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【1章まるっと全文公開】のんびりした世界観に癒される、藤野千夜さんの書き下ろし長編『団地のふたり』

藤野千夜さんの最新作『団地のふたり』は、そのタイトルのとおり、団地を舞台にした、女性ふたりの友情を描いた小説です。
ゲラ(印刷前の校正刷り)を読まれた書店員さんも「これは、大人女子大好きですね!」と太鼓判を押してくださいました。
団地生まれ、団地育ち、いちじ離れて、また団地に戻ってきた、五十歳の幼なじみ同士の、のほほんと平凡で平穏な毎日のお話。
全5章のうち1章を、特別に公開します。
たとえばホットティー片手に、くすりとお楽しみください。


■本文

第一話 山分けにする

   1

 月に一度、ダンボール箱いっぱいに旬の野菜が届く。
 たとえば今月は、茨城県小美玉市産のキャベツと紅はるか。同じく茨城県産、結城郡のレタスと鉾田市の水菜。北海道からは富良野の人参、美幌町の玉ねぎ、勇払郡のブロッコリー、帯広市のメークイーン、など。
 ほかにも熊本県山鹿市の大長なす。埼玉県久喜市のマスタードグリーン。長野県は中野市の特大なめこ、千曲市の高原やまぶし茸。同じく長野県から安曇野市のりんご=シルキークイーンや、愛媛県宇和島市からの極早生みかんといった、みずみずしい果物もいっしょに入っている。
 おいしく食べられる期間も考えれば、いくら自炊派とはいえ、現在ひとり暮らしの桜井奈津子にはかなり持て余しそうな分量だったけれど、それでも彼女がこだわりの野菜通販サイトで、お得な定期コースに加入しているのは、いつもふらっと訪れる友だち、幼なじみのノエチこと太田野枝が、毎月、うれしそうに野菜を持ち帰ってくれるからだ。
 べつに約束なんかしていなくても、週に三度も四度も、ノエチは姿を見せる。多ければ五度も六度も。なんなら毎日だって。だから、いつ荷物が届いても、まず新鮮なうちに野菜を手渡すことができた。
「マスタードグリーンって?」
「からし菜、西洋種の」
「へえ、どうやって食べるの」
「お肉を巻いて食べるとおいしいって」
「サンチュ的な?」
「だね。ピリッと辛いみたいだけどね。あと、炒めてもいいみたい」
 野菜の詰まったダンボール箱には、ひとつひとつの保存方法や、だいたいの消費期限、特長、おすすめの調理法なんかを一覧表にした便利な紙も入っている。毎月ひとつかふたつ、この近所ではあまり見かけない、もし見かけても自分からはすすんで手に取らないような、めずらしい野菜が届くのもひそかな楽しみだった。
「帰りに半分持ってってね」
 玄関先で、まずダンボールを開けて見せた奈津子が言うと、
「うん、いっつも悪いね。やっぱり、半分お金はらうよ」
 髪をひっつめ、太いフレームのめがねをかけたノエチが、毎月の決まりみたいに、堅苦しいことを口にした。
「いいって、いいって。どうせひとりだと余っちゃうんだし」
「そう?」
 堅苦しいわりに、あっさり引き下がるのも、いつも通りだった。「じゃあ、こんどアニキの宝箱から、なんかガラクタ持ってくるから、それ、適当に売っちゃってよ」
「それは大歓迎」
 いつもダボッとしたパーカーにゆるパン。ほぼ家にいる奈津子にとって、ネットオークションやスマホのフリマアプリで、物を売り買いするのはお手のものだった。
 自宅の不要品は基本売りに出すようにしていたし、ねえ、なっちゃん、これ売れないかしら、とご近所さんから物を預かることも多かったから、奈津子のアカウントやショップに、出品が途絶えることもない。仕事帰りのノエチがふらっと部屋を訪ねて来て、奈津子が留守にしているのは、大抵「お品物」の発送に出ているときだった。それも徒歩数分のところにある、郵便局かコンビニで済む。
「おばちゃんは、いつまで静岡なの? 大丈夫?」
 家の事情もよく知るノエチが聞く。母の針仕事の定位置、玄関脇の和室にちらりと視線をやって廊下をすすむ。
「なんか、のんきにやってるよ。久々の地元で楽しそうだし。娘がえりしてるのかもしれない」
 奈津子が3DKの団地でひとり暮らしをしているのは、同居している母親が、親族の介護でしばらく郷里に帰っているからだった。
 しばらくと言いながら、もう一年近くになる。
 もちろん、要介護の老人の世話がのんきで済むはずがなかったし、娘がえりというのは奈津子の適当な造語だったけれど、母自身、今年の春には七十歳をむかえたはずなのに、そんな年齢とは思えないくらい、電話での声が最近ほがらかで、若々しいのは間違いない。
 子ども時分に世話になった叔母さんと、数十年ぶりの暮らしをして、やっぱり娘気分にもどっているのか。
 おだやかに物を忘れていっている、というその叔母さんと、日々、消えて行く昔話に花を咲かせているのか。
 あるいは独身時代を過ごしたなつかしの地では、今までと違う時間が流れているのかもしれない。
 奈津子はときに、ぼんやりそう思うのだった。

   2 

 届いたばかりの野菜は、なるべく素材そのままを味わいたい。
「野菜焼き、食べる?」
 ノエチに訊くと、
「食べる」
 とうれしそうに答えたので、人参、玉ねぎ、メークイーン、紅はるか、大長なすを薄切りにして、塩こしょうと香草のシンプルな味つけで、野菜焼きにする。
 あとは、豆腐と特大なめこのお味噌汁をつくり、土鍋でご飯を炊いた。
 よそったばかりのご飯とお味噌汁から、白く湯気が立ち上っている。ノエチとふたり、お茶の間のちゃぶ台に向かい、いただきます、を明るく言う。きつく焦げ色のついた野菜も、中はほくほくで、ジューシー。甘く、自然な味がする。
 新型コロナ以降のルールをきちんと守りながら、おたがい今日最新の嫌なことを話して憤ったり、嘆いたり、茶化して笑ったりしながら気持ちをほぐす。

 昭和三十年代の半ばに建った団地は、築六十年になる。
 古いデザインなので棟と棟のあいだはゆったりと広く、花壇や住人用の菜園のスペースも多くとられている。小さいながらも集会所があり、公園が二つもあり、駐車場だって広い。団地脇の商店街を通り抜ければ、すぐに私鉄の駅もあった。
 ただ、住まいのある十何棟はどれも、エレベーターのない四階建てで、昇降には不便だった。幸い奈津子の家は一階だったけれど、三階以上の、とくに高齢の住人にはツラそうに見える。
 十数年前に建て替えの計画が持ち上がってからは、大規模な修繕工事は行われず、汚損した箇所をその都度補修するばかりだったから、実際のところ、さすがに年代物、朽ちた建物の印象は拭えないかもしれない。
 室内も当然、基本は昭和の団地仕様だった。板の間と畳の部屋が三つ。素っ気ない流しと洗面台。ガスコンロとシンプルな換気扇。一度交換したはずだけれど、昭和感のただよう白い湯沸かし器。
 物心ついてから、いっしょに年を取ったから、そんなに古いとも今さら思わなかったけれど、もし自分が今若ければ、ここに住むのは嫌かもしれない。
 一度、奈津子がしみじみそんなことを口にすると、
「前に住んでたお隣さん、おんぼろ団地に住んでるって子どもが学校でからかわれるから、って引っ越したよ。それが、もうだいぶ前だけど」
 ノエチが教えてくれた。そのお隣さんは、奈津子たちよりも下の世代だった。
 建て替えの計画は、なんだか予算のことと、立ち退く住民への補償のこともあって、開始がだいぶ遅れていたけれど、敷地内にあった保育園もすでに移転してしまったし、賃貸で新たに住人を入れることもやめて久しかったから、もうずいぶん前から空き室が多くなった。
 そもそもファミリー向けの団地だったのに、昭和の子どもが成人して出て行き、平成の子どもたちも出て行き、今は連れ合いに先立たれた高齢の単身世帯も少なくない。
 奈津子の家は、たまたま娘が出戻って同居しているけれど、親は完全にその第一世代だった。
 ノエチの家は、両親とも健在だけれど、年齢的には、ふたりとも奈津子の母親よりも上だった。ノエチによれば日々いろいろ口うるさくて、そのくせ隙あらば甘えようとする年頃に入ったそうで、それも彼女がしょっちゅう奈津子の家に入りびたる理由のひとつになっている。

 ドリップ式のコーヒーをいれ、買い置きのひとくちバウムをデザートに出すと、ノエチとふたり、録画してあったBSの「断捨離」番組を見た。
 断捨離のエキスパートの女性が、うまく片づけられない、モノだらけの家を訪ねて、あらあら、と驚き、うんうん、と話を聞き、でもさあ、と問題点を指摘し、そっか、わかった、とほんの少しだけ住人の気持ちをくみつつ、だったらこうしよう、と提案し、すっきりした未来の部屋を想像させ、諭し、励まし、よし、やってみようか、と住人自身にモノを減らさせる娯楽番組だった。
「いやいやいや、これくらいはたいしたことないよね」とか、「捨てない! そのお皿は捨てないって」とか、「この娘、感じ悪くない?」とか、「でも両親が亡くなって家の中を片づけるの、結局この娘だもんねえ」とか、「おじいさんって、なんでいきなり怒るんだろう」とか、我が身のだらしなさをちょっと脇に置いて、人の家の様子にあれこれ口をはさむのに、古くからの友人はうってつけの相手だった。
 今さら気取ったり、いい人ぶったり、好きなものを好きでないふりをしたりと、なにかを取り繕う必要もない。
 なにしろノエチとは、保育園のときからの友だちだった。今は移転してしまった、あの団地内の保育園に通っていた。
 小学校も中学校も地元の公立で、ずっと一番の友だちだったから、おたがいの小さな恥も誇りも、本気だった初恋のゆくえも、ほとんどその場で目にしている。
 その後はべつの高校へ進み、進学や就職、事実婚のパートナーとの同居や、つづかなかった結婚など、それぞれの道を歩んだけれど、まず友情が途切れたことはなかったし、さほど遠くに住んだこともなかった。
 そして今はまた同じ団地の実家にどちらも住んでいて、こうして始終顔を合わせている。
 おたがいもう五十になったから、つまりそれだけの付き合いになる。
「あ~、今回は先生じゃなくて、行くのは弟子のほうか。これは今いちだな」
 録画した断捨離番組では、いつものエキスパートの先生は家の様子をリモートで見ているだけで、直接現地を訪れてアドバイスするのは、門下生だという別の女性だった。
「受け売りっぽいもんね、先生の」
「でも、門下生もこうやって教える側に立てるのって、教室のいい売りになるよね」
「家元制だね。断捨離道」
 もはやノエチが自分か、自分がノエチかという間で、そんなことへの文句をぽんぽん言って笑える友は、やはり気楽でいい。
 門下生のアドバイスは、思った通り、どこか先生の借り物めいていて頼りなく、そのくせ自信を持って言い切るスタイルなのが、口の悪いふたりの視聴者には不評だった。
 もちろん、それをぶーぶー言って楽しむのだったが。
「あ。コーヒーもっと飲む?」
「飲む」
 カラのマグカップをノエチがすっと差し出し、それを手に取って奈津子は立ち上がった。
 奈津子はむかしから、コーヒーを飲むと心臓がばくばくするので、決して外では注文しないのだけれど、自宅で、ノエチといっしょならと、たまにドリップ式のをいれて楽しんでいる。
 粉はこの前、ノエチと行った烏山の商店街で、専門店の若い店員さんにあれこれ質問しながら、それぞれに好みの豆を選んで五〇グラムずつ挽いてもらった。代金は折半。そしてどちらもノエチが遊びに来たとき用にと奈津子が持ち帰った。
 さっきの一杯目はノエチの選んだ粉を使ったけれど、今度の二杯目は奈津子がセレクトしたのをいれて出す。
 学生時代、喫茶店で長くバイトをしていたから、自分はほぼ飲まないくせにコーヒーのいれ方には自信がある。テレビももう終わったので、二杯目は、テラス風にしつらえたベランダに出て飲むことにした。椅子とテーブルを置き、ランタンを下げてある。すぐ先にある団地の庭が借景になって、とても贅沢な空間に見える。
「一杯目と、どっちがおいしい?」
 ノエチが三口ほど飲んだタイミングで聞くと、
「こっち」
 ノエチが答えたので、意味はないけれど奈津子はちょっと勝った気分になった。


   3

 団地の保育園は、六、七年ほど前に隣町に移転した。
 以前は敷地のなかほどに、一階がすべて保育園になった棟があったのだ。よその棟では前庭や植え込みとして利用しているようなスペースを、その棟では低い柵で大きく囲って、すべて園庭にしていた。
 そこにすべり台や鉄棒といった遊具が設置され、夏に子どもたちがばしゃばしゃと水遊びのできる浅いプールもあった。
 奈津子はそこでノエチと仲よくなった。
 保育園でできた、最初の友だちだった。ノエチはそのころから利発な子で、気がきき、人にやさしかった。本が好きで、『いやいやえん』を毎日お母さんに読んでもらっていると言った。
 そしてもうひとり、空ちゃん、という女の子とも仲よくなった。ノエチと三人で、いつも遊んでいた。
 性格のおだやかなおっとりとした子で、
「空ちゃん、早く早く」
 と急かさないと、どんどん奈津子たちから離れてしまう。気がつくとしゃがんで花を摘み、立ち止まって木の枝を見上げていた。
「空ちゃーん」
 離れたところから、なんべん声をかけたことだろう。そのぶん、花の名前には、三人で一番詳しかった。
 奈津子の家は九号棟の一階。
 ノエチの家は十号棟の三階。
 空ちゃんの家は、三号棟の四階だった。

 移転したあとの保育園だった場所は、今、閉鎖されている。
 たとえ短期間でも、新たになにかに利用する気はないのだろう。
 知らずに見れば、やはり取り壊される団地の、象徴的な一角と感じるのかもしれない。
 さびついた遊具や、水のはられていないプールはそのまま。最低限の手入れだけはしているのかいないのか、木々の枝も雑草もずいぶん伸び、園庭側からは、建物に入れないよう板が打ちつけてあった。
 オカルト好きな年頃なら、夕暮れ時には素敵な心霊スポットに見えるかもしれない。
 でも、奈津子はその棟の脇を通るとき、なつかしく、甘酸っぱく思うのだった。
 一階のサッシ窓だった場所をおおう板を見て、あの向こうがみんなのお部屋だったのに、とよく目を細めた。
 ノエチと毎日遊んだし、なによりその保育園は、幼い頃に亡くなった友だち、空ちゃんと知り合った場所だった。
「空ちゃんが今もここにいて、遊ぼう、って言ってる気がするね」
 ノエチと話したのは中学生のときだっただろうか。その頃はまだ保育園にも活気があり、園庭で子どもたちがたくさん遊んでいた。
 空ちゃんが亡くなったのは小学校に上がってからだったけれど、そこから少し時間が経って、記憶の中の空ちゃんの年齢も、自在に動くようになっていたのだろう。
 本当は同い年なのに、自分たちよりも子どもの空ちゃんが、にこにこといっしょにくっついてくる。
 やっぱり遅れ気味で、花の名前にくわしくて。
 
 山分けの野菜を、厚手のエコバッグにたっぷり入れて、ノエチに渡した。
「重っ」
 おどけた顔でノエチが言い、
「ありがとう、いっぱい。野菜焼きもおいしかった、ごちそうさま」
 急にきっちりと挨拶をした。「こんど、本当にアニキのお宝持ってくるね」
 さっきはガラクタと言ったけれど、いくらか格が上がったのだろうか。
「売れたら全部なっちゃんの取り分でいいから」
「え。いいの」
 奈津子はすなおに喜んだ。ふだんは、人から預かった品物は、売り上げから送料を引いて、その半分をもらっている。かわりに値つけや画像のアップ、商品説明、購入者・落札者とのやり取り、梱包、発送まで奈津子が請け負っていた。
「あとでしめられない? あつ兄に」
「いいよ、どうせもう、中身がなにかなんて、一個も覚えてないって」
 ノエチのお兄さんは、とっくに結婚して家を出ていたけれど、独身時代の持ち物が、いまだにダンボール箱いくつかに残された状態とのことだった。
 以前、ノエチのお母さんが引き取りを打診すると、露骨に不機嫌になったそうで、思春期には、団地内でもやんちゃで有名だった長男。勝手に捨てて親子げんかになるのも面倒くさくて、押し入れに放置したまま二十五年とかになった。
 その箱をアニキの宝箱だとか、タイムカプセルだとか呼んでいるノエチは、わりと最近になって、その置き土産について、本人と話したらしい。
「アニキだって、もう捨てたモノのつもりみたいだったから、平気平気。なんか売れるのあるかもよって教えても、へえ、じゃあ勝手にどうぞ、って感じで、興味うすそうだった」
「いいんだ、もう。むかしは怒ったのに」
「なんか、しみじみと、おまえら呑気でいいなあって笑われたよ」
「おまえら、って、まさか私も?」
「メインはなっちゃんだと思うよ、私はどっちかって言うと、神経質な妹だから」 
 発送する品物が用意できたので、奈津子もいっしょに部屋を出た。
「なにが売れたの」
 ノエチに訊かれ、品物を教える。
「へえ、そんなのが売れるんだ」
「売れるねえ、わりとへんなものでも。ねばると」
「ふーん、今それをほしい人がいるんだ。令和なのに」
「いたね」
 昇降口の脇にかたまった銀色の郵便受けには、何カ所もみどりの養生テープが貼られ、空き室へのチラシやDMの投函を防いでいる。
 見上げる建物も、明かりの消えた部屋が四割ほどだった。
「あつ兄、社長だもんね、すごいよね」
 空に浮かぶ星を見るように奈津子は言う。
「うん、社長の娘と結婚して、ちゃんと修業したみたいだよ、経営者の」
 妹のノエチも、そこは認めているようだった。
「お父さんに怒られて、夜、ずっと公園のブランコに座ってたのにね」
 奈津子はむかしの、やんちゃな少年の姿を思い出した。
「植え込みの横で、バイクの改造したりね」
「してた! あと、なんか、すごいキレイな彼女といるのも見た」
「いたいた。結構モテるんだよね、ああいうのが」
 それは理解できない、といったふうにノエチが首をふる。でもこの団地を出て成功しているのは、「ああいう」お兄さんのほうだった。
 ずっと勉強ができたノエチは、学者を目指して大学院まで進んだけれど、思うように大学で職を得られず、やっとうまく行きかけたときに学長派の教授との不倫を疑われ、学長派なのでお目こぼしがあるかと思ったらあっさり切られ、職場にいられなくなり、今はべつの学校で非常勤講師の掛け持ちをしている。
 絵の好きだった奈津子は、短大を出てイラスト描きの仕事をはじめ、一点五〇〇円の通販カットからキャリアを積み、一時は大手ファッション雑誌のカラーページや単行本のカバーイラストなどもつぎつぎこなして、だいぶ羽振りがよかったものの、景気が冷えて業界が渋くなったのか、絵柄が飽きられて時流に合わなくなったのか、近ごろは年に数点しか依頼がない。
 今、日々の営みのメインは、やはりネットでのお取引と、ご近所さんに頼まれたおつかい、あとは少しばかり持っている優待株の売り買いだった。
 むかしから電車が苦手なので、遠出するのは、ほぼ自転車に乗っていける範囲に限られている。区役所や釣り堀のある大きな公園、大きな町の商店街なんかだ。
 さらに遠く、どうしても、という場所があるときは、ノエチがお父さんの車を運転して連れて行ってくれる。
 そうやって助け合うふたりだった。そのぶんノエチは奈津子の家に入りびたって、日々へこんだ心をぷーぷーと膨らませてもらっている。
 それをしないと、うまく次の日を迎えられないという。もちろん、うまくいってもいかなくても、次の日は勝手に来てしまうのだったが。
「だいじょうぶ。ノエチのいいところも悪いところも、私、知ってるから」
 ひとりごとめかして奈津子が言うと、
「同じ」
 とノエチが応じた。
「誰がどういう悪口言うのかも、もうわかってるけど、いいよね、そういうの」
「いいよ」
 もう四十何年の付き合いになる友だちと、またね、と十号棟の前で別れた。
 亡くなってだいぶになる、小さな空ちゃんが、たぶんふわふわと奈津子といっしょに歩いている。

 スマホのフリマアプリで売った品物は、コンビニのレジで簡単に発送ができる。
 バーコードをぴっと読み取ってもらい、包みに貼って手続き完了だった。
「じゃ、よろしくお願いします」
 愛想よく言って一旦レジを終え、それからあらためて店内を一周する。毎日のように来ているのに、開店早々みたいにいちいち全部の棚を見るのが奈津子のコースだった。
 今日のお品物はそうでもなかったけれど、一体だれがこんなものを、といったものも、これまでにもたくさん売りさばいてきた。
 雑誌の付録だった『ホワッツマイケル』の携帯アンテナのマスコット(着信すると光る)は、意外な人気なのか即売れしたし、ダンナの遺品なんだけど、という昭和エロスの写真集や、どこかでもらった焼き肉のタレのキーホルダー、などなど、さすがに無理と思った品にもやがて買い手がついた。
 日本中に欲しい人がひとりいればいい、というのは、素敵なシステムだと奈津子はたびたび思った。いくら売れそうにないものでも、世間でだれかひとりくらいは、興味を持って探しているかもしれない。ひとりだけいればいい。そのひとりに届けばいい。
 長く売れなかった品物に、ふと買い手がつくと、その思いはなお強くなった。
 そしてスマホにたまった売上金の一部をつかい、今日も奈津子はコンビニでパンをひとつ買った。


○本日の売り上げ
 パラッパラッパーの大判ハンカチーフ五〇〇円。
 藤原竜也写真集『persona』九九〇円。

○本日のお買い物
 こだわりの野菜通販(定期コース)二九八〇円。
 はみでるバーガーメンチカツ(ソース&からしマヨ)一四五円。



※ 続きは電子書籍版でお楽しみください。

U-NEXTオリジナルの電子書籍は、月額会員であれば読み放題でお楽しみいただけます。

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《予約受付中》

紙の書籍は3月31日発売です。
紙ならではの「かわいさ」たっぷりの造本が おススメポイントです!


ご感想はぜひ、ハッシュタグ「#団地のふたり」をつけてご投稿ください。お待ちしております!


■著者紹介

藤野千夜(ふじの・ちや)
1962年福岡県生まれ。千葉大学教育学部卒。95年「午後の時間割」で第14回海燕新人文学賞、98年『おしゃべり怪談』で第20回野間文芸新人賞、2000年『夏の約束』で第122回芥川賞を受賞。その他の著書に『ルート225』『中等部超能力戦争』『D菩薩峠漫研夏合宿』『編集ども集まれ!』などがある。家族をテーマにした直近刊『じい散歩』は各所で話題になった。


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