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『#ある朝殺人犯になっていた』書評|次に巻き込まれるのはあなたかもしれない(評者:杉江松恋)

刊行前から本書を読んで、推薦文を寄稿してくださった杉江松恋さんに、『#ある朝殺人犯になっていた』のブックレビューを書いていただきました。国内外のミステリー、スリラーをよく読まれる杉江さん。お笑い芸人の主人公がSNS上で標的にされ、追い詰められるという設定の、この社会派サスペンスをどのように読まれるでしょうか。


最も身近に存在する恐怖を描いた物語である。

藤井清美『#ある朝殺人犯になっていた』の主人公・浮気淳弥うきじゅんやは、ある朝自分が卑劣な殺人犯呼ばわりされていることに気づいた。十年前、当時幼稚園児だった丸山美鈴という少女が車に跳ねられて死ぬという事件が起きた。轢き逃げ犯は捕まっておらず、間もなく時効が成立する。Twitter上ではなぜか、淳弥がその犯人だと指弾されていたのだ。

残酷な殺人者への怒りが、一気に淳弥の許へと押し寄せてくる。反論の言葉はすべて逆効果であり、純弥の住所をつきとめ、家族の顔を晒してやろうとする者も現れる。正義の名を借りた私刑である。逃げ場のない状況に追い込まれた淳弥は生命の危機を感じ始める。

主人公が漫才師なので商売柄人前に顔を晒さなければならないという設定が効果的に使われている。根拠のないネットの書き込みによって芸人が殺人犯扱いされるという風評被害事件が以前にあったが、そこから着想を得ているのだろうか。一切の抗弁が通用しないという魔女狩り裁判の恐怖、しかも顔の見えない不特定多数が異端審問官のように迫ってくるという事態の理不尽さが克明に描かれる。憔悴と恐怖が怒りを産み、やがて敵意へと変わっていく。その過程を読者に味わわせることが作者の狙いだろう。

中盤以降の展開はミステリーを意識したものになっている。Twitter上で自分を追い詰めようとしている者の正体について、淳弥が一つの仮説を立てるあたりが小説の折り返し点だ。座して社会的な死が到来をするのを待つのではなく、反撃に出ようとするのである。そうそう、小説の主人公はそうでなくちゃ。淳弥は一つの秘密を抱えている。少年時代にしたある行為を誰にも知られたくないと思っているのである。そのことが弱点になって彼を縛る、というのもセオリー通り。自分の来し方を振り返って、まったく汚点がないと胸を張れる人は少ないだろう。誰もが忘れてしまいたい過去を持っている。そうした記憶と主人公が向き合うまでを描いた小説なのである。

注文をつけたい点もいくつかある。後半になって主人公が破滅を迎えるタイムリミットについて言及されるようになるが、これはもっと早く読者に呈示したほうがいい。終盤を盛り上げるための準備が不足しているのだ。そうした不満はあるものの、速度のある物語運びなどは評価したい作品である。書き続けてもらいたい作者だと思う。


杉江松恋(すぎえ・まつこい)
1968年、東京都生まれ。慶應義塾大学卒。書評家。主な著書に『路地裏の迷宮踏査』『読みだしたら止まらない! 海外ミステリー・マストリード100』『ある日うっかりPTA』『絶滅危惧職 講談師を生きる』(神田伯山との共著)、『桃月庵白酒と落語十三夜』(桃月庵白酒との共著)などがある。大衆芸能に関する本を近く刊行予定。


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