病んだら「物語」に触れる

結局、人間は物語にする事でしか理解ができないから「神話ができた」なんて話がある。

僕は以前まではノウハウ本、いわゆるノンフィクション側の本を読む事が多かったが最近は完全にフィクションに移行している。

ノンフィクションで何か変わったと思えなかったからだ。

一時的に変わったような気はするけど、結局は変わってない。

何か状況を変えたいならとにかくフィクションだと思う。

変えられない事象を受け入れる力もフィクションなら鍛えられるように思う。

世の中にある自然由来の事実は決して曲がらない。だけど、自分が変えられる事は変えられる。

フィクションは感情が揺らぐ。

感情のゆらぎの無さがいわゆる病んでしまう状態なので、勢いを付けるために常に感情を揺るがしておけばいい。

揺れすぎる癖がある人は、揺れる事に慣れていれば、揺れない状況を作る事もできるし。
揺れすぎない人は、揺れる癖づけにもなる。

よく、東洋思想の修行は無感情になることだと誤解されるがそういう事ではないらしい。
揺れない事に揺れないように
揺れる事にしっかり揺れるようになるのがあの手の世界の修行なのではないかと思う。

高僧ってよく笑ってるイメージあるし。(実際はしらんけど

それにダライ・ラマも「まだまだ怒ってしまう事がある」と正直に話してる。
これを「私はネガティブになることはありません」とか言ってるペテン師スピリチュアルおじが多い事多い事。
マルクス・アウレリウスも日々の反省を日記に綴っていた。
当たり前だけど、そんな完璧超人には慣れない。
ミスをするし、悲しくもなるし起こることもある。うまく周りに喜びを示せない事もある。

最近、そういう日常に事に「慣れる」にはフィクションが最適なんじゃないかと思う。

病んでしまう時って、この日常への適応し辛い事が、根本にあるんじゃないかと思うんだよなぁ。

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