見出し画像

コロナ禍に同性婚した女性が感じる、家族と個人の関係性──『観音様の環』李琴峰インタビュー

『彼岸花が咲く島』で、第165回芥川賞を受賞した李琴峰さん。U-NEXTでは、そんな李さんがコロナ禍の同性婚を描いた小説『観音様の環』を配信しています。

瀬戸内の島で育ったマヤは、父親の暴力、そして母親からの支配と束縛から逃れるため東京へ。そしてジェシカとの結婚を機に、台湾へ移り住みます。ジェシカとの生活を通して感じた葛藤や歯がゆさ。母親の故郷でもある台湾の港町で、湧き上がってきた記憶。『ポラリスが降り注ぐ夜』とゆるやかにつながる、家族の物語について李さんにお話をうかがいました。


画像2


李 琴峰(り・ことみ)
1989年台湾生まれ。日中二言語作家、翻訳家。
2017年、初めて日本語で書いた小説『独り舞』(講談社)が群像新人文学賞優秀作を受賞し、作家デビュー。2019年発表の『五つ数えれば三日月が』(文藝春秋)は芥川龍之介賞と野間文芸新人賞のダブル候補となる。2021年、『ポラリスが降り注ぐ夜』(筑摩書房)で芸術選奨文部科学大臣新人賞を、『彼岸花が咲く島』(文藝春秋)で芥川賞を受賞。他の著書に『星月夜』(集英社)がある。


結婚してあらためて気づく、家族と親族の違い


──『観音様の環』は、コロナ禍の中、台湾で同性婚をしたマヤとジェシカの物語を描いています。この小説の出発点を教えてください。

李:この小説は芥川賞を受賞する前、2021年4月頃から書き始めました。そもそもは、U-NEXTの編集者からご依頼をいただいたのがきっかけです。そのメールには、私が以前執筆した『ポラリスが降り注ぐ夜』が好きであること、あの作品のような人間関係を描いた小説が書いてほしいというリクエストが記されていました。そこで、まずは『ポラリスが降り注ぐ夜』とつながりを持ち、なおかつ単体でも読める小説にしようと考えました。

そしてもうひとつ書きたかったのが、コロナ禍のリアルな世界です。先日発表した「生を祝う」は近未来を舞台にしたSF小説ですし、『彼岸花が咲く島』もファンタジーのような作品なので、コロナ禍のリアルな状況を書いていません。1作くらいコロナ禍を描いた作品があってもいいのではないかと思い、そういう時代設定にしました。

また、台湾では2019年から同性婚ができるようになったんですね。ですから、同性婚をしたカップルの話を書きたいという思いも自分の中にありました。『ポラリスが降り注ぐ夜』とのつながり、コロナ禍の社会、台湾の同性婚カップルという3つがつながり、この小説が生まれました。

──李さんご自身は、コロナ禍で心境や生活の変化はありましたか?

李:2020年2月に『ポラリスが降り注ぐ夜』を刊行したのですが、その直後に緊急事態宣言が発布されたため、記念イベントもサイン会もできませんでした。日本最大級の書店ですら臨時休業し、コロナの影響をまともに食らいましたね。編集者との打ち合わせも対面ではできず、文学賞の受賞パーティもすべてキャンセル。業界内の人間関係を広げる機会がほぼなくなったのは、この数年でデビューした作家にとっては大きいことだと思います。

──心境の変化、執筆する作品への影響はありましたか?

李:自分の根底にある価値観は変わりませんでした。ただ、他者との対面コミュニケーションの大切さを噛みしめるようになりましたね。創作上では、コロナ禍という事態を無視することが難しくなりました。それは私に限ったことではなく、みなさん同じだと思いますが。

──「これまではコロナ禍のことを書いてこなかった」とお話しされてましたが、今書いておかなければという強い思いがあったのでしょうか。

李:私の場合、なにかが社会で起きてもすぐにそれを書こうとは思わないんです。去年コロナ禍が始まった時、文芸誌ではすぐにコロナ禍の社会を描く作品が複数発表されました。でも、私は動きが遅いほうなので、今年に入ってからようやく「1作くらいは書きたいな」と思って。そもそも台湾で同性婚ができるようになったのは2019年からなので、それ以降の話を書こうとすると必然的にコロナ禍の社会に触れざるを得なかったという事情もあります。

──2019年の法制化後、台湾では同性婚はどのように受け止められているのでしょうか。

李:同性婚法制化に至る大きなターニングポイントは、2014年のひまわり学生運動でした。その後、2016年にリベラル寄りの民進党が与党になったことで一気に時代が進み、2019年に法制化が実現しました。とはいえ、反対派は一定数います。まず顕著なのが、キリスト教教会の人たちです。台湾は韓国のようにキリスト教徒が多くはありません。総人口の4%くらいと言われていますが、にもかかわらずなぜか力を持っており、同性婚法制化に対するネガティブキャンペーンも展開されました。もうひとつは、中高年層です。そして政党では、長い間台湾で独裁体制を敷いてきた国民党に反対派が多く見られました。同性婚が法制化されたとはいえ、みんながみんな歓迎しているわけでありません。偏見や差別は当然のようにあります。

──そんな中、マヤとジェシカは台湾で同性婚する道を選びます。ふたりは家族になりますが、ジェシカがマヤを親族との集いに誘ったことから、マヤは「家族」について考えを巡らせます。作中では「家族と親族は違う」という言葉が出てきましたが、李さんは家族と親族の違いをどう捉えていますか?

李:親族は、選べないんですよね。血のつながりがあれば親族と言えますが、だからこそ選べない。一方、家族はより近しい印象があります。血のつながりがなくても、自分の意思があれば家族になれる。生活をともにする人、すぐ近くにいる人というイメージがあります。やはり家族と親族は違うと思います。

──マヤとジェシカの家族観の違いは、ふたりの生い立ちとも関係しています。ジェシカは「親族=家族」と思える育ち方をしてきましたが、両親との間に問題を抱えるマヤはそうではなかった。そういうふたりが家族になります。

李:結婚には、さまざまな人間関係やしがらみが付随してきますよね。それは異性婚だけでなく、同性婚でも同じです。AさんとBさんが愛し合って結婚する道を選んだ。それはふたりの間のことなのに、なぜか結婚という制度を使うと選択した瞬間、自分が選んだわけではない人が湧いてきます。そういうことに対する違和感も、作中には込めました。

──作中では、「実家」という言葉に対する違和感も語られています。自分の生まれた家が実家だと誰が決めたのか、自分で手に入れた家のほうがよっぽど実家の名にふさわしいと、マヤが述懐する場面もあります。

李:「実家」という言葉は、日本語の表現ですよね。中国語では実家とは言いません。東京はいろいろな地方の出身者が集まっているので、初対面の人とはよく「実家はどこ?」という話題になります。そういう時、私は何と答えればいいかモヤモヤします。なぜなら、47都道府県のどこでもありませんから。とはいえ、そこでいきなり外国人カミングアウトをして「台湾です」と答えたくない気持ちもあります。「実家って何だろう」とは、私自身よく考える疑問でもあるのです。

──過去のインタビューで、李さんは「カテゴライズされることへの抵抗」を意識しているとお話しされていました。この作品においても、同性婚をしたマヤがジェシカの義理の親、ひいては世の中の義理に絡めとられていくことへの抵抗が語られます。「端から常識を外れた人生を送ることを余儀なくされてきたのだから、今更世の中の常識なんてなぞれるとは思わないし、そんなこともしたくないのだ」という言葉がとても印象的でした。

李:同性婚をするというのは、社会制度に組み込まれることにつながります。マヤはそこに違和感を覚え、抵抗したいと思いがあります。彼女は実家から逃れて東京に移り住み、バー「ポラリス」の店主・夏子に助けられつつも、一個人として自立して生きてきました。彼女には、自分が選んだ新しい家族の中に組み込まれていくことへの抵抗感がある。同性婚をすることで必然的に付きまとうカテゴリーに対し、違和感や抵抗感があるんです。

──題材が変わっても、やはり李さんの中には通底する思いがあるのですね。

李:そうですね。まったく違うものを書こうと思えば書けるかもしれないけれど、通底する部分はある。それが作家性だと思います。


東京と台湾で異なる、人と人との距離感

──作中では、マヤが瀬戸内海の島で育ち、東京に出て、その後ジェシカとともに台湾で暮らす様子が描かれていきます。田舎のしがらみを逃れて東京に出たマヤが、また人間関係が密な台湾に移り住む。この構造は、最初から意識されていたのでしょうか。

李:これまでは日本を舞台とする小説が多かったので、今回はどちらかというと台湾をメインの舞台にしたいと思いました。そもそも台湾でなければ同性婚ができません。自然と台湾が舞台になりましたし、人間関係の違いも描かなければいけないと思いました。

──東京は「一人で生きていくのは簡単かもしれないけど、生き延びていくとなると難しい」、台湾は「人情味は、善意は、ベクトルを間違えればいとも簡単に独善的な介入、過剰な干渉、ひいては異物に対する排除といった暴力と化す」と、その土地土地で生きていくことについても語られています。李さんご自身は、それぞれの土地に対してどのような印象をお持ちですか?

李:台湾の人間関係の近さは、私にとっては居心地が悪いところがありますね。特に台北と東京を比較すると、台北のほうが土足で相手の領域に踏み込んでくる人が多いと感じます。とはいえ、相手に悪意はなく、おせっかいおばさんのような感じなのですが(笑)。最近、台湾に住む作家の友達が、引っ越しをしたんですね。業者に荷物を運んでもらったそうですが、作家ですから本もたくさんあります。すると、引っ越し業者のお兄さんが、本の山を見て「ちぇ、知識人が」とひと言漏らしたそうなんです。特に悪意はなく、「これだから知識人は」と冗談っぽく言っただけですが、このエピソードからも台湾の人間関係の近さがわかりますよね。日本ではありえないことです。

それに対して東京は、いろいろな人間がいますし、探せば居場所が見つかります。ひとり暮らしの人も多く、生活に必要な品物やサービスを簡単に調達できるため、地元のコミュニティや伝統的なつながりに依存しなくてもいいのがとても心地よいですね。ひとりでも生きやすいという点が、東京と地方との大きな違いだと思います。

──『ポラリスが降り注ぐ夜』にも登場したバー「ポラリス」は、新宿二丁目にあるという設定です。東京の中でも、新宿はいろいろなものを飲み込んでくれる街というイメージがあるのですが、いかがでしょう。

李:私は初めて日本に来た時、新宿区に住んでいました。確かに新宿は、どんなものでも受け入れる懐の深さがあります。新宿の歴史を調べたところ、この街が発展したのはせいぜいこの100年くらいのことだそうです。その間の歌舞伎町や新宿二丁目の歴史を見ると、実にいろいろな人々を受け入れてきているのがわかります。さらにさかのぼれば宿場町だったので、売買春も行われていたようです。

──『ポラリスが降り注ぐ夜』に登場した「ポラリス」店主の夏子は、居場所のないマヤを受け入れます。こうしたクロスオーバーも面白いですね。

李:今回は『ポラリスが降り注ぐ夜』とつながりのある小説を書こうというところから出発しているので、「ポラリス」が登場するのは既定事項でした。まぁ、一種の遊び心ですよね。この作品以外にも、『ポラリスが降り注ぐ夜』に出てくる「リリス」という店は、デビュー作の『独り舞』や、まだ単行本化されていない「流光」という小説にも登場しています。そこに出てくるSMバー「リヴァイアサン」は、『ポラリスが降り注ぐ夜』のあとがきにも出てきます。

──『ポラリスが降り注ぐ夜』と併せて読むと、休業しつつもコロナ禍を耐えている「ポラリス」、閉店してしまった「ライフカフェ」など、街の移り変わりを感じることもできました。

李:コロナ禍の中で、新宿二丁目も様変わりしました。そういう様子も書きたいという思いがありました。実は「ライフカフェ」のモデルとなった店も、今年1月に閉店したんです。そういった小説と現実のリンクも入れています。

画像3

(台湾北部の港町・基隆ジーロン


得体の知れない循環に組み込まれる、それが生きるということ


──『観音様の環』というタイトルどおり、マヤは観音様に導かれるように母の故郷である台湾の基隆ジーロンに渡ります。このタイトルに込めた意味をお聞かせください。

李:循環、輪というイメージは最初からあったわけではなく、書いているうちに自然と浮かんできたものです。マヤが生まれ育った島には巨大な観音像がありました。台湾にも、仏教と関わりのある土地がいくつもあります。そういう土地を対比させて書くと面白いのではないかと思い、資料をいろいろと調べたところ、観音像のある港町・基隆にたどりついたのです。しかも、観音像が立つ中正公園の歴史を調べていくと、かつては日本の神社だったことがわかり、「ああ、そうなんだ」と。書いていくうちに、私自身「つまりはそういう話だったんだな」と気づきました。

──循環や輪と言うと、閉じたイメージがあります。でも、不思議と窮屈な印象はなく、広がりや命のつながりを感じました。

李:得体の知れない循環に組み込まれるのは、どこか不気味さもありますが、生きているというのはそういうことなんじゃないかと思う側面もあります。結局、私たちはみな歴史の中に組み込まれて、歴史を作っていく存在です。それもある種の輪ですよね。書き上がって、そう思いました。

──マヤの未来に希望が感じられ、明るさのある読後感でした。暗く閉ざされた終わり方にもできたかと思いますが、希望のある結末にしたのはなぜでしょう。

李:少なくとも現時点でのマヤは、そこまで重い問題を内包していません。経済的な苦境はあるけれど、愛する人とともに過ごしている。かつて自分に暴力を振るっていた人ももういない。したたかに生き抜き、サバイブしているんです。そういった背景もあり、この作品では爽やかさを目指しました。

──「サバイブする」というのも、この小説から感じたメッセージでした。

李:振り返ってみると、私が書くのは生き延びようとする話が多いんです。デビュー作の『独り舞』から始まり、『ポラリスが降り注ぐ夜』の夏子さん、『星月夜』に出てくるウイグル人もそう。いろいろな苦しみ、いろいろな痛みを抱えながら、生き延びようとする人たちの話を書いてきましたし、これからも書いていきたいと思います。

──個人のことを書きながら、社会や政治とのつながりを感じるのも李さんの作品の特徴ではないかと思います。

李:意識しているというよりは、自然に入ってくるものだと思うんです。今回の小説もそうです。コロナ禍では、社会や政治が個人の生活に影響を与えていますよね。政治ひとつ、政策ひとつで生活は大きく変わる。誠実に書こうと思えば、特に強調しなくても自然に入ってくるものだと思います。逆に言えば、あえて社会と政治の影響を見えないようにするというのは、一種の不誠実です。

──李さんはマイノリティを描くことが多いですが、主人公のバックグラウンドは徐々に広がっていますね。

李:『独り舞』『五つ数えれば三日月が』『星月夜』など、初期の小説は台湾出身の主人公が多いですね。それは悪いことではありませんが、少し飽きてきたところがあって。『ポラリスが降り注ぐ夜』では、いろいろなバックグラウンドを持つ人が登場していますし、文芸誌に発表した「生を祝う」はSFです。『観音様の環』のマヤは、日本生まれで二重国籍というこれまでとは違うバックグラウンドでした。少しずつ登場人物の多様性を増やしていきたいと思っています。

──2021年に芥川賞を受賞しましたが、李さんの生活に変化はありますか?

李:そこまで劇的に変わってはいません。読者が増えたり、仕事の依頼が増えたりというありがたい側面はありますが、やっていることは同じです。書いたり、訳したり、本を読んだり。そういうことを淡々と続けていくだけですね。


電子書籍はこちら

観音様の環


試し読みはこちら


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?