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夏目漱石『こころ』 書評

夏目漱石『こころ』書評


日本文学上、重要である『こころ』について連載分を纏めた。以下。尚、連弾で細かくタイトに刻んで行ったので、大変荒い。こういうのは丁寧にやらないと…国文学者が羨ましい。


文部省はまだ国語の教科書で抜粋文掲載しているのか?止めた方が良い。あれを読ませる事は子供にとって何も良い影響をもたらさない。

“先生"の友人Kの自殺、"先生"の自殺、これが非常に曖昧だ。友人Kの遺書は字面だけ読むと小綺麗な悲恋なんだが、友人の思いを寄せる相手に片想いしただけで自殺を選ぶだろうか?と思い至ればハッと気付く。Kはヒロインと"関係"したのだな。

“K"と名を伏せているだけに、この友人がどういう人間なのか不明瞭なのだが、士官学校の生徒か?書かれていない自殺の理由のもう1つに、仮定としてKが軍の青年ならば、この三角関係の縺れの最中に出征命令が下ったか。日露戦争である。

Kが軍の士官生だったとしたら、この小説の最終段階の、先生の自殺の動機に乃木希典の自決と自分を重ねる理由が見つかる。国を代表する軍人の自決は、先生に青春期の青年将校だった恋敵の自殺を呼び起こした。


先生の死の本意を探る。
先生の自殺の本意は、遺書にある様な乃木希典の自決の報や明治の精神云々は繕い物の言葉だろう。乃木希典の自決の報でKをフラッシュバックしたのは間違いないのだが、明治天皇の後追いで自分及び自分の妻の生涯を閉じたのに更に殉じたとは、小説中の先生の性格及び穿ってみて作家漱石の性格からも考え難い。先生の自殺の原因はもっと個人的で、不幸な夫婦生活の心労からだろう。Kとの三角関係の縺れの延長で暗い夫婦関係だった。

先生の結婚生活で最も重たかったのは、Kと妻に関係があったかどうかを本人、つまり妻に聞けなかった点にあるだろう。普通に考えてもそれは出来ない質問だ。仮面夫婦の状態だった。その質問が出来ないものだから、延々とまどろっこしくなる。この小説中の本当の主人公は先生の話の聞き手なのだが、そしてその立場は我々読者と同地点なのだが、不思議な点があり、主人公がこの先生の人間的魅力によって惹き付けられている事だ。そしてヒロインである先生の妻も、この主人公や我々読者から見て、良く静かに先生を支えている。つまり、二人は綺麗な夫婦。

先生の結婚生活を重たくする先生の罪悪感、罪意識。Kとの恋の鞘当てで先生が採った行動は、ヒロインの母親を押さえる事だった。これは正攻法であり、その作戦は功を奏した。しかし幾ら何でも、ヒロインと話を進める事をせずに母親を先に押さえるというのは、明治の男と言えど奥手に過ぎる。つまり先生は自信がなかった。Kとヒロインが恋仲である事を事実上、そして無意識的に認めていた。

男達の心理から離れて、ヒロインの心理を。これは全くの悲劇のヒロインであるが、漱石の書き方が無骨で曖昧としているものだから、やはり読者には伝わり難い。ヒロインの人生の花の時にまず先生が現れる。若き先生は性格が穏やかで知的雰囲気の豊かな青年だった。そこに先生の友人であるKが現れた。Kは先生と全く対照的なタイプで、軍人であったか否かは全て推測で小説中では正体が不明だが、先生よりは快活で明朗、活動的な青年だと判る様には漱石も描いている。二人の好青年が現れて、二人が自分に好意を抱いている、というのは女性の立場からとても嬉しい状況だっただろう。

女性心理を深く分析する事は無粋だとも思うのだが、もう一歩踏み込む。『こころ』を読了した全ての読者が漠然と思う事だと考えるが、結局ヒロインの”こころ"はどちらに恋をしていたのかという疑問。だがこの点は漱石の目論見で、そういう体裁を取った小説なので後は読者の想像に任せる、と言わんばかり。故に読者の数だけ推測が立つ。視点を変えれば、一つの筋に固定されず読者は読書の間自由な視点で居れる。日本文学の特筆的な独自性でもある。故に、一読者としての一推測だが、ヒロインはKに恋をしていた。そして恋に落ちた。ただ先生を嫌ってはいなかった。寧ろ好感は持っていた。Kが現れなければ素直な"こころ"で先生と結婚出来た。先生の事も好きだったから、不幸なKの事件後も先生と夫婦になる事が出来た。女性の強さで、重い過去でもそれに囚われなかった。

小説中、最大の山場であるのが先生とヒロインの母との結婚の交渉の場面だ。ヒロインの母の対応は特にミステリアスで読ませる。母は先生の談判に応じて、結婚を了承した。ここで母親の心理に踏み込む。この母は恐らくKと娘の関係を知っていた筈。娘の様子が変わった事に気付かない訳はない。故にこの先生との談判中、脳裏で先生とKを秤に掛けただろう。そして先生の卑怯さと意気地無さを認めていただろう。だが、先生を娘婿に選んだ。これは二人の青年の将来性を第一に考えたのだ。これまで進めて来た評者の推測で、Kが青年将校だったという仮定を取れば理解し易いと思う。若き先生は知性豊かで育ちも良く、末は省庁や教育者と見なせる。読者の我々はもっと想像するに容易で、漱石のキャリアを知った上でこの小説に入るものだから良いが、書中の物語の人物達の”こころ"の動きを読み取る為には先入観を寄せなければ掴めない。一方、小説中では徹底してKの出自は伏せられている。Kと娘が恋仲であるのに母はその関係を断った。合理的でシビアな理由があったに決まっている。

ヒロインの母親に結婚の許可が通った先生はKに対して精神的な打撃を与える。これはKが自殺を選んだ決定的動機なのか?これまで書評して来て、どうもそれだけの理由ではないと多いに疑問なのだが、Kの自殺後に先生自身の”こころ"に癒えない傷となって残ってしまう。この小説のタイトル、これは誰の"こころ"なのか?先生のみの"こころ"なのか?それともこの過去の最悪の結末に落ちた恋愛沙汰に関わったそれぞれの人物の"こころ"なのか?漱石はそれを固定していない。飽くまで漠然と、物語に"こころ"と銘打ち全てを読者の"こころ"に委ねている。この小説中、殆ど忘れ去られてしまう本当の主人公は狂言回しの役割の先生を慕う学生、先生の何かに惹かれ先生の元に通っていたのだが先生の最後のメッセージ、手紙を受け取り先生の過去や背負っている業を知る事になる。我々読者と共に全てを読み終え、そしてその後何の感想感慨を語る事なく物語が終わる。故にこの物語には実は結末がない。だからどうなんだ?という問い掛けに漱石は答えない。人間の"こころ"の問題に定式化した解決法はない。最終章を読み終えて、我々は狂言回しの学生と一体となり生前の先生の面影を思う。それは、夏目漱石という人の面影。

小説の内容について思う所は全て述べたので、この小説の時代的な意義について。漱石が乃木希典夫婦の自決事件の報道を聞いてこれに取り掛かったのは言うまでもなく、この時世論の事件についての感慨が割れたというのもほぼ日本人の常識レベル。漱石及び鴎外の世代とそれより若い世代の意識の温度差はあったのだろうが、『こころ』における漱石の追い求めた根本的な主題は乃木事件と関連があったのか?漱石自身は明治天皇崩御後、後追い自殺はしていない。鴎外も同様。二者とも小説の中の人物に半ば後追いをさせているが、本人達にその気はなかった。明治の精神とは何だったのか?殉死という考え方と行動、これは古い考え方なのか?どちらかと言えば、漱石としては乃木希典夫婦の自決事件の報に大なり小なりの共感が湧かない、という人々の持つある種の冷たさに強い違和感を持ったのではないか?『こころ』には殆ど作者の意見らしい意見も表明されていない。恐らく説得的に書いても伝わらない、と諦めていただろう。作品『こころ』は人々の”こころ"に伝わったのか?これも答えが出ていない。日本の文学史上、最も消極的な小説とも言える。時代の前進、世代交代、前の世代は来る世代に対して消極的に成らざるを得ないのかも知れない。『こころ』を通過して数作品を物し最後の『明暗』を未完成で尽き果てる漱石だが、この時期から後に日本の文学が拡張し始め花開き始める。この『こころ』までである種の明治期の西欧風文学創作法の消化が成し遂げられて、それを自分達の手で新しい作物を作り上げて行く様に変わった、とは言い過ぎか?この『こころ』という作品に時代のターニングポイント、日本文学史上の世代交代劇の中心支点としての意義、これを認めたい。

『こころ』の書評を続けて来たが、ここで終わる。最後に、個人的な空想。つまり蛇足なので漱石の愛読者には失礼に当たるかも知れないので読まないで頂きたい。
この作品は半分以上が靄が掛かっている。現代的に言うと、大半がマスクがかっている。そこで、これまでの評者の邪推を使用して再現してみる。

Kは初めから軍人の青年。先生も殆ど漱石の分身なのだから将来は英語圏の教育者の青年。最初の友情物語を温かく、恋愛の縺れからは嫉妬と邪念の泥試合にする。ヒロインは作品中もミステリアスなのだから、更に激しく二人の青年をこれ見よがしに揺さぶる。登場人物ももっと増やし、先生の友人を数人加え恋の綾を縺れさせる。日清日露の戦争の時代背景もこの青春群像に明確に合わせる。漱石は作品の結末を切り捨てて余韻を取る方を選んでいるが、やはり先生を慕うこの青年も重要な立ち位置にいるので、最後は先生の妻、要するにヒロインと最後に対話を取るのも余計ではないような気がする。


以上の邪推を、例えばバルザックの様な作家に任せたら現行の『こころ』の三倍程の分量で書き上げるだろう。バルザックなら、更にスキャンダラスに更に心理戦の攻めぎあいを濃厚に描く。谷崎潤一郎の方の一団が大喜びしそうな物に仕上がる筈だ。


以上、完全なる蛇足。漱石論を書けた事は個人的に非常に有意義だった。

2023 8/29

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