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【試し読み】寺地はるなさんの連作シリーズ第6弾『焼き上がるまで』

■著者紹介

寺地はるな(てらち・はるな)
1977年、佐賀県生まれ。大阪府在住。2014 年、『ビオレタ』で第4回ポプラ社小説新人賞を受賞しデビュー。2020年、『夜が暗いとはかぎらない』が第33回山本周五郎賞候補作に。令和2年度「咲くやこの花賞」(文芸その他部門)受賞。2021年、『水を縫う』が第42回吉川英治文学新人賞候補作にノミネートされ、第9回河合隼雄物語賞を受賞。『大人は泣かないと思っていた』『今日のハチミツ、あしたの私』『ほたるいしマジカルランド』『声の在りか』『雨夜の星たち』『ガラスの海を渡る舟』『タイムマシンに乗れないぼくたち』など著書多数。

■あらすじ

あたしの名前は谷川愛里咲。まったく土地勘のないこの町に流れ着いてもう何年になるんだろう。前身がスナックの惣菜屋をやっていて、スナックのママの息子と結婚して、その夫は売れない小説家。ってこういう身の上を聞くと、みんな好き勝手にあたしの“不幸”を欲しがるんだよね。今回、町内会長からかんたんレシピを教えてって依頼されたから、いい機会だし、あたしのこともついでに話そうかな。

■本文

1 グラタン皿に有塩バターを塗ります。にんにく一かけをすりおろして、これもまた皿に塗ります。
 
 こんにちは。あたしの名前は愛里咲ありさです。たまに「それって源氏名でしょ? 本名を教えて」なんて言うひとがいます。でもこれ、れっきとした本名です。谷川たにがわ愛里咲。住民票を見せてあげてもいいですよ。
 自己紹介からはじまるレシピを読むなんてはじめて、というかたも多いでしょう。でも、どこの誰なのかもわからない人間のレシピで料理をつくる気にはならないんじゃないかなと思いまして。だからまず、あたしはけっしてあやしい者ではありませんよってことを、みなさんにお伝えしようと思いました。でも「あやしい者ではありません」って、基本的にすごくあやしい人間が口にするセリフですよね。
 この町内で『惣菜や 路傍の石』という店をやっております。ご存じだったらうれしいんですけど。このたび、町内会長から「町内会の会報の隅に載せるから、かんたんな料理のレシピをちゃちゃっと書いてくれ」と頼まれて、引き受けることになりました。もちろん「ちゃちゃっと? ハハン、言ってくれるじゃないの」と思わなかったと言ったら噓になります。みんなが自炊をはじめたらうちのお惣菜が売れなくなっちゃうよ、という心配や不満もあります。でもいろいろ思うところあって、引き受けました。全三回の予定です。不評だったら、一回で終わりだそうです。
 初心者でも「つくってみようかな」と、その気にさせるレシピ。町内会長はそういうレシピをご所望です。でもね、これ普段お料理する人ならわかってくれると思うんですけど、初心者が読んで理解できる「かんたんな料理のレシピ」を書くって、とっても難しいことなんです。レシピって、とても簡潔な文章で書かれているでしょう。簡潔すぎてはじめてお料理する人はわからないのよね、「塩少々」や「しょうが一かけ」がどのぐらいとか、「肉の色が変わったら」っていったいどういう状態のことなのかとか、そういうことが。
 そこでひとつ、あたしが考える真の「初心者向け」のレシピを書いてみようじゃないか。そう思い立ったわけです。あなたは「1」の文章を読んで、どうやって「グラタン皿にバターを塗る」のか、具体的にイメージできましたか。この作業はトーストにバターを塗るのとはわけが違います。どう違うのか、今から説明しますね。まず、冷蔵庫からバターを取り出しておく。そうね、十五グラムぐらいかな。はかりを持っていないんだったら、今すぐご町内のミネタ電器に買いにいってくださいね。閉まっている時間帯にこれを読んでいる場合は、駅前の喫茶まーがれっとのモーニングセットについてくる、あの金色の紙に包まれた四角いバターがあるでしょう、あれぐらいの量だと思って。小皿にのせて、しばらく流しの端にでも置いといて、すこしやわらかくなるまで待ってね。待てないからって電子レンジにかけてはいけません。ぐるぐるまわったあとの虎みたいにどろどろに溶けてしまうから。パン用のマーガリンでもいいかな、と思った人へ。いいですよ、いいですけど、とうぜんのごとく味も風味も違う、ということだけはお伝えしておきます。
 やわらかくなったら、そのバターをグラタン皿にのせて、ラップフィルムをくちゃくちゃに丸めたものをつかって塗り広げます。どうしてこの作業が必要なのかというと、あとでオーブンで焼く時に焦げつきをなくすため。バターの香りで風味も良くなります。続いてにんにくをすりおろして同じように塗ります。にんにくをすりおろすのがめんどうだったらチューブのやつを買ってきてね。
 指に匂いがうつっちゃうのがイヤなら、ビニール手袋をすればいい。まあ、それでもちょっと、どうしたって匂いはついてしまうんですけど。でもにんにくは、ぜったいにぜったいに省略しないでください。
 バターがやわらかくなるのを待つあいだ、またすこしだけあたしの話をしましょう。あたしがこの町にうつりすんだのは、もう十年以上も前のことです。その頃は惣菜のお店ではなく、『文学スナック 路傍の石』でした。ひょんなことからママと仲良くなって、働きはじめて、その後ママの息子のけいちゃんと結婚して今に至る、というわけです。
 客商売をしていると、よく「これまでに、さぞかしいろんな苦労があったんだろうね」なんて訳知り顔で言う人があります。夜働く女にはもれなく仄暗い過去があるとでも思っているのね。そうであってほしい、と期待する気持ちもあるんでしょう。人は物語を欲する生きもの。ご期待に添うべく、伏し目がちに「まあ、ね……」なんて意味ありげに呟いてみせたり、架空の打ち明け話をしてみたりした時期もあったけど、ある時からそういう小芝居がばかばかしくなっちゃって、訊かれた時には真実を話すようになりました。
いたって平凡な生い立ちで、話すとたいていがっかりした顔をされます。あたしは会社員の父とパートタイマーの母のもとに生まれた次女で、右利きで、血液型は日本人にいちばん多い型で、公立の小中学校を経て私立の女子高、付属の短大へと進み、そのあと信用金庫に数年勤め、それからひょんなことから『文学スナック 路傍の石』で働くことになった。ただそれだけの、仄暗い過去なんかひとつもありゃあしない女です。出身地はとある地方都市とだけ言っておきましょう。いいところですよ。大雪が降ることもなければ地震もめったにない、台風は来るけど毎年そんなに被害があるわけでもない。国道沿いに全国チェーンの店がいくつも並んでいるような、そういう。
 あ! このタイミングでオーブンを百八十度、三十分予熱しておきましょうね。ここ大事。すごく大事なことだから最初に書いておかなきゃいけなかったのに、ごめんなさいね。あと、このレシピの分量はふたりぶんです。
 
 
2 薄く切ったじゃがいもをグラタン皿に並べます。
 
 じゃがいもは三つ。よく洗って、皮を剝いてね。駅前の百円ショップに皮むき器が売ってあります。どこに置いてあるのかわからない時は店員のマキちゃんに訊いてね。ちなみにマキちゃんの口癖は「そこになかったらないですね」です。あのさっぱりした接客が大好き! かっこいいよね、彼女。(続く)

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