『単語帳』書評|生きた言葉と生きる分身たち(評者:鴻巣友季子)
グレゴリー・ケズナジャットの作品で初めて読んだのは、京都文学賞を受賞した「鴨川ランナー」だった。もともと同賞の「海外部門」(日本語の非ネイティヴを対象とする)に応募して最優秀賞に決まったが、結果的には、「一般部門」(応募者のほとんどは日本語ネイティヴ)の最優秀賞もダブル受賞することになったという。
この授賞は日本においては画期的なことだった。だれしも自分の言語は無二のものと思っているが、わけても日本語ネイティヴは日本語をとくべつに複雑玄妙な、学習困難なものと捉えている節がある。非ネイティヴには完全にマスターできないとすら思っているかもしれない。そこには、日本語を外部に開放しようとしない内向き志向がある。だから、ケズナジャットへの部門を越えた京都文学賞授賞には驚かされたのだ。
「鴨川ランナー」には、日本社会のなかで「日本語が少々拙いアメリカ人」という”理想像”を求められる英語教師の戸惑いがみごとな二人称文体で描かれていたが、新作の短編「単語帳」も題材は第二言語としての日本語である。
京都の大学院を出て東京の大学で英語を教えはじめた作者の分身的な「僕」はある日、神楽坂のバーで自分と同じ米国南部出身のマルコムと隣りあわせる。英語で話しだしたふたりは、じきにマルコムの要望で会話を日本語に切り替える。旅行者だというマルコムの日本語は驚くほど流暢で、「僕」はどうしてそんなに日本語が上手いのかと、ふだん自分が聞かれてうんざりしていることを思わず尋ねる。
マルコムは翻訳者として名古屋に十年も暮らしており、いまは「傷心旅行」中なのだと。それは失恋の痛手によるものではなく、それまでの自分の日本語とある意味、訣別するための旅なのだった。マルコムの問わず語りが始まる。
彼はゲーム翻訳の仕事で、「モフモフ」「モッフー」としか喋らないキャラクターのセリフがどうしても訳せなかった。そのことで落ちこんでいるうちに、自分の日本語の大半は恋人から学んだもの、すなわち「借りたもの」だと感じだしたという。さらに掘りさげていくと、思春期のころには、自分の言葉は親からの「借り物」だと感じたこともあった。
彼は自分が日本語という「お下がりの古着」を身に着けて生きているようだと喩える。だから、これまでの言語世界を新たな言語世界で「上書き」しようと旅しているのだ。
マルコムは自分が習得してきた言葉が”生きていない”と感じているのだろう。私は翻訳者として彼の感覚が少しわかる気がする。最近はAI翻訳も精度が高く、じつに自然な日本語文を生成するが、AIは何億通りもの既訳のなかから適合確率の高いものを引っ張ってきているだけで、生きた文脈のなかで動いている言葉を「生け捕り」にすることはできない。言葉は一度訳されたときに、ある意味、標本となって死ぬのだ。AIはその標本をあてがって訳文を作っている。マルコムも自分の言葉はどれもこれも、どこからか引っ張ってきた「受け売り」のように感じていた。
ひとは幼少時から身に着けてきた言葉を生きなおすのだとわたしは思う。それが年を重ねるということなのではないか。語り手のマルコムも、聞き手であり観察者である「僕」も、作者の分身なのかもしれない。
ふたりのバーでの観念的な会話から、池澤夏樹の初期作『スティル・ライフ』なども想起した。ケズナジャットの新たな秀作だ。
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