「大丈夫ですよ。普通に貰います」
「でも、昨日は……」
「あの時は、たまたまそんな気分で。だから、大丈夫です」
 春菜ちゃんは笑顔で、名刺を受け取った。その表情とは裏腹に、色白の指先は微かに震えている。小夏は奥歯を嚙み締めて、同室者を見据えた。
「今の大丈夫は、本当の方?」
 春菜ちゃんの表情は変わらなかったが、ある種のメッセージのようにヘアゴムを弾く音が聞こえ始めた。徐々に彼女の両目は潤み始め、湿った息遣いが病室に漂い始める。唐突に思い直す。大丈夫が本当でも偽物でも、どっちでも良い。自分だって、本音とは真逆の噓を日常の中で沢山吐いている。その場を上手くやり過ごすために、無理やり笑顔を浮かべたことだって数え切れない。春菜ちゃんに対するお節介な心配が、後悔に変わっていく。余計な一言を謝ろうとした瞬間、無言のメッセージが止まった。
「苦手なんです。へのへのもへじが」
 春菜ちゃんはそう呟き、ゆっくりと名刺を裏返した。
「お父さんに嫌なことをされた後、お尻にこれを落書きされたことがあって」
 何でもないような口調だったせいで、聞き逃しそうになってしまった。口を半開きにしながら、今耳にした内容を頭の中で反復する。お父さん、嫌なこと、お尻、落書き。その言葉には、吐き気を催すようなおぞましさが存在していた。
「水性のマジックだったんですけど、なかなか消えなくて」
 春菜ちゃんの頰を伝い顎から滴る雫を見ていると、思考の歯車が嚙み合わなくなっていく。どう返事をすれば良いかわからず、助けを求めるようにブルーのカットソーに視線を送った。凪川さんは付けていたマスクの位置を直すと、落ち着いた声で告げた。
「ありがとね。辛い出来事を話してくれて。話の続きは、担当の心理士さんが来てからにしようか。できるだけ負担なく、春菜ちゃんが想いを表出できる環境を整えるからさ」
 春菜ちゃんはいつの間にか、返事ができないほど呼吸を乱していた。華奢な肩を大きく上下し、浅い息遣いが周囲に響く。凪川さんがバスタオルを小脇に抱えたまま、彼女に一歩近寄った。
「今はゆっくり、深呼吸ね。吸って、吐いて。そうね。その調子」
 春菜ちゃんは片手を胸に当て、声掛けに合わせ深呼吸を繰り返し始めた。ハンドラーはスピカを撫でる時と同じような手付きで、震える背中を優しく摩り続けている。
「春菜ちゃんが体験したことは、とても痛くて、苦しくて、誰にも相談できないような、あなたの存在を踏みにじる最低な行為。本当に、辛かったね」
 凪川さんは一度言葉を区切ると、遠い眼差しを浮かべた。
「実は私も、親が大嫌いなんだよね。今まで、まともに喋った記憶もないしね」
 ハンドラーの口調は明るかったが、マスクで隠されていない目元には影が差している。
「何を言いたいかというと……確かにあなたを傷付ける人もいるけど、同時に助けてくれる人も絶対にいる。だから今は私たちや、サポートしてくれる大人を頼って」
 よく陽に焼けた手がショルダーバッグの中からポケットティッシュを取り出し、春菜ちゃんに差し出した。薄く柔らかな紙が、彼女の涙を吸い込んで濡れていく。色白の手の震えは止まっていた。荒い呼吸音も、いくらか落ち着きを取り戻している。
「カウンセリング前に、少し横になってクールダウンしよっか」
 凪川さんの提案に、春菜ちゃんが頷いた。彼女がベッドに横になると、凪川さんがもう少し端に寄るように優しく告げた。言われるがまま、春菜ちゃんがベッドの右端に寄った。空いたスペースに、なぜかバスタオルが広げられた。
「スピカは、患者さんとの添い寝が大好きなんだ」
 ハンドラーは呟くと、お座りをしたままの白い犬と目を合わせた。
「Jump on」
 スピカは垂れた耳をわずかに動かし、ゆっくりと立ち上がった。白い犬はふわりとベッドに乗り上げると、バスタオルの上で尻尾を振った。春菜ちゃんに背を向けるような体勢で横になった後、一度鼻を鳴らした。
「僕を思いっきり抱きしめて良いよ、だって」
 春菜ちゃんの手がスピカの首回りに伸びた。白い犬は特に大きな反応を見せず、ただジッと身を任せながら尻尾だけを振っている。春菜ちゃんの鼻先が白い毛に触れ、スピカの香りを吸い込む息遣いが聞こえた。
「お父さん、わたしがホラ吹いてるって話してるんです……そんな事実は、一切ないって」
 春菜ちゃんはヘアゴムをつけている方の手でスピカの前脚を握り、淡々と話し出した。彼女は今後、裁判で証言する予定らしい。〝監護者性交等罪〟という罪が、事実であったことを証明するために。
「証言する日は、実際にお父さんの顔を見なくて済むんですけど……頭が真っ白になる予感がして」
 当日は、ビデオリンク方式と呼ばれる方法が採用されるようだった。春菜ちゃんの心理的負担に配慮し、法廷に繫がるテレビモニター越しに、別室から証言を行う予定らしい。彼女は一度口元を結ぶと、顔をスピカのうなじに沈めた。
「その日は……頑張りたいんです。本当のことを話せるのは、世界にわたし一人だけなので」
 ずっと何の反応もしなかったスピカが、ゆっくりと春菜ちゃんの方に顔を向けた。二つの大きな瞳は、意識して彼女を捉えている。その眼差しからは、慰めも、同情も、励ましも感じなかった。ただ真っ直ぐ、今ここにいる人間を見つめている。
 春菜ちゃんが目線を上げた。一人と一頭が目を合わせたまま、無言の数秒が過ぎる。
「わたし、間違ってました。やっぱり、猫より犬派かも」
 空模様が変わったのか、窓から差し込む線のような光が消えた。眩しさを失った場所の方が、一人と一頭の輪郭が鮮明に伝わった。

 時間通り心理士が到着すると、ハンドラーの指示でスピカはベッドから降りた。カウンセリングは、診察室で実施するらしい。廊下に踏み出そうとする三人と一頭を目で追いながら、喉が震えた。
「また、カーテン開けてね」
 春菜ちゃんは足を止め、わずかに頷いた。パーカの袖口から、アームカットの傷跡が覗いている。それは彼女の不安定さが刻まれているというより、数々の辛い時間を耐えた証明のように今は見えた。
 病室の引き戸が閉まる音が、妙に耳に残る。昨日は個室に戻りたいと強く願っていたはずだが、こうして独りになると寂しい。思いつきで、何度か手首を軽く叩いてみる。ヘアゴムが当たる音とは、全く違っていた。
 創り直している聖域に寝転びながら、スマホに手を伸ばした。春菜ちゃんの勇気ある決意に感化されたのか、身体の奥で灯火が光を放っている。心の中でスリーカウントを唱えると、LINEを開いて母親のアイコンをタップした。指先に宿る熱に促され、一気に短い文章を打ち込む。
『今度、あの手紙を持ってきて』
 送信ボタンをタッチしようとする親指は、鉛に変わったように重くて動かない。そこだけ、脳からの指令を拒否しているみたいだ。今度は溜息と一緒に、諦めを吐き出す。不安レベル80の壁は、まだ高い。勢いでどうにかなる問題ではないから、疾患名が付けられているんだろう。
 結局メッセージの送信を保留にしたまま、枕元にスマホを放り投げた。再び横になって、真新しい蛍光灯を眺め続ける。
 隣を向くと、夏の光が視界を霞ませた。仕切りのカーテンは開いたままだった。捲られたままのタオルケット、眩しい光を弾く白いシーツ、少しだけ窪んだ枕。シーツの一部には、点を描くように濡れている部分があった。夏の光が乾かしてしまう前に、涙の跡をジッと見つめる。そのすぐ近くには、スピカが寝転んだ気配も刻まれていた。同室者の側に寄り添うつぶらな瞳を思い出し、短く声を漏らす。
「Jump on」
 頭の中で描いたスピカが、舌を出して駆け寄ってくる。しかし白い身体は、聖域に乗り入れることはなかった。消毒用品が並ぶ低い棚に前脚を掛け、二本脚で立ち上がっている。そして一度、こちらにチラリと視線を送った。
 起き上がって隣の病床を遮るカーテンを閉めると、想像上のスピカは消えてしまった。それでも、突き動かすような灯火が身体の奥でまだ揺らめいている。
 レベル80が無理なら、もっと低い項目に挑戦すれば良い。全部を諦める理由なんて、絶対にないはずだ。
 低い棚に向けて、頭の中を真っ白にしながら手を伸ばす。消毒用品を視界から消すように、次々と床頭台の引き出しに詰め込んだ。全ての消毒用品を片付け終わると、不安階層表を取り出す。紙面に並ぶ内容を確認し、不安レベル50の欄に目を留めた。
〈面会室のドアノブに素手で触る〉
 早速、脳裏でシミュレーションを繰り返した。
 イメージの中の小夏は、胸を張って廊下を歩き始める。それでも面会室に近づくにつれ、両足は重くなっていく。そんな時は途中で立ち止まり、一息つけば良い。急ぐことも、焦ることもない。プールに飛び込む瞬間を思い出しながら、嫌なイメージを塗り潰す。面会室の前に立ったら、肺の底に届くように息を吸い込んで一気に止める。その後は、目を瞑っても大丈夫。ドアノブを、強く握る勇気さえ残っていれば。
「……攻撃は最大の防御なり」
 浅い呼吸の合間に、昨日聞いた言葉をおまじないのように呟く。踵を踏んでいたスニーカーを履き直すと、マスクを付けるのも忘れて足早に自室から抜け出した。重要なのはイメージだ。不安に足を突っ込むように、廊下に伸びる影を踏んでいく。
 視界の先に面会室をとらえた。予想通り両足の動きが鈍くなっていく。急に自分の周囲だけ、重力が狂ったように身体全体が重くなった。不安に呑み込まれないように一度足を止めて、両膝に手を突く。あかぎれた手や汚れがあるスニーカーが目に映ると、さっきまで確かに感じていた灯火が熱を失っていく。面会室に近づくだけで、全身が汚れていくような気がする。何度か頭を振ったが、肥大化していく嫌なイメージを振り落とすことができない。
 まだ、不安レベル50ですら。
 一度弱気になると、悪い癖のように言い訳が脳裏に並び始めた。マスクを付けるのを忘れたから、一回部屋に戻った方が良いかもしれない。まずは気分を落ち着かせるために、軽く手を洗った方が良いかもしれない。
 その時、間延びした声が聞こえ、顔を上げた。
「他にビーズを使う人は、いませんかー?」
 右手にある病棟ホールでは、昨日と同じように机上作業が行われている。患者たちが真剣な眼差しを浮かべ、手を動かしていた。逃げ帰ることを先送りにするように、リハビリが行われている光景をぼんやり眺める。不意に、ある患者の手元に目を奪われた。その人はアクリルビーズでブレスレットを作っていた。
 反射的に、春菜ちゃんの姿が浮かんだ。アクリルビーズで作った品だったとしても、彼女が身に付ければ本物の宝石のように輝くような気がする。少なくとも、あのヘアゴムよりはマシなはずだ。パチンと鳴らす音は余計うるさくなるかもしれないが、それでも構わない。少しでも彼女の気休めになるのなら。
 病棟ホールから顔を逸らし、面会室のドアを睨んだ。あの取手を素手で握ることができたら、そのまま机上作業に参加する。新しい決意を胸に、痛々しい手に目を落とす。このあかぎれた両手は、汚れてなんかいない。たとえ汚れていたとしても、大丈夫。誰かに対する想いを形作れる手は、きっと美しいはずだから。
 何度か深呼吸を繰り返す。そして、飛び込み台に立つ姿を頭の中に満たした。面会室に向けて一歩を踏み出した瞬間、鼻の奥で塩素の混じる水飛沫が香った。

(第2章 終わり)

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前川 ほまれ(まえかわ・ほまれ)
1986年生まれ、宮城県出身。看護師として働くかたわら、小説を書き始め、2017年『跡を消す 特殊清掃専門会社デッドモーニング』で、第7回ポプラ社小説新人賞を受賞しデビュー。2019年刊行『シークレット・ペイン 夜去医療刑務所・南病舎』は第22回大藪春彦賞の候補となる。2023年刊行『藍色時刻の君たちは』で第14回山田風太郎賞を受賞。その他の著書に『セゾン・サンカンシオン』がある。

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